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新・生長の家大論争掲示板1

4305名無しさん:2013/04/01(月) 18:30:20

谷口貴康様のブログから掲載

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/tachiyan50/comment/20130319/1363692423#comment

生命の實相15巻より

宗教というものはお経の文字の講義をしたり講義を聴いたりする事ではない。
“道”に随った生活をするのが宗教的生活で“道というものを指し示す教えが宗教である。”

“道”は必ずしも何々教というものの中にはない。何々教という立派な名義の中にいて、
お経やバイブルの講義をどんなに立派にしても、“道”をはずれた行ないをする人は宗教家とはいえない。
それは宗教業者です。既成宗教はだめだという声がきこえるのもそのためである。

既成宗教がだめなのではない、宗教業者が宗教を形ばかりにして生命のないものにしたのです。

これに反してお経の一字をも解釈しえないでも、道にかなった行ないをする人は宗教生活者です。

だから宗教の開祖にはずいぶん無学な人が多い。天理教祖でも、金光教祖でも、大本教祖でも、みんな無学である。


< 無学の人が「道」にかなった行いをした。> <そこで無学の人と、
天地に満ちている「道」とが一体(ひとつ)になった。> <そこで「道」というものが、
その無学の人を通して真理の響きを奏でる>、これが宗教(おしえ)というものです。


教祖が無学な場合には一絃琴(いちげんきん)のような簡単なことばで「道」を説かれた。
しかし「道」というものは、“天地にミチ”、<すべてのひとの真心の内にミチている>ので、
真心をハッキリさせている人なら必ず共鳴する。

そこで多数の人々が共鳴して信者となって集って来る。集った人々のなかに学者があれば、
教祖が簡単な単純な言葉で伝えられた「道」をいろいろ学者ぶったありがたそうな複雑な言葉で説明する。
そこで表面はますます厳(いかめ)しくなり、立派になってくるけれども、それを説く人の生活が道にかなわないと、
だんだん、本当の「道」が奥の方に埋もれてくるのです。

はじめに権威のあった宗教が段々権威が無くなってくるのは、たいていそういう径路をとるものです。


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合掌ありがとうございます。

流石神の書「生命の実相」ですね。

その通りです。
今の生長の家に当てはめてみると、

>生長の家がだめなのではない、今の生長の家の宗教業者が生長の家の愛国の書を絶版にし愛国心の無い形ばかりの環境の家にして生命のないものにしたのです。

>今の生長の家に共鳴できないのは、教祖が学者で複雑で「言語不一致」な言葉で「道」を説かれた。
しかし「道」というものは、“<すべてのひとの真心の内にミチている>ので、その真心さえも踏みにじる言動行為があったから共鳴できないのです。

と言いたいです。不謹慎な投稿なら即削除して下さい。つい本音が出てしまいまして失礼致しました。

再拝合掌
作成者 一信徒 : 2013年3月21日(木) 11:05


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一信徒 様に全く同感です。合掌
作成者 本音 : 2013年3月29日(金) 13:26


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