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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

1495うのはな:2012/02/21(火) 18:52:12 ID:El6gIMAw
蜜蜂と子供の教育  いのちの環 2012/3 生長の家本部編集

 ギリシアのお伽噺にこんなのがある。蜜蜂を愛していた王子は、蜜蜂が終日遠いところまで
蜜を集めに行くのは可哀そうだと考えて家来に命じて蜜蜂の羽を切り、遠くから花を集めさせ、
毎日毎日巣の中に花を満たせてやったのである。王子の考えでは遠くまで行って花蜜を集めるよりはその方が
沢山花蜜が集められると考えたのである。
然るに蜜蜂は一向花蜜を集めないで巣の中には一滴も蜂蜜はたまらなかった。

 愛することによってその子供を縛っている親達は丁度、この王子のようである。
親から見て幸福だと強いる事柄が子供にとって、一向幸福でない事が度々あるのである。
王子から見て幸福だと思える事柄が、蜜蜂から見て一向幸福ではないのである。
蜜蜂にとって幸福は、遠くまで行く労苦がなくなることではなくて、自由に遠くまで飛べる羽を
有っていて、いつでも好きなところへ自由に飛べる羽を有っていて、いつでも好きなところへ自由に
飛べるということである。

 イプセンの劇『海の夫人』の女主人公エリーダは良人に心で縛られている間は、本当に良人を愛すること
が出来ないで、解放の象徴である海から来る男にあこがれていたのであった。
愈々「海から来る男」が彼女を迎えにやって来る。良人ワンゲルははじめて今まで彼女の自由意志を縛っていた
ことに気がついて、「自由意志で、自分の責任で、どちらでも選ぶのだ」と彼女に言う。
自由を与えられた彼女は、最も反動的でなしに、そのまま自然の心に復ると、却って「海から迎えに来た男」には
心を曳かれなくなるのである。

此処に深い真理の暗示がある。統制と放任との問題も此処に解決の道があるのではあるまいか。
愛して縛るのは統制である。子供をどの程度、親が統制するか、どの程度放任するかが問題である。
しかし統制すればするほど反動的に子供は両親の意向とは反対の方向に動いて行く。
「そのまま」が一等好いのである。半分「統制」の半分「自由」などは、羽を切って花を与えた蜜蜂のような
ものである。子供は「神の子」であるから、そのまま自由に放任すれば、却って神の子の実相があらわれて完全になる。
併し損じて放任することが必要である。「信」がなければ駄目である。

 (谷口雅春著『新版 叡智の断片』47−49頁 日本教文社刊)


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