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新・生長の家大論争掲示板1

1449その2:2012/03/23(金) 11:50:12

>「役行者」様に申し上げたいのは、「和解」を心から願うのであれば、その「和解」云々の前に、「原宿教団」に対して、絶版にした「本音」の説明をはっきりと提示するよう、お願いすべきだということです。
それがあってはじめて、その「本音」に対して、「吟味熟読し、話し合い、解決」すればいいということになりはしませんでしょうか。

折角の機会ですから、貴殿の先の文章にこだわってみますね。

さて、一体、誰と「話し合う」のでしょうか?
話し合いというのは、言うまでもなく、相手があってのことですよね。
「話し合い」のテーブルに誰をつかせようとしているのですか?

例えば、私と貴殿とが「話し合い」をして、その結果「和解」して、一応の「解決」を見たといたしましょう。
貴殿の労作を拝読させていただいて、いくらでも貴殿とであれば、私も「和解」の道はあろうかと思います。

例えば、「愛国心の暴走を抑制」する注意書きを添えて、『古事記と現代の預言』を発刊するという「解決案」も成り立ちうるかもしれませんね。

しかし、私と貴殿との間で、いくらその「解決案」で合意を見たとしても、それを現実の教団運営に反映させることは不可能なわけですよ。
もちろん、「絶版は正当なり」という「解決」であれば、何の障害もないでしょうが、それはこちらの方がとても容認できるものではありませんから、意味のないものになりますよね。

つまり、本当の「解決」を見るには、それ相応の「権力」がいるということです。
で、伺いたいのは、そういう「権力」をもった「立場」にいる人を「話し合い」のテーブルにつかせることが本当にできるのかということなのです。
私は、そのことを、「和解派」の皆様に問いかけているのですよ。
その道筋をどのようにつけようとされているのか?
そこが私には全然、見えて来ないのです。
「和解派」の皆様には、ぜひ、こうすれば道が開ける、という展望をお示し願いたいのです。

もう一つ、気になった表現について、記しておきます。
「批判派」「追放派」という表現方法のことです。
確かに私は「批判派」の範疇に入るのでしょうが、しかし少なくとも私は「谷口雅宣総裁追放派」ではありません。
何故か?
追放できないと思っているからです。

こういう話をすれば、谷口雅宣総裁という人をどう観るか、一種の「谷口雅宣総裁観」になろうかと思います。
案外、この論議をした方が互いの立場をはっきりさせる上でいいのかもしれませんね。


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