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【資料】神秘主義の系譜【探索】

201名無しさん:2013/07/22(月) 23:40:08
神仏分離
しんぶつぶんり

明治初年に維新政府が天皇の神権的権威の確立のためにとりいれた神道保護と仏教抑圧のための宗教政策。維新政府は,1868年(明治1)1月17日の第1次官制で神祇科を,ついで神祇事務局,神祇官をおいて,復古神道説の立場にたつ国学者や神道家を登用し,彼らに新たな宗教政策を推進させた。同年3月13日に,祭政一致の制度にもとづいてすべての神社が神祇官の付属とされることが定められ,ついで僧形で神社に勤仕することが禁じられ,3月28日には,仏教語を神号とすること,仏像を神体としたり神社に鰐口・梵鐘その他の仏具をおくことの禁止などが定められた。さらに,閏4月19日には,神職の者は家族にいたるまで神葬祭とするように定められた。これら諸法令のうち,3月28日令が神仏判然令と呼ばれるもので,それ以後各地で実際に神仏分離や廃仏毀釈が行われ,神社に勤仕していた僧侶が還俗(げんぞく)して神職となったり,職業を失ったりした。また,江戸時代には僧侶身分の者の支配をうけていた神職身分の者が,勢力拡大にこの機会を利用してはげしい廃仏毀釈を行う場合や,地域で藩政担当者などが廃仏毀釈を推進して神葬祭が強制される場合などがあった。

 神仏分離政策の基底にあったのは,神道を国教として宗教の側面から国民意識を統合しようとする神道国教化政策であった。宣教使の設置(1869),大教宣布の詔(1870),宗門改めにかわる氏子調べの制度(1870),神社の社格と神官職制の制定(1871),東京招魂社,楠社など新しい神社の創建,伊勢神宮大麻の強制配布,教部省,大教院の設置と〈三条の教則〉の制定(1872)などは,その具体化の方策であった。また,71年には,従来宮中に安置されていた仏像・位使・仏具などがすべて泉涌寺(せんにゆうじ)へ移されて,宮中の神仏分離がなされ,皇族の葬礼はすべて神祇祭祀によることとなった。

 明治維新以前の日本の宗教は,神仏習合を基本的性格としていたから,神仏分離は,その当時実際に存在していた宗教や宗教施設を強行的に神仏に分割し,神道に有利な方向で日本人の宗教生活を編成替えすることを意味していた。教部省,大教院が設置される72年を転機として,仏教にも活動の場が与えられたけれども,神仏習合のかたちをとった宗教活動と宗教施設の強制的な改編分離はその後もひきつづき,むしろ強化された。そのため,これまで寺院のなかにあった地主神などが独立して大きな神社となったり,神仏いずれか明瞭でなかった宗教施設が神社になったりした。大峰山,出羽三山などの修験の山や富士山のような山岳信仰は,どちらかというと仏教的な色合いをもっていたが,山岳信仰も神道に組みいれられて,宗教施設の改廃や名称変更などが行われた。村の氏神など地域の小祠も,仏像を神体としたり仏具をそなえたりしている場合が少なくなかったが,これら小祠でも神仏分離を徹底し廃合をすすめて,一村一社の氏神を定め,それを地域の宗教生活の中心にすえることも,重要な政策目標であった。神仏習合の実態は,今日でも各地で観察できるとはいえ,明治初年の神仏分離政策によって基本的には解体し,神道と仏教とをまったく区別して意識する今日の社会通念が形成された。⇒廃仏毀釈              安丸 良夫

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