[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える
1733
:
志恩
:2012/06/30(土) 21:41:23 ID:.QY5jUA6
初心者様
渋谷先生の本で教わりましたが
ウイリアム・ブレークは《知覚の扉が澄み切っていれば すべての事物はあるがままの永遠のすがたで現れる》と言っています。
現代人は
言葉とか色とかを 五官の目で見、五官の耳で聞く習慣があるので、言葉や色が、「共通な伝達物」と化し、社会的公共性を身につけ、
伝達をこととする記号、日常言語としてしか捉えなくなっているのではないでしょうか。
たとえば、ふつう、富士山を見る時、「共通な伝達物」としての富士山を見る。しかし、人生や宗教を深く考えたり、また詩を創り、
絵を描く人は、富士山を見ても、言葉としての富士山を見てはいません。富士山の裏側を見、至福の実在世界を観る修行をしているのです。
主題は、富士山でなく、富士山を観た生きた感動なんです。相手を対象として見るまえに、相手の声に聴き入る。
《事物がありのままで、しかも永遠の姿で現れる》という思想を勉強し続けているのです。
そのテーマを勉強し続ける喜びは、生長の家の教えを学ぶのと同じ思いだと考えています。
人生を真摯に考える性格の人は、
人間としての自分に思いを致す時、「救われたい」というまえに、「自分とは、いったい何なのか?」という必然的な疑問を抱きます。
見えない実在世界を見たいと思います。それが、宗教に振り向くときの第1歩の気持ちなのでは、ないでしょうか。
初心者様は、信徒のことまで、救済が欲しくて欲しくて仕方がないのだ、というようにばかにした言い方をされるので、それは以前、
原理主義者だと古い信徒に おっしゃった雅宣総裁先生の言葉を連想しますから、いよいよ、あなたは、あやしげに思われるのです。
{感動について} 渋谷晴雄 詩(光の楽譜より)
永年富士山を描いてきた梅原龍三郎は
これまで三度だけほんとうの富士を見た
と自分で言っている
そのときの感動で 絵を描いているという
人は 山を美しいというが
人が見るのは 山ではない
山にまつわる言葉の群だ
草も 空も
誰の目にも 同じように在るのでは
ない
言葉を失って
人ははじめて気づく
美とは じつは得体の知れないものに
見据えられていることなのだ と
そのとき
はじめてうまれるものに
おどろいて 立ち会うことだ と
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板