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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

965志恩:2011/08/22(月) 20:18:04 ID:psrFh/ZU
951>山ちゃん1952様のご意見に、私は、つよく共感しています。

話は、別ですが、
昭和30年代半ばすぎの生長の家青年会員が、生き甲斐のある、生き生きとした人生を歩むことができたのは、生長の家に、自国を誇れる「愛国心」や、天皇様を尊敬できるみ教えが、あったからだと思っています。

私が、本部奉職時代のこと、当時私が住んでいた東京のある地区に、「来られる講師の先生、来られる講師の先生方に、口々に、この青年会は、東京1だ、全員が委員長クラスの人材が揃っている、と絶賛されていた 生長の家・青年会支部会」がありました。
神誌にも大きく紹介されました。その青年会は、
最初は私が一人で、本部の帰り道に戸別訪問して、途中から、共感してくれた男の子と二人で戸別訪問して、新設して出来た青年会でした。発会式には、24名(男性19名、女性5名)の参加者があり、2回めからも、じわじわ増え続け、一人の脱落者もありませんでした。

それは私に共感して一緒に戸別訪問してくれた大学生のF君が、、私より年下でしたが、じつに優秀で明るく性格もよく、すばらしい人だった。そういう幸運が大でした。私は、そのF君を委員長にして、自分は、副委員長になりました。
その青年会支部は、JR駅に近いF君ちで開かせてもらえました。ご両親も生長の家でしたから。

(F君は、その翌年、台東体育館で開催された生長の家全国青年大会において、”弁論大会”に東京代表で出場し、見事全国優勝して、われわれは、よろこびあった思い出があります)

そのころは、日教組が強い影響力も持っていて、学校の社会科の時間、教壇から先生は、天皇様のことを「天ちゃん」と呼び、天皇様を敬愛してるとわかると「右翼」と、卑下していた時代でした。左翼であり、自国のことを、悪く言うのが、進歩的文化人だった時代、
我々、青年たちは、生長の家の真理を学び合い、自分が住んでいる国が、じつは、すばらしい国だったのだ、誇れる民族でもあったのだ。(天皇様のこともですが)と理解することができたことにより、自分自身にも自信と誇りをもてる人間に生まれ変わることができたのだと
思っています。

青年会活動は、真理を学ぶ、静の部分だけでなく、動の部分では、社会に向かっては、駅前で優生保護法の署名運動。S43年の「倉石農相発言は、無罪である」問題のときも、駅前で署名運動や、みかん箱の上に立ち、みなで演説活動もしましたよ。

青年会員は、高校生、大学生、サラリーマン、職人、共産党から脱退したばかりの無職の人、様々でしたが、(共産党から、脱会した30前くらいの男性は、右手の小指と薬指が、なかった。脱会すると申し出たら、共産党の組員に切断されたそうです。)

私達は、雅春先生の国家観という筋金をいれていただいたので、生まれ変わったように、数倍の力をいただいて、学校でも職場でも、自分個人のためでなく、家族や国のために働くという広々とした強く明るい、気持ちで生きて行くことができたのだと思います。

では、愛国心を持つと、世界とのつながりは。。。


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