[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
【資料】神秘主義の系譜【探索】
205
:
名無しさん
:2013/07/23(火) 00:06:49
靖国神社
やすくにじんじゃ
東京都千代田区九段坂上に鎮座。1879年6月4日に東京招魂社を抜本的に改革,靖国神社と改称,別格官幣社に列せられた。嘉永癸丑(1853)以来の国事殉難者,戊辰戦争の戦没者に加え,西南戦争の戦死者をはじめ,以後日本の対外戦争における戦死者を〈靖国の神〉となして国家がまつったもの。祭日は,1869年に東京招魂社が,正月3日(鳥羽・伏見の戦の日),5月15日(上野彰義隊の戦の日),5月18日(函館五稜郭降伏の日),9月22日(会津降伏の日)と戊辰内乱の折り目に設定したのをふまえ,靖国神社となったさいに会津降伏の11月6日(陰暦9月22日)を正祭となし勅使が派遣され,春の大祭を5月6日として春秋に整理された(現在の例祭は4月22日,10月18日)。一般神社が内務省管轄下であるのに対し,靖国神社は陸・海軍省と内務省の3省で管理運営された特別の神社であった。運営の主導権は財政をになった陸軍省がもち,内務省は神官の人事に関する権限しかもたなかった。祭主には祭典の主催に応じて陸・海軍武官が任命された。天皇の弔祭をうけ,70余におよぶ行啓幸がなされた。境内には遊就館が設置され,まつられている死者の生前をしのぶ遺品を展示し,近代日本の戦争記念館のおもむきをもつ。遺家族は,合祀の祭典等のさいに招待され,昇殿参拝をした。そのため,靖国神社は日清・日露戦争を経て戦死者が増大するにつれ,広く一般に浸透した。氏子をもたない靖国神社は,国家が戦争による死を〈国家隆昌〉をになったものとして意義づけて〈靖国の神〉となし,死者によせる遺族の心情を国家に収斂(しゆうれん)する場であったともいえよう。その意味では,日本の軍国主義と密接な関係をもった神社とみることができる。一方戦死者の遺家族には,肉親が〈靖国の神〉となることによって〈靖国の家〉という優越感を抱き,誇りとするむきもあった。第2次世界大戦敗戦後は神社本庁下の一宗教法人として存続。しかし日本遺族会(〈遺族会〉の項参照)や郷友連盟などは,講和後の1955年より,靖国神社国家護持運動を積極的に推進,〈靖国神社法案〉の成立をめざしている。この問題は,戦没者への国民感情のありかたにもかかわるが,信教の自由に対する認識にかかわるものでもある。⇒国家神道 大濱 徹也
一方,この神社は招魂社の名で東京市民に親しまれ,例大祭には多くの人出があった。かつて競馬場のあった境内の東側あたりには見世物や屋台が出て,明治・大正・昭和前期の東京風物詩となった。また1887年に建てられた青銅の大鳥居,88年建立の大村益次郎の銅像,1871年に開館し,武具や戦利品を陳列した遊就館,常夜灯などは,当時の東京新名所靖国神社に欠かせないものでもあった。⇒招魂社‖護国神社 小木 新造
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
招魂社
しょうこんしゃ
靖国神社および護国神社の旧称。1862年(文久2)福羽美静(ふくばびせい)(1831‐1907)らが討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山(りようぜん)にまつり,63年八坂神社境内に小祠を建立したのが最初である。討幕諸藩でも招魂慰霊がなされ,長州藩では64年(元治1)に藩主により山口市赤妻に設置され,慶応年間十数ヵ所に増加した。68年(明治1)5月太政官布告で霊山にペリー来航の〈嘉永癸丑〉(1853)以来の〈国事殉難者〉の招魂場を設置してより,諸藩でも〈旌忠社(せいちゆうしや)〉等の名称でそれぞれに設置。68年6月江戸城内で戊辰戦争戦没者の招魂祭を,7月には京都河東操練場で招魂慰霊の祭典をそれぞれ執行した。大村益次郎の尽力で69年に勅命により東京招魂社を九段坂上に設置し,鳥羽・伏見より箱館戦争にいたるまでの戊辰戦争戦没者を合祀した。79年東京招魂社は別格官幣社靖国神社となる。官祭招魂社は,各藩ごとのもので,74年の内務省達で官費支給を受け,山口,鹿児島等の討幕諸藩を中心に71年までに多くが設立されていた。私祭招魂社は74年以後が大部分である。これら地方招魂社は,旧藩域を中心にまつったもので,強い旧藩の郷党意識にささえられていた。ちなみに愛知県名古屋の官祭招魂社(現,愛知県護国神社)は,尾張藩士をまつった旌忠社にはじまったため,当初西南戦争の戦死者の分祀を〈土民〉のゆえに拒否した。かつ長らく尾張部出身者のみの合祀で,1926年まで三河部出身者は合祀されなかった。明治政府は,東京招魂社―靖国神社を頂点に,地方招魂社を系列化することで,天皇の下に民心を収斂させる場として招魂社を位置づけた。1939年地方招魂社は官私の別なく整理され護国神社と改称した。⇒護国神社‖靖国神社
大濱 徹也
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板