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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

2003トキ:2015/09/02(水) 22:49:46 ID:FOECYR/M
 「生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2 」板で続けていた書き込みをこちらへ
続けます。

 今はそんな人はほとんどいませんが、戦前や終戦後の共産党というのは、インテリの間
で大変な威厳がありました。「昭和思想史への証言」という本の中で、東大の政治学の教授
だった丸山真男さんが、彼より3、4年上のインテリから見たら、共産党というのは、「後光」
がさしていた、と言っています。

 特に、当時の共産党の指導者だった徳田球一は、たいへんな扇動者で、彼が演説をすると大衆
が沸きかえる、という状態で、どんどん共産党が広まっていったのです。

 少し脱線すると、徳田球一というのは沖縄県出身の弁護士で、たいへんな情熱家です。戦前や
戦後の共産党はソ連から秘密資金援助を受けていたのですが、戦前、ソ連からの資金で芸者をあげて
どんちゃん騒ぎをしていて横領犯人と間違えられて警察に捕まったり、「俺を指導者にしろ」とソ連
のコミンテルン(国際共産主義運動の指導部)に頼み込んで、そのあまりにも卑屈で卑劣な態度が
周囲の反感をかってしまし、逆にコミンテルンから「このような野心家は指導部に二度とあげては
ならない」と日本の共産党へ司令がくるなど、あまりお上品な人ではありません。

 しかし、演説家としてはかなり有能な人物だったみたいです。

 最後は亡命先のモスクワの病院で発狂して死んでしまいます。まあ、政治家としてはごめんですが、
人物としては面白い人だと思います。

閑話休題。

 当時の共産党の勢いというのはすごいものでした。

 昭和22年にゼネストをうちますが、それが成功したら、本気で日本政府を転覆させ、「民主人民
政府」をつくることを考えていたと言われています。少なくとも、徳田球一はそう演説をして回って
いました。一説によれば、秘密に閣僚名簿まで作っていて、「首相 松本治一郎、外相 野坂参三
内相 徳田球一 農相 伊藤律・・・」という候補があがっていた(ただし、当時、共産党の指導部
にいた袴田里見は「私の戦後史」の中でこれを否定しています。)とすら言われています。

 この共産党が憲法草案を作ったというので、新聞が大々的に取り上げたのです。
この憲法の草案は、当然、「君主制の廃止」を含めた憲法でした。当時の共産党の勢いが広まると、
その頃の共産党は占領軍とべったりの仲ですから、本当にこの憲法草案が成立する危険性があった
のです。

 近衛文麿元首相も松本烝治大臣も危機感を覚えました。

(つづく)


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