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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

1733 志恩:2012/06/30(土) 21:41:23 ID:.QY5jUA6
初心者様

渋谷先生の本で教わりましたが
ウイリアム・ブレークは《知覚の扉が澄み切っていれば すべての事物はあるがままの永遠のすがたで現れる》と言っています。
現代人は
言葉とか色とかを 五官の目で見、五官の耳で聞く習慣があるので、言葉や色が、「共通な伝達物」と化し、社会的公共性を身につけ、
伝達をこととする記号、日常言語としてしか捉えなくなっているのではないでしょうか。

たとえば、ふつう、富士山を見る時、「共通な伝達物」としての富士山を見る。しかし、人生や宗教を深く考えたり、また詩を創り、
絵を描く人は、富士山を見ても、言葉としての富士山を見てはいません。富士山の裏側を見、至福の実在世界を観る修行をしているのです。
主題は、富士山でなく、富士山を観た生きた感動なんです。相手を対象として見るまえに、相手の声に聴き入る。
《事物がありのままで、しかも永遠の姿で現れる》という思想を勉強し続けているのです。

そのテーマを勉強し続ける喜びは、生長の家の教えを学ぶのと同じ思いだと考えています。

人生を真摯に考える性格の人は、
人間としての自分に思いを致す時、「救われたい」というまえに、「自分とは、いったい何なのか?」という必然的な疑問を抱きます。
見えない実在世界を見たいと思います。それが、宗教に振り向くときの第1歩の気持ちなのでは、ないでしょうか。

初心者様は、信徒のことまで、救済が欲しくて欲しくて仕方がないのだ、というようにばかにした言い方をされるので、それは以前、
原理主義者だと古い信徒に おっしゃった雅宣総裁先生の言葉を連想しますから、いよいよ、あなたは、あやしげに思われるのです。

  {感動について} 渋谷晴雄 詩(光の楽譜より)

  永年富士山を描いてきた梅原龍三郎は
  これまで三度だけほんとうの富士を見た
  と自分で言っている
  そのときの感動で 絵を描いているという

  人は 山を美しいというが
  人が見るのは 山ではない
  山にまつわる言葉の群だ

  草も 空も
  誰の目にも 同じように在るのでは
  ない
  
  言葉を失って
  人ははじめて気づく
  美とは じつは得体の知れないものに
  見据えられていることなのだ と
  そのとき
  はじめてうまれるものに
  おどろいて 立ち会うことだ と


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