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上海雑伎団スレ【第六十九幕】
4304
:
ちんぐり
:2025/11/09(日) 14:32:05 ID:j/vZMTJ.0
>>4297
ううん、唐突にこんな話をしたらびっくりしてしまうよね。
私も配慮が足りず、ごめんね。
ただ私としては、私きっかけで君に起きてしまった不安はできるだけ取り除きたいので、解消できるかわたからないけど長文申し訳ない。
まず、業というと何か罪深いイメージだけどすべて悪影響という話ではなく、例えば才能などのように良い方向として現れる業もあるんだ。
釈迦は過去の修行の積み重ねで如来になったと言われているから、ゲームで言えば、キャラ特性の引き継ぎに近いかもしれない。
君が気にしている「如来であっても業を避けられず、釈迦は最期に食中毒で亡くなった、それは不幸ではないのか」という疑問は、エゴ視点で見ていることによって生まれている誤解なんだ。
不幸かどうかを決めているのはあくまで主観であり、その主観を作っているのが自我だから、エゴで現象を見れば釈迦の死は確かに不幸に見える。
しかし釈迦本人は、先述の通り「不幸だ」「かわいそうだ」と判断する主体そのものを既に超えており、主と客を分けて裁く視点が完全に消えていた。主客が消えている状態では、病気も衰えも痛みも「不幸」というラベルが成立しない。
如来も肉体を持つ以上、現象として老いも病も起きるが、それは現象のレベルの話であって、苦しみのレベルとは別なんだ。
苦しみは「この現象はダメだ」「こうであってはならない」という拒絶によって生まれる摩擦であり、現象そのものから生まれるわけではない。釈迦はその摩擦を完全に燃やし尽くしていたから、食中毒という現象が起きても、それが苦しみになる構造が存在しなかった。
ここで完璧とつながる。
完璧とは、主が客を裁く構図そのものを溶かし、主客の分離を弱め、否定や抵抗という摩擦を燃やす実践だよね。
この摩擦が消えると「私が現象をどうにかしなければ」という因果の鎖が弱まり、自然と「すべてお任せ」の在り方が立ち上がる。
主客が統合され、因果の拘束力も薄れ、苦しみの連続も途切れていく。
釈迦の最期は、まさにこのプロセスの究極形で、現象は起きても摩擦が一切なく、抵抗もなく、不幸という物語も成立しないため、「業に敗れた不幸な最期」ではなく「摩擦のない完全な終息」として完結している。
つまり、完璧認定が進み主客が溶けていくと、最終的には因果の物語から抜ける。
映画のストーリーではなくスクリーンの在り方へと自然に移行し、その究極例が釈迦の涅槃なんだ。
涅槃が目標ではないと思うけど、今までのような苦からはある程度抜け出せるから、今回の業の観念も完璧としてもらえたらと思う。
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