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新・生長の家大論争掲示板1

4694名無しさん:2013/07/05(金) 13:03:16
「宗教が気休めであってはならない」


            藤原 敏之 本部講師
 

 信とは絶対であり、自分の都合が全然皆無になることです。

これを無我全托と申します。

また帰命ともいいます。帰命とは、字の通り〃命を帰す〃ことであります。自分の生命がなくなり神の生命のみがあると自覚したとき、全部神からの賜わりものとなるから、善いも悪いもない絶対善の世界を発見します。


ですから一切都合がなくなる。

都合がなくなれば困ることもない。不足もない。不足がないのを満足といい、満足のみの世界を極楽とか天国というのです。このような世界に住む人を自由人といいます。


  宗教の目的は、あらゆる人間を苦しみや悩みから完全に解放して、完全自由を与えることにあるのです。


悪い条件を善い条件に変えて都合のよい生活をさせるためにあるのではありません。

 目先だけの、見せかけの、やがて失うような一時的な幸福を与えることではなく、永遠に変わることのない幸福(満足感)を与え、悩みや苦しみの根元を断つことにあるのです。



ここにおいて人生の根本目的と宗教の究極の目的とするところが一致するのであります。そうでなければ別段宗教なんかなくても普通に生活するくらいは誰でも出来ますから、宗教に耳を貸そうとする人が少ないのです。


 一般に宗教に関心のある人が少ないのは、大衆が悪いのではなく、どうでもよいような、いわゆる気休め的な教えを説いている宗教家に責任があると私は思います。


 宗教が真にすべての人間の願望を成就するものとわかり、そのことを実証したならば、おのずから集ってくるはずです。


それはちょうど砂糖や蜜があれば、呼ばなくても蟻が群り集るごとく、花が咲いていれば、それがたとえどんな山の奥にひっそりと咲いていても必ず蝶々や蜂がとんでいくように、宗教が真に人間を幸福に導く力を発揮するとき、必ず発展するのであります。

        藤原敏之著 『すべてを癒す道』より




生長の家は開祖 先人の言葉だけが残り 教団には魂もなく 奇妙なセミナー 養老院となるしかない。

もちろんその現況は雅宣とその取巻きのせいである。悪は無いのではない やはり悪はあるのだ。


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