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新・生長の家大論争掲示板1

4180名無しさん:2013/03/03(日) 09:21:55
*「生命の實相」第三十七巻・幸福篇上(3月3日<P75>)より

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのである。

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、眼を瞑って、

「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を苦しんでいるごとく
今まで自分はまちがって空想していたのだ」

と心に念じて、現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》がごとく感覚に見えるとも、感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かさよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢこまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるので
あるから自分は今もうすでに完全である。病気もない、苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。
この言葉を百万遍心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとくみえようとも
断乎として心の力で否定し去れ。




こんな教えがあるから今のような堕落した姿になり困難は避け平和ボケになったのだ。

かつての戦争を経験した世代 難病にかかった人ならいざ知らず今の恵まれた時代から

生を受けて 大きい病もなく 金の不自由すらない世代になった時代では総裁夫婦のような

ご都合主義のお花畑になるのだ。

その人の人格 魂の次元に応じて艱難辛苦があるのが人生である。その艱難辛苦を経験することも

魂の向上に必要な要素である。

困難を避けるな 無いとかぬかすな 逃げるな!!


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