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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
1855
:
神の子さん
:2012/12/13(木) 16:11:45 ID:3Dk63Vjg
大東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破して韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任された後、アメリカ上院で証言し、
「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だった」と証言したのである。
日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。
東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。
これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。
即ち「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。
これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。
それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。
日本は戦争はしたくはなかったのだ。しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。
日本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。
そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。
インドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。
「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカにたいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。
再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。
(この続きは「光明掲示板」でご覧下さい)
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(参考)
「大東亜解放戦争」上下巻 岩間 弘 著
発行所
〒 981−1505
宮城県角田市角田字裏町156−31
TEL: 0224−62−1783
FAX: 0224−62−1778
郵便振替: 02240−9−46042
(尚、著者・岩間弘氏は誌友信徒の方でもあります。)
平成24年10月22日発信
本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合・作成
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