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おやじの背中

1いしい:2002/09/02(月) 02:40
死んだ肉親を「感じる」時、どのようなケースがあるのでしょう。
私は自身のHPで肉親が「ハエ」になって現れた例を書いたことがある
んですが、その他あーりんさんのおっしゃるように「おやじの臭い」
というのもあるみたいですね。
それ以外で、現れ方としてはどんなものがあるのかな?

2美影四郎:2002/09/02(月) 07:01
お盆の時、母とわたしが留守番していたのですが、朝になると仏壇のかいみょうが、
勝手に捲られていました。
わたしはもちろん、ははも触れてはいないので、そんなことはない筈なのですが。
こんな事が3日間続きましたね。

3妖怪王:2002/09/05(木) 02:31
美影さんのそのハナシ怖いですね。

4いしい:2002/09/09(月) 02:22
戒名が揺れる、倒れる、というのはよく聞きますが、声がきこえるというのも
あるみたいですね。
生前の声が夜な夜な聞こえてくる、みたいな。

5ダチョウ:2002/09/09(月) 22:21
うちの祖父が臨終したその直後、祖母が大病を患い、「おじいさんが
引っ張ったのかなあ?」という話によくなりました。目に見えたり、
耳に聞こえたりするものではないですが、「引っ張る」という現れ方
で別れた肉親を感ずることもあるみたいですね。

6美影四郎:2002/09/10(火) 22:29
生への執着よりも、自分により近い生者への未練なんですかね……。
母方の祖父が亡くなってからというもの、お盆の時期には、蝉がやって
来ます。
妹なんかは「今年も爺ちゃんがやって来たよ」なんて言ってます。

7いしい:2002/09/12(木) 02:26
蝉ですか。色々パターンがありますね。
桜井徳太郎だったかが、魂→動物物語におけるパターンをいくつか示唆して
いたことがありましたね。

「引っ張る」って嫌ですね。
先祖なのに、いつのまにか恐いモノになってるし。
「引っ張る」っていう考え方は結構昔からあったんですかね。

8ダチョウ:2002/09/12(木) 20:54
「死者が望んでいるもの」を生者がどの様に解釈したかによりますね。
その辺りの詳しい資料はありませんが、殉死やら殉葬やらの習慣があった
ことを考えれば、その起源は相当古くまで遡れるのではないかと。
「寂しさ」や「恨み」なんかで生者を彼岸まで持っていこうとする死者
(がいると思っていた昔の人)は多くいたんじゃないかなぁ。・・・ああ、
ややこしい。

ま、時間が経てば祖霊となって生者を守ってくれるという考え方は今も
昔も同じっぽいです。

9いしい:2002/09/13(金) 01:43
殉死はどうなんですかね。
殉死を「引っ張る」ととると、乃木将軍も明治天皇に引っ張られたつうこと
になりますよね。けど、乃木将軍が引っ張られたと考える人はあまりいない
んじゃないかな。
もちろん、ダチョウさんが書いているように殉死を引っ張るのひとつととる
かどうかは解釈の問題ですから難しいと思うのですが、個人的には古代であ
っても殉死と引っ張るは違うような気がします。
(けど死者を「慰める」という点では一致するんですよね)
ならば引っ張るの定義は何なのか?
これが問題じゃ。
ダイチョウさん、答え望む。

10妖怪王:2002/09/13(金) 06:13
引っ張るのは夫婦であったイギナギ・イガナミの二人が 生者と黄泉の住民という
それぞれ立場で引き合いましたね。それ以来黄泉の住民は生者を引くのではないでしょうか?

11美影四郎:2002/09/13(金) 08:11
“惹かれる”と“引かれる”の違いでは? というのはどうでしょう。

12ダチョウ(大腸):2002/09/14(土) 01:59
>>9
そうですね、僕も殉死と「引っ張る」は違うものだと思います。書き方が
悪かったと思いますが、僕が殉死を例に出したのはただ「死者が人を望む」
という考え方が何時頃から現れているか、という証拠としてまでです。

『殉死の風習→死者が人を望むという考え方があった→ならばその頃、ある種
の連続した死は「引っ張る」という文脈で解釈されたのではないだろうか』
大体、こんな感じです。・・・言い逃れっぽいな(汗)。

殉死は「理想化された主従関係」という「制度」ですから、「殉死=引っ
張る」とはやはり言えないと思います。いしいさんが例に出された乃木将軍
は明治天皇というよりは多分「制度」に殉じた人です。この場合、乃木将軍の
死は「制度」という枠内で周囲に理解され、「引っ張る」とは言われたりは
しません。ただこの制度の根底にはやはり、「死者は生者と同じように人を
欲するものだ」という考え方があったと思うんですよ。(続く)

13ダチョウ(浣腸):2002/09/14(土) 02:23
何故なら、死者が人を望んでないのに人を送り込むなんて無駄は誰もしないから
です。殉死は「死者がそう望んでいる」と説明出来ることによって、初めてその
論理的正当性を帯び、習慣、制度として存続することが出来るのではないかと。
・・・以上、「殉死と引っ張る」でした。

「引っ張るの定義」は「連続した死という不安を呼び起こす現象に対し、下した
解釈の一つ」ぐらいでとりあえずお茶を濁すことにします。(死に体)

14いしい:2002/09/17(火) 02:27
制度と「引っ張る」は難しいですよね。
こういった議論はどうにでもとれますし、解釈できますから。

日本の殉死の場合は表面的には忠孝を示すことで「家(将軍と殉死者の家
の双方)を高めるという意味が一番ですよね。
インドの殉死(夫が死ぬと妻も火葬の火の中にいれられる習慣)の場合は
も家が主ではないでしょうか。フェミニズム観点からよく男性優位の象徴と
いわれますが、あの時代の考え方からいけば男性優位云々というよりもひと
りでは生きていけない女性を生き長らえさせて家をみじめなものにするより
も夫婦ともども絶つことによって家の名誉を守る意味合いがつよかったです
から。
これに対して「引っ張る」の場合はやはり第一の意味に死者の慰めなんです
よね。制度の方は隠れた所に死者の慰めがあるのに対して、「引っ張る」は
表向きの意義が死者の慰め。
この第一の意義を考えれば両者は同列には論じられませんが、制度の隠れた
意味合いを表だして引っ張るの第一の意味と比較すれば同列に扱える。
ということだと思います。

15ダチョウ:2002/09/17(火) 21:31
>>14
>こういった議論はどうにでもとれますし、解釈できますから。
確かに。以前「屈葬」について人と論じたことがありますが、あの時も「これは
死者の蘇りを防ぐものだ」という意見と「いや、胎児の形に似せ復活を促してい
るんだ」という意見に別れました。人というものは不思議なもんで、全く同じ行動
をしていても、その意味合いが全く違うなんてことはざらにあります。
屈葬にしても殉死にしても、人の行動からなんらかの気持ちを察するというのは
想像以上に難しいことで、簡単に判断したりしてはいけないことなのかもしれま
せん。
僕は「死者を慰撫する心」の証拠として殉死の風習を挙げましたが、ちと軽率で
あったなと反省しております。

16ダチョウ:2002/09/17(火) 21:55
>>14
まあ、いきなりこんな殊勝な奴になってしまうのもそれなりの理由がある
訳で・・・。
いしいさんに指摘されてから殉死について、少しネットで調べてみたんですが、
いやあ、ダメですね。「殉死という風習の根底には死者が人を望むという考え方
があった」とする僕の説を補強するものが全然見当たらない。
例えば、江戸時代の殉死(いわゆる追い腹)には「義腹」「論腹」「商い腹」と
いう三種類の形態があるそうですが、この三種いずれにも「死者」を意識している
ものが一つも無い。「義腹」は主君、念者(同姓の愛人)との「心中」、「論腹」
は世間体を気にしての「恥」、「商い腹」は子孫、家の名声を期待しての「打算」
です。「心中」「恥」「打算」、追い腹という殉死の物語は「生者」のみを登場
人物とし、「死者」はキャスティングされていないようです。

17ダチョウ:2002/09/17(火) 22:05
>>14
まあ、今まで挙げたものは、いしいさんの言う「表向きの意義」に過ぎないだけ
であるのかもしれませんが、僕はちょっと自信無くしちゃいました。

という訳で、「引っ張るは殉死の風習がある頃まで遡れる」という僕の意見は
無期限放棄します。なんか面白い情報が見つかったらまた掲示板にて書かせて
もらいます。


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