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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
1277
:
うのはな
:2012/07/15(日) 10:47:19 ID:gTn97m6I
批判は愛があるからこそ
まず、非常に当たり前のことなのに多くの人たちに忘れられている、あるいは見過ごされていることがあります。
それは、批判は非常に愛に溢れた行為だということです。愛が大袈裟なら、敬意や承認でもいいでしょう。
「愛憎」という言葉がありますが、この漢字のセットは対立概念ではありません。
「愛と憎しみ」という対極的な感情がお決まりのフレーズとともに使われますが、実は愛の対立概念は憎しみではありません。
私から言わせれば、「憎しみ」も愛に溢れた感情です。誰かを憎むというのは、大変なエネルギーを必要とする行為だからです。
対象にに向けた相当な気持ちを動員しなければ、そうそう憎むことなどできません。
ですから、愛情の対立概念は憎しみではなく「無関心」なのです。
対象を路傍の石と見なすことです。
この前提からすれば、批判するということは、相手に多大なる関心を持っているということです。
それはつまり根本的な部分では相手を承認し、そこに愛情が存在することの証なわけです。
批判とは、相手を愛玩動物のようには扱わず、ひとりの発話する人間として重んじているということです。
確かに愛玩動物のように相手を扱うと、相手からひどく嫌われることがありません。
未熟な人間は、そのことをもって「自分は愛されている」という哀しい誤解をします。
こういう関係をよく大学でも目撃します。学生を愛玩動物のようにすべて肯定してやり、褒めてやり、気持ちのよいところを突いてやり、
笑顔を絶やさない扱いをしているのを見て、私は本当に「冷たいことするなぁ」と思います。
そういう教員を私は「ツンドラ教員」と呼んでいます。
冷たいなと思いつつも、他方でその教員の気持ちもよくわかります。すべての学生に同等の愛情を傾けるなど不可能ですから、自ずと強い意志を持って
学びの場に臨んで来る者たちに多くの愛情を注ぐことになってしまいます。
そんな時、そうでない多くの者たちを路傍の石にしてしまうと、彼等は拗ねてしまいます。
これがエスカレートして、デタラメで甘ったれた、嘘まみれのクレームでもつけられたら大変です。そのリスクを低減させるためには、愛玩動物のように扱うしかない
場合もあります。会社でも同じようなことがあるでしょう。
話がやや逸れましたが、要するに批判するのは、相手をどこか重んじているからなのです。
だから、批判をしたりされたりするやり取りの存在は、実にありがたいことです。
そうでなければ、そんな面倒なことを誰がするのかと言いたくなります。
『働く大人の教養課程』 岡田憲治 著
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