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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
1214
:
SAKURA
:2012/07/04(水) 18:29:05 ID:V.pKl3yA
<つづく> No.2
>>1213
続き投稿です…。
以前にも一度紹介したことがあるとおもいますが、創刊号には「三種の愛」という雅春先生の
文章が載っています。短い文章であります。…云々…
先ほどは、『愛しているから』という清超先生の聖歌が歌われましたが、あれは一番から四番まであって、
それぞれが一つの“愛の形”について述べられている。仏教的には“仏の心”です。
慈・悲・喜・捨という四無量心が、それぞれ一番、二番、三番、四番に対応して説かれているのです。
つまり、あの聖歌は四無量心の歌なのであります。
創刊号では「三種の愛」であって、愛の形は三つなんですね。…しかし、中身をよく読んでみますと、
これはまったく四無量心のことを、別の言葉で説いているということが分かるのです。
■愛せよ。少しも求めずに愛せよ。これが愛の秘訣である。
こんなに愛してやっているのに相手はこうだと非難するな。呟くな。
愛は、その結果がどうなるからとて愛するのであってはならない。
愛すること、そのことが神の道だから愛するのだ。
愛すること其のことが幸福だから愛するのだ。
結果をもとめた愛は必ず不幸に終る。
愛の三つの段階――
第一階は愛した結果を予想するところの愛である。これは功利的な愛である。
利益にならなければ腹が立つ。
第二階は相手が喜んでくれるから愛するのである。これは功利的ではないが相手が喜んで
くれなかったり、相手が自分の好意に気がついて呉れなかったから腹が立つ。…云々…
第三階は至上階に位する愛である。第一階の愛も、第ニ階の愛も、共に『我』がある。
『自分がこうした』『自分がああした』『然るに彼は』と云う風に、『自分』と云うものを
脱げ切っていない。至上階の愛は『自分』を全面脱却している。それは飄々乎として捕えんと欲すれど
捉えることが出来ない。『先刻はこんな結構なことをして頂きましてどうも有り難う』と云われても、
『ヘエ、わたしが? 何時そんなことをしましたかねえ。』と空とぼけるのではないが、
心から自分の愛の行為を忘れて了ったような愛である。
それは自分がしたのではない神とともなる時、おのずから出来た愛であるから、『自分がした』と云う
感じが少しも残っていない。
これが かんながらの愛である。
神流れの愛である。
神催しの愛である。
神と偕なる愛である。大菩薩の愛である。
このように三段階に分けた一番最後のところは、四無量心の最後の「捨徳」のことを指していることが
お分かりと思います。
生長せんとする家は このたい愛を目標にして進まねばならない。
ここには、生長の家の「生長」という文字が使ってある。
ここにある「生長しようとしている家」とは、何を指しているのでしょうか?
「生長の家」という宗教団体は、この時代にまだ存在していなかった。「生長の家」というのは当時、
月刊雑誌の名前にすぎなかった。
その『生長の家』誌の創刊号に「生長せんとする家は」と書いてあるのですから、これは
「この雑誌に共鳴してくれる人の家は」という意味であり、結局、「生長の家の信徒は」という意味です。
「生長の家」という言葉は、この創刊号で初めて世に出たのですから、……
だから、雅春先生は「生長の家の信徒はこの大愛を目標にして進まなければならない」――
そういうことを書かれているのです。
…云々…
<つづく> No.2
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