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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

848復興G:2011/07/28(木) 20:26:26
>847 :初心者様

 実は私も、最初から祈りが好きだったわけではありません。
 私もかつて、高校2年生の終わり頃まで、目に見えるものだけが信じられるものであって、目に見えない神とか仏とかを信じて祈る人というのは少し頭の足りない人だろう、あるいはもう棺桶に片足つっこみかけたような年寄りが、「死んでも命がありますように」と、溺れる者が藁をもつかむような気持ちで祈るなんて、「死んだら命はないに決まっているのに、ばかばかしい」ぐらいに思って、信仰心を持つ人を軽蔑する思いをもっていました。
 ところがある日突然、天地がひっくり返るような、観の転換が起こったのです。見えるものは夢まぼろしのように、本当にあるものではなく、むしろ目に見えないもの、生命的・霊的なものこそが実在するのではないかと。
 そして、本当の「祈り」というのは外なる何ものかに泣きつくことではなく、内なる生命の声を聴くことだ、ということを谷口雅春先生から学びました。
 ところが、「神想観をせよ。理屈で、頭で考えたってだめだ、神想観しなければ生長の家じゃない、神想観しなければ救われない」などと言われると、私は猛反発しました。「それじゃ、谷口雅春先生が生長の家を創始されるまでの人たちは救われることが出来なかったのか? 神とは、そんな不完全なものしか作れなかったのか」と。
 だから、私も神想観は嫌いで、苦手でした。「生長の家は“ねばならぬ”という束縛から人間を解放する」と言いながら“神想観はせねばならぬ”というのは矛盾している、と思いました。
 『生命の實相』は第1巻から第8巻までが特に基本真理が説かれていて重要だと言われますが、私にとって一番コミットするのは第7巻「生活篇」で、その他の巻は退屈でした。「生活篇」を読んで心を躍らせ、がんばっていました。
 それでも、私は初心者さまのように“だんじて祈りはせぬ”という思いを貫く根性がなくて、ある時から、教化部で行われている早朝神想観の集いに毎朝参加するようになりました。
 それは、榎本恵吾先生に出会ったことが大きなきっかけでした──。

(このつづき、後ほどにさせてください。)


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