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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

236「訊け」管理人:2011/08/10(水) 12:47:22 ID:UodBcqiE


 昨日も『弟子像』を拝読しておりましたんですが・・・いやー同書、やは
り皆さんで読んでみたい本です。やや話の流れを「切ってしまう」かのよう
な、そんな印象の話題になりましょうけど、組織部外者が問題を大所から眺
めておりますと、以下抜粋箇所は重要に思えてなりません。各位に於かれま
しては以下御文章、ご高覧くださいますと幸いであります。

――――――――――――――――――――――――――――――

 ある日徳久先生は「単なる数を集めて、数は力だ、というのは
唯物論ですよ」と言われたことがあった。・・・(中略)・・・
さて、釈迦が、「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」と
言っている以上は、釈迦の見る限りのものが成仏しているのであ
る。それ故、迦葉だけでなく、そこに居合わせた聴衆全部が成仏
の姿そのものであったのである。人だけでなく、月も山も川もす
べてである。有情非情であるからには、迦葉の微笑が成仏の姿で
あれば、釈迦の涅槃に際して〝少しも金剛不壊の身体を見ません〟
と言った迦葉も、その発する声もすべて成道であったのである。

 このような時、たしかに数が多く集まれば、光が多く集まる
ということで、数が多いということと光が多いということは一
つのこととなっている。しかしこれは光を多く集めたから光と
なったのではないのである。

 尊師が「数は力なり」と言われたのは、感謝し、礼拝せずに
はいられない、光りある人々に向かって言われた言葉であって、
集まってから光りとなる光の一歩手前の人々に対して言ってい
る言葉ではないのである。

『弟子像』336項
「私の中の徳久克己先生」より
榎本恵吾著

――――――――――――――――――――――――――――――

 まあ、どんな運動にせよ、それがたとえば「総裁追放」であれ「擁護」
であるにせよ、リーダーが参加各位を「神として拝んでいるのか?」これ
は重要なことだと思います。雅春先生もかつて「数は力なり」という趣旨
のご発言をされておられます。が、それでもそこで言われた「数」とは、
光りの数のことなのであり、これは「リーダーが拝みださなくては出てこ
ない」ものなのではないでしょうか。

 ああ、この榎本先生のご指摘ですが、これ、非常に重要なことなのではな
かろうかと。

追伸

「現総裁の粛清反対!」しながら、投稿者を粛清する掲示板や、総裁追放を
主張しながらも、対話希望者まで追放する運動・・・我々はこれに違和感を
覚えるわけですけど、この違和感の正体は、この、榎本先生のご指摘にて明
確に説明できるのでありましょう。
 彼ら、総裁追放を主張する勢力にはこの、雅春先生のような礼拝が欠如し
ているように思うのです。それゆえいくら主張し同志(=数)を募ろうが、
真に機能せずにいるのではないでしょうか。
 そして、「運動員を光りとして礼拝する」という基本を、頭から欠如させ
ておられながらも「雅春先生の御教えを護る!!」と言われるわけです。
(しかもコワモテで)まあ、こんな光景を『生命の實相』愛読でしか生長の
家を知らぬ身が見れば、それはやはり、コメディーにしかならぬと思います。

 集めた「数」を、真に機能させようと思うならば――それは「本気ならば」
と同義ですが、今、なにをされるべきでありましょうか。
 今回は追放派のみを例に出しましたけど、そうではない党派に於いても上
記の『弟子像』御文章は、余程心して拝読せねばならぬものではなかろうか
と。


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