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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

155役行者:2011/06/10(金) 21:01:26

>初心者さまへ


>明恵上人は、松の木で座禅し島に手紙を出したという人物ですよね。明恵上人のエピソードは、ときおり耳にしますが、どういう方なのかというと、詳しくは存じておりません。夢の世界を表現なさったというのはどういうことなのですか。

手紙の件は、明恵上人が二十代前半に遊び(修行)に行った懐かしのカルモ島(和歌山県のある島)へ、晩年に送った手紙のことです。以下。

 「しばらくご無沙汰したが、お変わりないか。昔、磯に遊びに島に戯れたことを思い出すにつけても、涙がこぼれるほど懐かしく思っているが、お目にかかれる機会もなく打過ぎたのは、残念である。またそこにあった大きな桜の木のことも、恋しくてたまらない。
手紙を書いて、様子を聞きたいのは山々だが、物いわぬ桜のもとへ文など書いて送っては、わからず屋の世間の振舞いに似て、「物ぐるひ」と見られるやも知れず、そういうわけで今までは我慢して いた。
「然れども所詮は物ぐるわしく思わん人は友達になせそかし」 
自分にとっては、行い澄ました人々より、そういうものこそ得がたい友と、深く信頼している。大事な友達を尊重しないのは、衆生を護る身として申しわけないことである。よって、このような文を奉る、恐々謹言 島殿へ」
 と、京都から和歌山まで弟子に配達させた。このような方です。

・心理学者;河合隼雄「明恵 夢を生きる」 
・白州正子(白州次郎の妻 戦前戦後と活躍した方)「明恵上人」
などが有名な書。

 
 明恵は、9才で比叡山の厳しい環境の中で厳しい修行にはげむ。少年時代の明恵は、極めて禁欲的な修行を行っていた。彼は、修行に集中し「仏」に身を捧げた。
「身を捧げて仏に仕える」という気持ちは純粋で、ひたむきなものだった。それは幼い時代に母親が死に、それに引き続いて父親が死んでしまったという体験からきているかもしれない。
 つまり、フロイトによる精神分析学の公式によれば、エディプス・コンプレックス (父親に対する反感と母親への独占欲が抑圧されたもの)が形づくられる時期に、「ポクが憎んだので父上は亡くなった。ボクが悪い子なので母上もどこかに行ってしまった」と子どもが無意識に考えるような状況が、少なくともそこにはあった。そこで、その罪悪感を仏教的に昇華(無意識の観念をより高次の行動で実現すること)しようと励んでいるとき、献身的でストイックな人柄が形成された。
とりわけ亡き母親に対する想いが強かったようで、母親は彼に対して、「仏眼仏母尊」という仏のイメージとして出現している。それは夢の中に出てくるのみでなく、イメージとしても現われてきたようだ。明恵は直観像所有者と呼ばれるたいへんはっきりしたイメージをもち、さっきまで見ていたものや考えたことが目の前にはっきりとした心像として描かれる、という性格であったようだ。そして夢の中で見たことが現実の信仰に影響を与え、昼間の修行や観相がありありと夢に出現するというタイプの、「夢幻様人格」とでも名づけられる人格だったそうだ。バーチャルな世界はリアルの世界に影響を及ぼす。つまり、バーチャルな世界で光り輝けば、リアルの世界に光を導く。
 かくいう明恵は、経典や仏像についての素晴しい記憶力またイメージ力が、リアルの世界に良き影響を及ぼし、芸術や真理に対する感受性の土台になったようだ。
仏眼仏母尊のイメージを心に抱きつづけ、島を慕いつづけた明恵の心の中には、「母なるもの」への無限の懐かしさが生涯を通じてあったのだろう。 

明恵上人は、19才から亡くなる前年までの40年間、自らの夢を記録し続けた『夢之記』を残しています。
同上人を紹介させて頂いたのは、初心者さまの仰るオカルトの世界を垣間見ることが出来たからです。中世の鎌倉幕府成立のころ、こんな僧侶がおりました。


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