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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
240
:
志恩
:2011/08/13(土) 05:40:02 ID:psrFh/ZU
「弟子像」の山口先生の部に、恵吾先生は、企画局の佐脇嘉久(さわき よしひさ)とのエピソードもいくつか書かれています。s39年に佐脇先生に山口先生宅へ連れて行っていただいたこと等。
こちらの佐脇先生はのほうが、山口先生より 企画局では恵吾先生と波長があったのではないかと思います。
佐脇先生(本部講師)は、早大政経学部、国立音大でピアノと作曲を学ばれ、本部で聖歌隊の指導もされてました。大変宗教的なお方で、もの静かでおちゃめで人格者でもありました。
著書に「やさしく書いた日本の神話」「國と人のロマンを語ろう」。。(日本教文社)がありますが、
この佐脇先生は、林 光彦元本部講師と、とても仲良しでもあり、お二人とも山口先生のことは、私が本部におりましたときは尊敬しておられました。
私も、たしかs39年に、山口先生のお宅に遊びに伺ったときは、林 光彦先生と私と二人で行ったんですけれどね。玄関のあがりかまちのところが先生の部屋になっていたとありますが、じつは、実際の山口先生のお部屋は、2階にあったのですが、あまり多くの本を買い込まれたので、
本の重みで、2階の部屋の床が抜けてしまったそうなんですよ。でも、お金がなくて、抜けた床を修繕することができなくて、しかたなく玄関に住んでおられた。伺った時説明されました。理事でもお給料安かったし、本も自腹で買ってた時代です。
先生の奥様は、和裁の内職をされてました。お子さんが、4人おられましたし、生活はきつかったと思います。
林先生と私と二人、本で出来たかまくらのような部屋のなかで、積み上がっている単行本と単行本の隙間に、山口先生と向かい合って座りました。
ほんとは二人の聴衆しか居ないのに、山口先生は、まるで600人は居るかと思われるような、熱弁で大演説されました。「限りなく日本を愛す」という愛国心の話、天皇様の話、自分が生長の家に入信して、いかに世界一の幸せ者だかという話を切々と
つばを飛ばしながら、3時間もされましてね、そのとき、私達は、すごい感動しながら帰途についたことか、いまでも忘れられないほどです。
あの純粋だった愛国者の先生が、なぜ唯物論的構想の「数は力だ」になってしまわれたか。ふしぎです。。
思えば、私が本部におりましたときは、企画局の直ぐ隣の部屋の白鳩会中央部局長の古川 恵偉(えい)全国講師が、全国規模の「白鳩誌100部一括運動」を大展開されてまして、4人の白鳩会全国講師は、各県でひらかれる白鳩会大会、白鳩一泊見真会に出席するたびに
各県連の白鳩会連合会長が、先生への手みやげに何百部、何千部の白鳩誌の注文書を手渡されておられました。それで、末端信者さえ、100部は、むりでも10部一括はしてました。
それが、ものすごく、白鳩誌の誌友拡大につながりました。そういうのも影響されたのかなぁ。
それから、生政連の選挙が、数度実施されている時代です。候補者を当選させるのは、どうしても「数」が必要なのです。それで、山口先生は、「数」のほうに心が奪われていったのかもしれないな、とも感じました。真偽のほどはわかりませんが。
山口先生は、ご本に書かれている以外の病気にもかかっておられた事は、後に、私とも仲良しだった佐脇先生から直に聞いていますが、「歌人で学者だった山口先生には、不向きな仕事を、ものすごくがんばられたので、ストレスだったんだろうな、」とのことでした。
榎本恵吾先生の【弟子像】を、もしも山口先生が、ご覧になられてたら、もっともっと、心やすらかに明るく澄み切りのご心境で、ほんものの光明化運動をよろこびながらされたのでしょうね。それを思いますと、残念でなりません。
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