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【資料】神秘主義の系譜【探索】
1
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 03:52:02
※政治的動機での書き込み、宗教団体などへの勧誘および他者への誹謗中傷などの迷惑行為を禁止します。
神秘主義の系譜.pdf
http://kie.nu/19TU
※アップロードファイル消滅予定日時:2014年07月19日 20時56分06秒
2
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 03:52:33
「 宗教的秘密結社として最も長く生命を保っているのは,弥勒下生(みろくげしよう)信仰を中心に阿弥陀信仰,マニ教の菜食主義や五戒などの生活規範を取り入れて,元朝の中ごろに強大な勢力をもつにいたった白蓮教(びやくれんきよう)である。これは10世紀ころに始まり,時の政府から終始〈邪教〉として厳禁されていたが,元末(14世紀後半)に,紅巾の乱と呼ばれる大反乱を起こして元朝を崩壊に導き,さらに,明・清時代を通じて,厳しい弾圧を受けながらも,しぶとく存続し,清代中期,嘉慶年間(1796‐1820),長江(揚子江)中流域を中心とする山岳地帯で蜂起し,清朝支配体制を動揺させた(白蓮教の乱)。白蓮教の支派末流は,ごく近年まで根強く活動し,1900年の義和団運動のほか,在理教,黄天道など種々の名で華北一帯の民衆の間に信仰されていたが,その一つである一貫道は,現在も台湾で活発に布教している。」
3
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 03:53:19
マニ教
マニきょう Manichaeism
イラン人マニ Mani(216‐276‖277。正確にはマーニー M´n ̄)によって3世紀に創始,唱導された二元論的宗教。当時のゾロアスター教を教義の母体として,これにキリスト教,メソポタミアのグノーシス主義と伝統的土着信仰,さらには仏教までを摂取,融合した世界宗教である。その徹底した二元論的教義では,光と闇,善と悪,精神と物質とが截然と分かたれていた始源のコスモスへの復帰を軸として,マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される。教団組織は仏教のそれにならったと推測され,出家に相当する〈義者・選ばれた者ardav´n〉と俗人の〈聴聞者 niyヾshag´n〉の2種類の信者により構成されていた。前者には,肉食・動植物損傷の禁止,完全な禁欲,週に2日の断食,イスラムの断食月の先駆となったと考えられるベーマ B^ma 大祭(マニの殉教と昇天を祝う最大の祝祭)に先立つ1ヵ月の断食などが要求された。マニはササン朝のシャープール1世の厚遇を得て,インドに及ぶ精力的な伝道活動を行ったが,次々王ワラフラン1世の宗教政策転換により殉教した。死後も教義は後継者の手により,4世紀には西方では,エジプト,北アフリカ,さらにイベリア半島にまで伝えられ,イスラム時代以降も,ザンダカ主義のような形でイラン系知識人の間に影響を残した。
マニ自身はアラム語の一方言で記述したが,シャープール1世に献呈した《シャーブーラガーン》という中世ペルシア語書の存在したことも伝えられている。他の聖典としては《大福音書》《生命の宝》《プラグマテエイア》《秘儀の書》《巨人の書》がある。これらすべて,断簡としてしか残されていない。 上岡 弘二
[中国] マニ教は7世紀末に中国に伝わり,〈摩尼教〉あるいは〈末尼教〉と音写され,教義に則して〈二宗教〉あるいは〈明教〉と呼ばれた。唐代にあっては,白衣白冠の徒と称された摩尼教は,景教(ネストリウス派キリスト教)および松(けん)教(ゾロアスター教)とともに,西方渡来の宗教の代表と目され,それらの寺院は〈三夷寺〉と称された。とくに漠北にいたトルコ族のウイグル(回世)に広まり,第3代牟羽可汗治下にその国教となりさえした。唐の玄宗は732年(開元20)に邪教として漢人の信仰を禁じたが,在留の西域人については不問に付した。768年(大暦3)にはウイグルの要請で長安に大雲光明寺と呼ばれる摩尼教寺院が建てられ,9世紀の初めにかけて長江(揚子江)方面の大都会や洛陽,太原にも建てられたが,843年(会昌3)に会昌の廃仏に先立って禁断された(三武一宗の法難)。2年後の廃仏の際に景教と松教も禁断され,宣教師たちは還俗させられるが,摩尼教の場合は,入唐僧の円仁が《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》に,勅が下って天下の摩尼師を殺さしめたと明記したごとく,多数の殉教者を出した点が注目される。五代・宋代以後には,仏教や道教などと習合した秘密宗教として,江南や四川で行われ,しばしば官憲による邪教取締りの対象とされた。日本の《御堂関白記》をはじめとする日記の具注暦に日曜日を〈蜜〉と記すのは,摩尼教の信徒が日曜日を休日として断食日とした暦法が東漸して日本にまで伝わったことの明証である。なお,20世紀初頭以来の中央アジア探検によって,トゥルファン(吐魯番)などから多数の摩尼教関係の文献や壁画が発見された。 礪波 護
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
4
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 03:55:24
景教
けいきょう J°ng jiロo
大秦景教ともいい,キリスト教ネストリウス派に対する中国でのよび名。ネストリウスが,キリストやマリアの神性を弱めると解されかねない説を主張したため,431年のエフェソス公会議で異端と決定され追放されると,東方に教圏をもとめ,まずイランの地でかなり栄え,ついでさらに遠く中国に至ったのである。中国には,唐の太宗治世の635年(貞観9),ペルシア僧のアラホン(阿羅本)を団長とする伝道団が堂々と長安に到着するや,太宗は宰相の房玄齢らをして宮中に迎えしめ,その経典の翻訳を勅許し,布教を勧めた。3年後には長安の義寧坊に一寺を建立させ,僧21人を出家させた。つぎの高宗も景教を保護し,諸州にその寺院をおかせ,アラホンを崇(たつと)んで鎮国大法主とした。仏教に傾斜した則天武后の治世には少し衰えたが,玄宗によって保護され,アブラハム(羅含)やガブリエル(及烈)といった有力な僧侶によって大いに教線を拡大した。
当初はこの教えを波斯経教,その寺院を波斯寺,つまりペルシア人の宗教とよんできたが,発生の地がペルシアではなく大秦国であることを知り,745年(天宝4)には詔によって波斯寺を大秦寺と改めることになった。ひきつづき粛宗・代宗・徳宗の治世に優遇され,781年(建中2)には,篤信の居士イズドブジド(伊斯)の出資によって《大秦景教流行中国碑》が建てられたのである。この碑によって初伝以来の中国における盛衰の跡をたどることができる。この碑は,明の天啓年間(1621‐27)に偶然に発見されてから内外の注目をひき,今は西安の陝西省博物館内の碑林に陳列されているが,その複製は京都大学文学部陳列館と高野山にある。なお西方からの伝教士ガブリエルが玄宗の恩寵をえて布教に便せんと奇器異巧を造って献上し,非難されているが,これなど,明末のイエズス会宣教師マテオ・リッチらが天文儀器や時計などを朝廷に献上したことの先駆といえよう。唐の武宗が845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来の宗教をも一律に禁断したので,景教も迫害されることになり,急速に衰え,宋初には景教徒の姿は中国本土では見かけられないまでになった。しかし西北辺境方面や中央アジアではその信仰が維持され,11世紀にはモンゴル族のケレイト部やトルコ族のオングート部に多数の信者を擁していたため,ケレイト部と通婚したチンギス・ハーン家にも多くの信者を出した。したがって,モンゴル族がユーラシアにまたがる世界帝国を建設し,あらゆる宗教に寛容な態度をとると,ふたたび中原にあらわれ,今度は〈也里可温(エルケウン)〉あるいは〈達婆〉〈迭漢〉とよばれたが,いずれもペルシア語のタルサ,神を怕(おそ)れる人,の意味といわれる。とにかく元朝にあっては長江(揚子江)下流域にも相当の信徒がいたのであって,1289年(至元26)以後,崇福司という官庁を設けて事務を管掌させた。しかし,明朝が興ると,いっさいのキリスト教が禁断され,ネストリウス教徒も後を絶ったのである。⇒ネストリウス派
礪波 護
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
5
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 03:56:16
>>4
ネストリウス派
ネストリウスは
エフェソス公会議(431)におけるネストリウス断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が形成した教派。ペルシアを中心に,海路インド,陸路中央アジア,シベリア,中国まで拡大したが,13世紀末に衰退した。自称は東方教会だが,アッシリア教会とも呼ばれ,近世にカトリック教会と合同した一派はカルデア教会と呼ばれる。教義の面ではアンティオキア学派の神学者モプスエスティアのテオドロス,ネストリウスなどの教えを発展させ,キリストにおける神性と人性の独立性を強調し,両者の結びつきを実体的ではなく,道徳的にしか考えない傾向があった。そのためカルケドン派教会から異端とされた。初期の有能な指導者バル・サウマーは,ローマ帝国の弾圧を逃れて,5世紀中葉にシリアのエデッサからペルシア領ニシビスに達し,ここに神学校を設けて拠点とした。バル・サウマーはペーローズ王の厚遇を得て,ネストリウス派をペルシアにおける支配的キリスト教派となし,ベート・ラパト会議(484)で公式にネストリウス主義が受けいれられることになった。6世紀には修道制も確立した。
イスラムの支配下にあってもネストリウス派は繁栄を続け,特にギリシア語文献の翻訳者,医師,技術者としてイスラム文化の形成に貢献した。なかでもアッバース朝下に活躍したフナイン・ブン・イスハークは有名である。ネストリウス派教会の首長はカトリコスと呼ばれるが,5世紀末から東方総主教と称した。その座所はセレウキア・クテシフォンにあったが,アッバース朝時代にバグダードに移った。典礼用語はシリア語で,それは布教地においてもだいたい保たれた。布教活動は同教派の黄金時代を現出した東方総主教ティモテオス1世の時代,すなわち8世紀後半から9世紀初頭にかけてもっとも盛んであった。アラビア半島から海路インド南部に達し,大きな勢力を築いたほか,北方の陸路を伝わっては中央アジアから中国までのほぼ全域に及んだ。中国に7世紀前半に伝わったネストリウス派は景教の名で知られるが,中国では教勢は伸びなかった。ただモンゴル族とトルコ・タタール系民族のあいだで改宗者を得たことは,のちのモンゴル軍の征服の際にネストリウス派にとって有利に働いたが,モンゴル系諸国家のイスラム化とともに急激に衰退した。近世においてローマ教会の働きかけで一部のネストリウス派が合同教会(カルデア教会)を形成した。クルディスタンに答塞(ひつそく)していたネストリウス派は19世紀にアッシリア人の発見として世界に知られたが,勢力はごく限られている。⇒景教 森安 達也
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
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