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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
2020
:
トキ
:2015/09/15(火) 20:03:44 ID:FzzGVrCQ
近衛文麿元首相が亡くなることで、佐々木惣一博士の作られて憲法草案も近衛文麿元首相が
作った憲法草案も事実上、不採用になりました。ただし、憲法調査会の側もこの事件が契機に
なり、憲法改正の作業を急ぐことになります。(「史録 日本国憲法」 p186)
ただし、その時期は「桜の咲く頃」を目標にしていました。が、マッカーサー司令部の側は
そんなに待ってはくれませんでした。
ここで前提として知っておかなければならないのは、ポツダム宣言の内容から、建前として
は日本側が自主的に行動を起こし、それを連合国総司令部が監督する、というシステムに表向
きはなっていたことです。もちろん、これは建前で、実際には降伏の際の詔勅や天皇の人間宣言
の詔勅が米国側が原文を用意したように、米国が裏面で指示していたものでした。
従って、アメリカ側としても、建前としては、日本側が憲法草案を出すのをとりあえずは
待っていたのです。しかし、憲法調査会は結構マイペースで作業をしていました。
この頃、アメリカ本国では、極東委員会が発足していました。これはソ連も含めた連合国側
11カ国で結成されており、憲法改正を含めて、日本の占領統治を指令するシステムになってい
ました。この極東委員会が動き出すと、マッカーサー司令部はその指揮下におかれます。つま
り、今まで通りのような、フリーハンドで日本側に指示することができなくなります。
マッカーサー元帥は焦り出したのでした。
(つづく)
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