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新・生長の家大論争掲示板1

71名無しさん:2011/07/20(水) 17:08:08
合掌、ありがとうございます。

今の生長の家が如何におかしくなっているか?
私の小耳に挟んだ話をご紹介しておきます。

その①

『「大日本神國観」が団体参拝練成会からなくなっていましたよね。「鎮護国家」の総本山で「大日本神國観」が実修されないなんて、おかしいのではありませんか?』
ある信徒が思いあまって、ある幹部講師にこう聞いたそうです。
そうしたらどんな答えが返ってきたか?
「えっ、なかった?気づかなかったなあ」それで終わり。
知っているのに、知らんぷりをする!
誠実さのかけらもない応対ですよね。

その②

『谷口雅宣先生が「総本山は聖地ではない」といわれましたけど、それは谷口雅春先生の言われたこととは違うんではないですか?』
それを訊ねた時の幹部講師の答えはこうだったそうです。
「谷口雅宣先生は総本山だけが聖地ではない、そういうことを仰りたかっただけ。法燈を継承されているんだから、谷口雅宣先生と谷口雅春先生とは一体、ひとつも変わってはいられません。谷口雅宣先生は、谷口雅春先生と同じことを、今の時代にわかりやすく説かれているだけです。」
『谷口雅宣先生は、総本山だけが聖地ではない、そんな意味でいわれていませんよ。総本山は聖地ではない、こう言われたんですよ』
そう、更に食い下がったら、こう言われたそうです。
「谷口雅宣先生は、法燈を継承されているんですよ。谷口雅春先生と違うことを仰るわけがありません!」
もう、頭っから聞く耳をもたない!問答無用という感じで、質問、疑問を封じ込めるという態度に出るんですよね。

その③

『霊牌を炭にしていいんですか?そんなことで、本当の供養になるんですか?おかしいとは思わないんですか?』
これには、さすがに返答に窮してしまったようで、ある幹部講師は、苦し紛れにこう答えたそうです。
「現象に引っかかってはいけません。常に、実相直視。谷口雅宣先生の実相を拝むようにすればいいのです!」
これなんか、明らかに、現実逃避ですね。
そうなんです、「実相」を口にする人というのは、須く、この現実逃避の方便として「実相」を持ち出すのです。
「実相」を持ち出したら、相手がそれ以上、言えなくなる、そう思い込んでいるのですね。
そういう方は、はっきり言って現実とキチンと向き合う勇気がない、そのように思うのです。

それについて、『明窓浄机』「修練篇」の284頁にある話は、大いに参考になります。
ここで、谷口雅春先生は、汚れ物を洗濯する譬えで、こう説明されています。

…「汚れ物」は、「實相に於いては汚れ物はないのである。だからそれを汚れ物扱いすることは間違いである。その實相の清らかな姿さへ念じておけばよいのである」とて神想観して「汚れ物はない、みんな既に清浄である」と念じただけでは、その布は清らかにはならないのである。汚れた布を清浄にするには「汚れ物」が其処にあると云う「現実把握」がなければならない。それと同時に「本来これは清浄である。汚れは唯表面に一寸ついただけである」と云う実相清浄の認識があり、だから「洗濯機械にかけなければならない」と云う現象界に於ける方法論が出て来るのである。その三者が揃うことがなかったら、現実にその〝汚れた布〟は清らかにならないのである。

これを引用したのは、他でもありません、よく「批判ばかりする、悪口ばかり言う」とこちらを批判し、悪口を言う方がありますが、今の生長の家、谷口雅宣総裁のやっていることは、恰も〝汚れた布〟の如き存在ではありませんか、その「現実把握」がちゃんと出来ていますか、それを問うているのですよ。

その「現実把握」が共有されなければ、「現象界に於ける方法論」など、出てくる筈がないからです。
その「現実把握」が明確であればあるほど、今の状況に対して「何とかしなければいけない」という危機感が生まれるのであるし、その危機感が「現象界に於ける方法論」への真剣な取り組みをもたらすのです。
つまり、全ての始まりは、「現実把握」の共有にこそあるということです。

そのために、こうして、様々な視点から、倦まず弛まず、性懲りもなく、問題提起をさせていただいているという次第です。
意のあるところをお汲み取りいただければ幸いです。

再拝


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