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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

1702初心者:2012/06/28(木) 18:43:08 ID:TfQ0e6RA
さくらちゃんへ

>たとえばですけれど、冬の枯れて葉を落とした木々はいわば、「死んでいる状態」と見えるわけですね、
わびの精神とは、その「滅び行く姿」に一興感じる処とも思うのですが、
それは、その枯れた風情をただおもしろがる以上に、その枯れ木の奥にある生命力を観ていたようようなところがあるのようですね。
つまり、枯れた木々にこそ、満開の花を咲かせる力が宿っているのだ、ということを想像する力を生み出し、
その想像した力に基づいて創造的な美のパフォーマンスを作り出すというような感じです。
なにか、生と死の「際」のような、ぎりぎりのところに、ものの本質をもとめていくようなところが、この美意識の中にもあるようにかんじますが・・、

色彩感覚にとぼしいわたしにはよくわからないことなのですが、シュタイナーは、
色彩を「大宇宙の魂」と位置づけ、それは物質世界と霊的世界の境界、つまりは
生と死の境界にあるものと考えていたといいます。

それでたとえば、植物の緑についてですが、シュタイナーは、それは生命の死せる
像である、といった言い方もしています。緑は生命の死せる像なのだそうです。
春になり、まるで生命を謳歌するがごとく繁茂する植物の緑は、生命でもなく、
生命の像でもなく、生命の死せる像であるのだそうです。

これがどういうことなのか、わたしにはわかりませんが、もしかするとこれが、
わざ、さびの精神を言い当てているのかもしれません。「枯れかじけて寒かれ」。
これが茶の湯の極意であるともいわれているようです。本当の生命が緑のなか
にないとすれば、なにを見ればそこに生命があるのか。それが「枯れかじけて
寒かれ」であるのかもしれません。


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