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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える
1123
:
義春
:2011/10/04(火) 19:17:55 ID:iu5Ar./Q
そのイエズス会も豊臣秀吉によって追放されます。
その前にこんな事件がありました。
島津氏を降伏させた九州征伐後、博多に滞在した時の事です。
詳細は此処で→
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1694.html
そこに長崎よりイエズス会、コエリィオ、フロイスが乗るフスタ船がやって来た。
かねてより秀吉から大型のナウ船の来航を依頼されていたが、
博多湾が遠浅のために止む無く小型の快速船でやって来たのである。
みるみる近づいて来る南蛮の船に機嫌をよくした秀吉、早速自らこれに乗り込んだ。
小型であっても二本のマスト、船後方には人力による櫓でも漕ぐことの出来る実用的な船であり、
船首船尾には小型の大砲も備えていた。
穏やかな湾内をクルージングさせその快速ぶりに驚き、
また目を輝かせ隅から隅まで検分した秀吉にとっては、まさしく垂涎の西洋船であった。
ところが船尾にある櫓を漕ぐ人々を見て、秀吉は驚愕した。
鎖につながれ苦役に喘いでいるのは、紛れも無く日本人達である。
問いただせば「犯罪人でございます。」コエリィオは何くわぬ顔で応える。
不機嫌な顔を取り繕い、秀吉は船を後にした。
その模様を側でつぶさに見ていた、キリシタン大名小西行長、黒田孝高、高山右近、
秀吉の日頃の素振り、思念、行動を知っているだけに、各々不安でいっぱいになった。
必死でコエリィオに件の船を秀吉に譲渡するように説得した。
が、事の重大さを悟らぬ愚かなイエズス会士らは、
本国の許可無しでは出来ないの一点張りであった。
その9日後に、伴天連追放令が発せられた。
その中には、日本人奴隷売買に関する譴責が含まれていた。
そして、豊臣五奉行の増田長盛がポルトガル人を尋問して、聞きだしたのは
乗組員「我らは、まず土地を征服する前に、
その国に宣教師を派遣して、キリスト教をもって人心を懐柔し、
後に国人の大半が帰依して、キリスト教の君主を希望するようになったらば、
信徒を煽って、軍隊を送るから、戦えば必ず勝ち、その国を征服することが出来る。」
とこの内容でした。
秀吉は日本史上唯一といって言い独裁者であるから直感したはずです。
イエズス会は危険だ、このまま放っておくと日本はなくなってしまう・・・と。
後年の恐怖の独裁者になる前だったので、よりその直感は鋭かったと思います。
(秀吉は何かあれば気分的に虐殺を平然と行うので、怖い人だというのが私の秀吉観です)
この認識は徳川家康、そして家光にも受け継がれ、地域を限定しての貿易を行っていくので、
日本をヨーロッパのロゴスの暴走の餌食から守っていくことになります。
よく『江戸時代の鎖国』と呼ばれますが、正確に言えば、鎖国していません。
明治時代『鎖国論』という本のタイトルが初出で、後年作られた概念です。
これはつまり、完全に鎖国すれば、ヨーロッパ諸国に対して、攻められる口実を与えることになります。
そうならないように、少し管理的に開国する…この一寸したバランス感覚で攻められる口実を与えなかった
政治的なバランス感覚の賜物です。
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