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【資料】神秘主義の系譜【探索】

211名無しさん:2013/07/23(火) 00:48:58
伊勢神道
いせしんとう

伊勢神宮に基盤を置いて形成された神道説で,度会(わたらい)神道とも外宮(げくう)神道ともよばれる。鎌倉時代に形成されたものに限るときは,これを前期伊勢神道,江戸時代のに限るときは後期伊勢神道とよぶことがある。一般に鎌倉時代には各大社がその由緒をもとに,仏教や陰陽道の教説をまじえて独自の神道説を編み出そうとした。伊勢神宮でも,鎌倉初期以来武士の神領奉献,僧侶の参詣が相ついでおこなわれ,種々の刺激を受けた結果,律令制下ではもともと神宮は仏法を禁忌する定めであったにもかかわらず,鎌倉時代後期には,神宮の神徳は広大で,〈我国の仏法偏(ひとえ)に太神宮の御守護によれり〉との主張が神官によりなされるに至った(《沙石集》)。ことに伊勢両宮のうち外宮(豊受大神宮)は祭神が御饌都(みけつ)神であるところから万民の食物をつかさどる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護神なることを強調して,信徒を広く集める勢いでは内宮(ないくう)をしのぐほどに立ち至ったらしい。

 1282年(弘安5)内宮造営料木のことに容喙(ようかい)して外宮衝宜(ねぎ)の一人度会行忠は職を免じられたが,これを機に京都に移り住み広範な教養を身につけたらしく,自著《二所太神宮神名秘書》を亀山上皇に奏覧し,その功により87年復職した。そして96年(永仁4)注進状に〈豊受皇大神宮〉と記したことの当否をめぐって内宮側との紛争が激化したころには,〈わが陣営には《倭姫皇女世記》《宝基本記》などの貴重典籍あり〉と呼号するようになっていた。この《倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)》《造伊勢二所太神宮宝基本記》などが,後世〈神道五部書〉とよばれるものだが,ここに,神宮の古伝承をもとに,さらに外宮の神徳の種々を掲げた典籍を根拠として,いわゆる伊勢神道の教説が唱えられるようになった。

 その主張する点を見ると,まず外宮の祭神御饌都神は,《古事記》《日本書紀》にみえる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や国常立神(くにとこたちのかみ)と同神であり,この神が天地開闢(かいびやく)にあたり天照大神と幽契を結んで永く天下を治めることにしたのだとして,天照大神の権威を世界観の上から基礎づけようとしている。ついで,外宮の神は水徳をつかさどり,内宮の火徳と両々あいまって人々の生活を発展させるものだが,前者はとくに万物を養い育てるの徳があるとして,食物神から生産神へと発展させて説いた。そしてこれら神格の根拠づけをするため陰陽五行説や真言密教の体系からも理論を借りている。ややおくれて1320年(元応2)に成った度会家行の《類聚神梢本源(るいじゆうじんぎほんげん)》には中国の宋学(程朱学)の文献までが引用されている。しかしこれらの教説をもとに教団が組織されることはなく,のちの吉田神道(唯一(ゆいいつ)神道)のほかは他への影響もさほど大きくはなかった。江戸時代前期に再び伊勢神宮の教説化の必要が起こり,同じく外宮の度会延佳(のぶよし)などの神道説では,儒教ことに易(えき)の理論と陰陽五行説とを採って神道の精神を説明している。これは後期伊勢神道とよばれ,近世の垂加(すいか)神道などへの影響が大きかった。          萩原 竜夫

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