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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

256復興G:2011/08/14(日) 20:27:56 ID:Ir7svY6w

榎本先生は、『試論「波状光明化への道」─内なる神に捧ぐるレポート─』というA5判360頁ほどの本も自費出版されていて(これは『弟子像』よりさらにレアな本かも知れません)、私は頂いているのですが、その序文に当たる「覚え書き」というところに、次のように書かれています。

   * * * * * * *

 茲に為さんとすることは、全く新しいことではなく、尊師谷口雅春先生の御示し下さった道を自らのために鮮明にせんとしたものであり、限りないなつかしさをもって尊師の御いのちに回帰する道である。それがそのまま中心(すめろぎ)への帰一の道であり、天皇への回帰の道であり、中心(すめろぎ)のいのちの動く姿となり完成なるいのちの持続となっているのである。

 イエス・キリストが「汝の罪赦されたり」と人類に向かって宣言したとき、当時の人々は「誰れが罪を赦す権利をイエスに与えたのであるか」と言ったのである。これに対する答えは「汝、誰れからも許可を得るに及ばず」と天からの声はイエスに降り淺いでいる。神は誰れの許可を得て天地を創造せられたのであるか。神はただ許可を与えるだけである。それが生命の相(すがた)である。

 何か時の萌しというものを感ずることがある。何か偉大なる時の近づこうとしつつあることを感ずる。それは何であり、どのようなことかは知らない。この“時”と云うものは自我を死に切っている生命には聴くことが出来るのであろう。

 この書はその“時”のために必ず必要とされるべきものである。そのときのために自然と準備したくなったのも、既に、その“時”と云うものに導かれていると云うことが出来るかも知れない。このような時のためには色々なものが動き出しており、それは天界、霊界、現界においてそれは起っているであろう。その意味で、もっともっと善きものが現われて、この書が必要でないと云うことが興れば、それは幸いなことである。しかし、必ず時は来たる。

──と。そして
──(つづく)


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