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日月神示
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解明と解釈と理解と実践のスレ。
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只今書き込み出来ません。
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来年春始動予定。
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書き込めるよ。
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でもなんかあれだから立て直すか?
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初号機ってなに。
まさか。
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水野南北って人、知ってる?
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>>6
原発じゃないよ。
ヤシマ作戦中だし。でも節電してない・・。
>>7
知らないからぐぐった。
極悪人じゃないか。おもろい人だ。
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>>8
おもしろいでしょw
この南北さんは、粗食と朝日を拝むことで幸運になるって言ってるんだよねwww
ググり先によっては、日月神示と似てるって書いてあったりする。
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やっぱり、全てが満ちることはないんだって。
何かを慎めば、その分何かが満たされる。
昔の戦国武将も贅沢できる身分だったのに、白米も食べなかったとか。
家康とか秀吉とかだったかな。自然にそういうことを悟ってたんじゃないか、だって。
そんなことも書いてあったよ。
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でもやっぱり、呼吸法だとか太陽凝視だとかで前向きな粗食、少食じゃないとダメだわ。
職場に拒食症になってる人がいてさ、やっぱり病んでるよ。
昨日と今日はハッキリ言って迷惑だった。可哀想だとは思うけど。
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>>9
朝日拝めとも言ってたの?
ひふみ新世紀には腹八分目とか神に供えてから食えとか、
四足食うなとか書いてあったな。
>>10
昔の人は現代人より寿命が短かったと言われるよね。
そこらへんの根拠ってなんなんだろ?
昔の日本人は肉食はしてなかったはずだし、
野菜も今のように農薬まみれじゃないだろうし。
>>11
拒食症は心の病だよね。
食に対する脅迫観念があるんじゃないかな。
食べちゃいけない、でも食べなければ生きられないって。
その葛藤が余計にエネルギーを奪うような気がする。
普通の人たちにも食べちゃいけないがないだけで、
同じ脅迫観念があるんじゃないかな。
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テスト
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水野南北が日拝をすすめていた件だけど、
今探して出てきたのを貼っておくね。
http://otanaga.blog58.fc2.com/blog-entry-234.html
前に私が見たサイトとは違うんだけど。
あちこちで書かれてるなら、まー本当なのかな。
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>>14
日拝の方法も神道のやり方で書いてあるね。
それはブログの人が紹介してるんだろうけど。
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>>両者とも、満腹は良くない、って意味だよね。
でも、つい食べ過ぎちゃう。
>>神道でいう、禊ぎ=身削ぎ、みたいな感じかな。食事で満たされなかった分、他の何かが埋まるんだろうね。
やっぱり肉体的負荷のせいじゃない?
内臓系は休まることないし。
なら心臓止めろやと言われそうだけど。
>>地位とか名誉、健康、恋愛、家族運、金運とか。
交換条件的なのは嫌いだけど、エネルギー保存則と考えればありうる。
>>神に一度捧げたら四足も大丈夫、とも書いてあるよね。
ある。
>>長生きするのって不自然なことなのかなぁ。
あー、そーゆーことか。
早く壊れたほうが新しいのが売れるもんね。
>>うん。その方、思いっきり病んでらっしゃるww
やっぱり精神的に満たされない少食はだめなんだろうと思う。
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日月神示には直接関係ないんだけど、
コピペしていい?
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古神道では、神には多面性があり、その人の心境や意識レベルに応じて、それに対応した神が感応するとしている。
西洋の宗教の多くは、人間は神から造られた物とする。これを創造神観という。その考え方でいくと、
人間は永遠に神には成れない。というのも、そこには造物主と被造物という分離があるからである。
近年様々な終末論が流行しているが、その根本原因は、この「神と人の乖離思想」にある。
神が造ったのだから、人類の多くは堕落し、“不良品”と化したので、造物主から壊される、つまり
滅ぼされるという発想になるのだ。これでは安心を与えるどころか、不安が頭をもたげてしまう。
また、終末を唱えるカルト宗教の神はよく怒り、「神に従う善なる人間」のことは助けるが、
従わない悪なる人間は滅ぼすという性格がある。愛の神と言いながら、悔い改めない人類に対して、
結局は死んでもらう神となっているのである。宗教団体の中には、「人間は神の道具だ」と考えている
ところさえある。道具は、壊れたり不要になったら捨てられる。そういう意識で居ると、人間を道具として
使うような神霊が感応してくるのである。
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「神が人間を作ったのだから、自分達を助けるのが当たり前だ」
こう考える人も居るだろう。
この様な自己本位の考えの人には、あたかも鏡のように自己本位の神が顕れるのである。
物事には必ず裏表がある。
「この願いを叶えたら、あれを差し上げます」という贖いの宗教だと、
現世利益はあるが、その見返りも要求する神と波長が合ってしまうのだ。
同様に、ある人が神を「法則の神」として設定すると、その人には情状酌量の無い法則の神として顕れ、法則に合わない人を冷酷に切り捨てるように成ってしまう。
無神論者には、無神論という“神”が顕れ、「神も仏も無い」という苦しい事態が発生する。
近代人の多くは、自らその状況を作り出して、苦しんでいると言えよう。
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神道では、人間は神の子供として生まれたとする。
そして、“生んだ”ということは、よく考えれば、
人間の根源的な親、大先祖は神という事になる。
つまり、自分と親、先祖、神は太い線で繋がっている事になる。
そう考えると神は遥か遠い存在ではなく、もっと身近な存在になる。
それが親神という発想になってくるわけだ。
“生まれた”とすると、神と人間は基本的には同質になるから、子供が大人になるのと同様に、人間が神に成るのも当たり前ということになる。
いや、人間はもともと神なのであり、それを忘れているだけなのだ。
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神と人間を親子関係と捉えると、親子としての温かい交流も生まれてくる。
そういう意味では、親である神は子である人間を、助け育み守ってくれるし、それに人間が感謝するために祭りを行うという構図になる。
「孝行と神道は同一線上にある」 ということになる。
多くの宗教の場合、家族とのしがらみを離れ、神と自分の繋がりという個人主義である。
一方、神道では家族主義を採っている。それも「神人同質」という視点から、神→先祖→親→自分→子孫
という超大家族主義なのである。
つまり、宗教と神道では、ベクトルが逆を向いているのだ。
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すべての宗教は、根源の部分においては同じものです。
教団の発展に伴う解釈の変化によって、今のように別物になってしまったのです。
例えば、キリスト教の新教・旧教を問わずに正典になっているヨハネの福音書の冒頭は、
この世の真理の全てを表現しています。
イエスに最も愛された弟子である聖ヨハネ曰く、
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この方は、初めに神と共におられた。すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
つまり、神は言葉に過ぎないと言っているのですよ、聖ヨハネは。
もう一度繰り返しましょうか。神 = 言葉です。
神が言葉だなんて、みもふたもありませんよね。要するにイエスに限らず、
全ての神という存在を拝んでいる人達は、神という言葉を拝んでいるのですよ。
そしてもう一つ。言葉という象徴で示されているのは、思考です。
人間は言語化することによってものを考えるからです。
人間の人格とはその人の考えている内容ですから、これから導き出される結論は、
言葉 = 思考 = 神 = 人間です。
つまり、なんのことはない。イエスや聖マリアを拝んでいるつもりで自分自身を
拝んでいるのですよ。キリスト教徒は。
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だいたい2000年前に昇天した神がどのような方だったのか、会ったこともないのにどうして知り得るでしょうか。
要するに自分の頭の中で作り上げた神のイメージを拝んでいるわけです。
そして最後に、「この方は、初めに神と共におられた。すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と書かれていることが、
あなたがこの世界の創造主であることを示しています。
この世界とはあなたの意識のスクリーンの上に投影されたスライドフィルムのようなものにすぎません。
フィルムは潜在意識と顕在意識の思考を構成する一切の記憶。それを投影する光線は真我の光です。
それこそが聖ヨハネがこの直後に「この方に命があった。この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と書いていることです。
ですから、逆の言い方をするとこういう言い方ができるでしょう。
自分を拝んで感謝の心を捧げることは成功への道。
その逆に、「俺はなんてダメな人間なんだ」とか言って、自分を裁き貶すことは死の道です。
成功法則の基本ですよ。
だから聖書にも「人間は自分の量る秤で測り返される」と書いてあるでしょ。
誰もあなたを地獄に落とす神なんていませんよ。だってあなた以外に神なんていないもの。
自分で落とさない限りはね。
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