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【資料】神秘主義の系譜【探索】
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:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:47:07
廃仏毀釈
はいぶつきしゃく
明治初年の神仏分離と神道国教化政策のもとでの寺院,仏像,仏具などの破壊。中国では,北魏の太武帝による446年の廃(排)仏など4回にわたって大規模な廃仏(三武一宗の法難)がなされ,日本でも,1666年(寛文6)に水戸藩と岡山藩で寺院破却が行われた。また長州藩と水戸藩の天保改革にさいして寺院整理や黒祠破却がなされたが,これは明治初年の宗教政策の源流と考えることができる。廃仏毀釈という言葉は,これらすべてを指すともいえるが,一般的には明治初年のそれのことである。
1868年(明治1)1月,成立したばかりの維新政府は,第1次官制のなかに神祇科をおき,復古神道説の立場の国学者や神道家を登用して宗教政策を担当させた。天皇の神権的権威を確立するために,祭政一致がスローガンとされ,同年3月の一連の布告で神仏分離が命じられた。そのなかでも,仏教語を神号とすること,仏像を神体としたり神前に仏具をかざることなどを禁止した3月28日令は,神仏判然令として知られるもので,この布告を待ちうけていたかのように,比叡山麓の日吉山王社では仏像,仏具などのはげしい破壊が行われた。江戸時代の大きな寺社では,僧侶身分の者が高い地位を占め,神職身分の者はそのもとに従属していたから,明治初年の一連の宗教政策は後者の勢力拡大の機会となり,寺院からの神社の独立や神社からの仏教的要素の除去などが全国的に行われた。また,国学や水戸学の影響をうけた人物が藩政の実権をにぎり,藩政改革の一環として徹底的な廃仏をすすめ,藩士はもとより領民にも仏教信仰の放棄を強要して,神葬祭を行わせるような場合もあった。津和野藩,苗木藩,富山藩,松本藩,佐渡,隠岐などはそうした事例として知られているが,廃仏の動きがはげしくなると,真宗の僧侶・門徒を中心にこれに反対する運動が高まり,菊間藩三河領や越前では,廃仏毀釈に反対する農民一揆がおこった。明治政府は,最初のはげしい廃仏である日吉山王社の事件の直後に,私憤をはらすような破壊行為の禁止を命じ関係者を処分したが,70年12月には地方管庁で勝手に寺院の廃合を行わないように命じて,仏教勢力との妥協をはかった。そのため,地方寺院を廃絶する動きは収束されたが,山岳信仰など神仏習合的な宗教と宗教施設における仏教的要素の除去は,その後にむしろ強化された。また,路傍や山間の小祠,石仏,石碑などの民俗信仰的な宗教施設の廃絶は,大規模な廃仏毀釈の嵐がすぎてからも,上からの文明開化の風潮のなかでさらに徹底して行われていった。⇒神仏分離
安丸 良夫
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