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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

1トキ:2011/06/20(月) 13:07:03
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連し、
「生長の家政治連合」と「今の教え」について、自由に議論をするため
に作成したスレッドです。
 生長の家に関連する話題なら、上記に話題に限定しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。

2トキ:2011/06/20(月) 13:12:10
<はじめに>

 この論考は、現在の状態に至までの生長の家と生長の家政治連合の概略を述べるとともに、現在の組織に与えた影響を考察したものです。

 生長の家政治連合は、現在の生長の家教団内部では、タブーになっています。また、「本流復活」と言われる人々の間でも、評価は別れております。
 最初にお断りしておきますが、私は、生長の家政治連合の活動そのものの評価をこの文章で行うつもりはありません。しかし、生長の家政治連合をタブーにしている現状には、一石を投じたいと考えております。

私自身は、当時、生長の家政治連合(生政連)にはほとんど関わっていません。ですから、生政連の是非や結果を論じる資格はないと思っています。また、直接、関与して
いなかったため、その情報の多くが、書物や伝聞によるものである事はご理解下さい。ここに書かれている事が「正しい」というつもりはありません。あくまでも、現在の生長の家の状態を説明する、一つの仮説だと思って下さい。おそらく、当時の関係者や歴史に詳しい人からは、不満がでるとおもいます。
 実は、この問題を論じると、本が1冊できるぐらいです。ですから、かなり事実関係を簡略化しました。其の点、あらかじめお詫びします。

 生長の家政治連合の関係者は、現在でも多数ご存命です。また、当時の関係者の証言もようやく聞かれるようになりました。多数のご投稿をお待ち申し上げます。

3トキ:2011/06/20(月) 13:13:38
<初期 谷口雅春先生時代>

 生長の家は、谷口雅春先生が始められたのですが、集会も当初は近畿地方や東京に限られていました。そのうち、全国で本を読んで、救われたという人達が本部に問い合わせて、近所の誌友と連絡を取り、勉強会を始めて、自然発生的に各地で支部が出来たのです。その後、急激に教えが広まると、各地で支部が出来、講演会も開かれるようになりました。しかし、支部の運営は有志の寄付などに頼っておりました。教化部長も常駐せず、定期的に本部から本部講師が派遣され、講話をするシステムでした。ですから、各地の支部は独立独歩の気概が強く、本部方針も細かい点まだは指事されませんでした。
言い方は悪いですが。家族的な雰囲気があると同時に、まだ、現在的な意味での「組織」ではなかったとは言えるでしょう。
 谷口雅春先生は、人間的な魅力に溢れ、教えの素晴らしさと相まって、信徒は父親のような気持ちで接しておりました。家族のような雰囲気が部内には溢れていました。
 戦争中、あるいは戦後は困難な時期が続きましたが、信徒はよく団結し、教団を守りました。(私は、この時期までの生長の家を“初期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

4トキ:2011/06/20(月) 13:15:05
<前期 谷口雅春先生時代>

 戦後は、生長の家の信徒が急速に増え、組織も拡大しました。
そのため、従来のような組織では、運営が出来なくなりました。試行錯誤の末、聖使命会員制度が発足、近代的な組織への一歩を踏み出しました。同時に、やや中央集権的な組織になりました。が、組織は順調に拡大し、信徒も増加の一途をたどりました。
 その頃、共産党などの左翼党派が跳梁跋扈し、安保改正などもあり、国内の思想状況は悪化していきました。そこで、愛国者陣営といわれるグループから生長の家に支援要請が届くようになり、それに応えて生長の家も少しずつ政治への接近を始めました。当時は、右翼陣営の世間的な信用は低く、評価の高い生長の家への期待が高かったのです。が、思想の悪化と左翼勢力の拡大は止まりません。国内の危機的な状況に、ついに、谷口雅春先生は、「日本を守るためなら、生長の家が潰れても良い」とのご信念のもと、生長の家政治連合を結成し、全面的な政治への参加を決意されたのです。
(私は、この時期までの生長の家を“前期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

5トキ:2011/06/20(月) 13:17:56
<中期 谷口雅春先生時代>

 この時期以後、生長の家は、純粋な信仰運動だけでなく、政治運動も始める様になりました。そのため、組織のあり方も中央集権的になり、運動のあり方もや組織のあり方、部内の雰囲気など、多くの点で変化が生じました。森田=安東の両先生などはこの時代の申し子と言えるでしょう。
 一部の信徒は、政治への接近に批判的でしたが、反面、当時の青年を中心に、情熱的な運動を求める雰囲気が強く、青年会を中心に、活動は活発化しました。その意味で、当初は生長の家の教勢発展に寄与したと言えるでしょう。元号法制化運動など、各種の運動で成果を挙げると、いよいよ政治への接近傾向が強まり、生長の家政治連合の関係者が肩で風を切る傾向が強まりました。

 生長の家政治連合は、生長の家教団の一関連団体にすぎないのに、実際には、生長の家を代表するような言動すらするようになりました。時には、総裁の権威をも無視する場合もありました。その反発を押さえる為に、生長の家政治連盟を中心とする上層部から中央集権化を合理化する教学が強化されました。私はこれは、組織教学と密かに呼んでいます。当時、谷口雅春先生はご高齢で教団運営の実務から離れつつあり、後継者の谷口清超先生の権威はまだ完全には確立していなかったので、生長の家政治連合の人達がその間隙をぬい教団に大きな影響を与え増しア。そして、彼らが、この組織教学の中心的な提唱者でした。

6トキ:2011/06/20(月) 13:20:49
<組織教学>

 これは、私の勝手なネーミングです。
 生長の家の「中心帰一」とは、真理や理念の中心への無条件の帰依を意味しました。
あるいは、「道」を大切にすること、「大調和」を大切にする事をも含みました。無理矢理の服従ではなく、心からの調和がポイントでした。が、この時期以降の中心帰一は、「上層部への無条件の服従」という意味へ拡大解釈されるようになりました。その上、総裁=副総裁=み教え、というラインが、現象人間の「総裁、副総裁」という意味をも含むまで広まりました。これが行き着くと、その世界は、生長の家ではなく、昔の陸軍の内務班になります。実際、谷口雅春先生の直弟子の本部講師が、「これは(生長の家の)中心帰一ではない。支那式服従だ。」と断言されたのを、この耳で聞いております。
 この時代までの教団内部の雰囲気は家族的でしたが、これ以後は、良い意味でも、悪い意味でも、軍隊のような雰囲気が混じりだした、と古い信徒さんは回想をしております。
 組織教学の弊害は、教団が正しい理念に基づき、運営されている間は、問題が生じませんでしたが、今日のような間違った理念の下で運営されると、その弊害は著しいものになります。
 生長の家政治連合の当時は、ご高齢になられたとはいえ、谷口雅春先生もご健在で、上層部にも谷口雅春先生の直弟子がご健在でした。暴走を指摘される生長の家政治連合の指導部も、部内では実力者だった森田=安東先生ラインでしたから、それなりの権威もありました。いわば、優れた指導者と有能な側近が健在なため、弊害はすぐには表面化しませんでした。
  なお、組織教学は、これ以後、総裁の交代や重要な運動方針の変更で、組織部内に動揺が生じたたびに、動揺を収めるための手段として、強化されていきました。

7トキ:2011/06/20(月) 13:22:11
<政治との絶縁生命>

  教団の過度な政治への接近は、信仰への軽視を生み出す場合もあり、次第に部内からも批判があがるようになりました。生長の家政治連合の関係者の専横も目立つようになりました。生長の家政治連合が推薦した議員のスキャンダル、支持政党の政治汚職なども加わり、内外から批判の声があがるに至りました。優生保護法改正での支持政党が約束を反故にした事等、政治への不信が強まり、遂に、谷口清超先生が、谷口雅春先生のご了承を得て、政治活動の停止を宣言しました。同時に、生長の家政治連合も解散となりました。
(私は、この時期までの生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

8トキ:2011/06/20(月) 13:24:00

<政治活動停止の疑問点>

 教団の政治活動停止の経過は、今日でも公になっていない点が多いです。

 政治活動停止が正しい決定だったとしても、段階的な廃止という手段もとれたはずです。なのに、何故、いきなりの停止だったのか、疑問があります。

 当時、「聖使命」新聞紙上に掲載された、「生長の家政治連合解散、政治活動の停止」についての声明文は、今から思うと、谷口雅宣先生のご文章と類似点があるような気がしております。気のせいでしょうか? 最近、公表された村上氏の回顧録を見る限り、谷口雅宣先生が生長の家政治連合に極めて批判的な言動を当時からしていたようです。

 谷口雅春先生が、生長の家政治連合の解散の報告を聞き、激怒された、という噂が教団内部に今日でもあります。が、教団の公式見解、ならびに本流復活の中にも、谷口雅春先生はご納得されていた、との事です。この点について、私は判断をする材料を持ちません。

その他、不明の点が多々あります。今後の解明が待たれます。

9トキ:2011/06/20(月) 13:26:35
<後期 谷口雅春先生時代>

 谷口雅春先生は、長崎に生長の家総本山を建立、信仰の力での日本国の実相顕現と世界平和に方向を転じられました。その後、共産主義の間違いが周知になり、冷戦崩壊へとつながったのはご承知の通りです。
 谷口雅春先生は、教団運営の実務を谷口清超先生に任せ、ご自分は長崎の総本山で、もっぱら、祈りによる日本国実相顕現に時間を費やされました。その後は、亡くなられるまで、総本山での活動を継続されました。この時期は、比較的に安定した時期でした。
(私は、この時期の生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)


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