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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

1090うのはな:2011/09/26(月) 18:29:36 ID:iM0b0bt6

 実相を拝む    『愛が魂に目覚める時』  谷口輝子 先生著
 
 最近或る娘さんから来た手紙の一節に、
「・・・私の家族はみな信仰して居りまして、毎日神仏に手を合わせています・・」
と書いてあった。何を思って神仏に手を合わせて居られるのかと、私は不審に思った。
この娘さんは、自分の不具を嘆き悲しんで、いつ死のうかとばかり考えている人であった
からである。つまり神を信じない人であった。
 私は元旦六時に明治神宮へ参拝した。うす明るい表参道を辿りつつ大鳥居をくぐって
進むと、細かい砂利を敷きつめられた清らかである筈の道路に、おびただしい紙屑が
散らかっていた。
 東京の人は気が早いと言われているが、大みそかの夜の十二時が過ぎると、
もう元旦だという訳で、神詣にどっと繰り出すのであった。
我が家の近くの原宿駅あたりで、マイクを通した大声で、交通整理をしているのが、
毎年ひびき渡って聞えて来る。
 元旦とはいえ夜半である。寒い夜半に寝もしないで、神もうでするような熱心な信仰者が
一の鳥居、ニの鳥居にと紙屑を捨て歩くのである。境内を汚すような心で、
何故合掌礼拝するのか、私は不思議でならない。
 信仰とは何であろうか。対象とする神や仏を敬い信ずることではないか。
敬う心があれば、神前や仏前を汚すことなど出来ない筈である。
夜半から、早朝から、何しに神詣でをするのであろうか。
 私は礼拝し、祝詞を奉上し、祈念を終えて裏門を出ると、そこの道路の左右に立ち並ぶ
樹木には、ぼたん雪が降り積ったように、何万という数の白紙が結びつけられてあった。
 それは“おみくじ”であった。毎年のことだが、“おみくじ”を買って読み終えると、
そこらの樹々に結びつけて帰る習慣らしいが、“おみくじ”をしばり付けられた樹木たち
は、非常に迷惑するらしいし、それを解いて片付ける神社側にも大層手数をかけるので、
いつか「おみくじを樹に結ばないで下さい」と掲示してあったが、群集はそれを無視して
結んで行くのであった。


 つづく


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