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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える
1117
:
義春
:2011/10/03(月) 03:21:20 ID:iu5Ar./Q
1)産業革命について
概要を言えば、産業革命は工業の機械化でした。
この機会と云う言葉は機はともかくとしても械は罪人を縛る道具…この言葉を考えた人は卓見であったと思います。
実際のところもまさにそうでした、言葉に縛られて暴走してしまったのですから…。
産業革命のエネルギーは石炭に依存していました。
それは、鉱山を開発し、森を切り倒し、そしてその石炭を燃やす…そしてそれが、二酸化炭素を生み、
空気を汚す、環境のバランスを崩してしまいました。
それは産業革命当時よりか改善しましたが、内面的には今も同じです。
それはつまり、人間が住みにくくなるから規制しただけで、倫理的なストップがかけられておらず、
いつでも暴走できる状況なのです。現に中国の環境破壊の凄惨な状況は、良く報道されています。
この環境のバランスを崩す、この在り様に正当性を与えたのは、何度も出ていますが、旧約聖書の
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、
これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」
と云う言葉でした。この言葉が他者の文字と化し暴走し、今尚、地球全体をも飲み込んでいます。
しかし、この言葉が言わんとした事は「神の御姿をかたどって作られた人間、つまり、万物の実相を観れる
人間に、神が創造したところのものを治めさせよう、その万物の実相を拝み、治める過程こそが神の栄光の現れであり、
神が神と云うものを表すのである。」であろうかと、私は愚考致しております。
その旧約聖書の言葉の本来の意味から完全に外れ、治める対象である自然や動物・植物を、霊的存在であるところを、
生命体ではなく単なる物質としてとらえ、この言葉を暴走させてしまった事が、今日の環境問題の実相であると思います。
であるので、環境保護、環境保全も自然を物質として接するのではなく、一つの生命体、釈迦の説きたる所の、
「山川草木国土悉皆成仏有情非情同時成道」この心が無ければ、良くない結果に終わるかと思っています。
これを具体的に申しますと、自然と云うのは複雑な生態系、連携関係によって成り立っています。
単純に川の水質を良くした、山に木を植えたではなく、どんな地域を川が流れているか?
その川にどんな生物がすんでいたか?また、山のある場所の気候はどんなものか?とか、そこに住む動物はどんな種類がいるか?
など、複雑な要因を精査する必要があります。それをして始めて、環境保全だと思うのです。
そうでなければ、人間の都合だけによるのであり、結局、先にあげた旧約聖書の言葉の暴走でしかないのであります。
近代に至るロゴスの暴走については、この様に私は考えております。
明日以降は日本に移ります。日本とユダヤについて記していきたく思っております。
但し、昼間は仕事等ですので、スローペースになってしまうので、ご容赦下さい。
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