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歓喜の泉(体験談・活動報告スレッド)

1若鷹の掲示板 管理人:2009/01/09(金) 17:50:17
体験談や活動報告のスレッドです。
小さな体験から大きな体験まで大いに語りましょう。
自分のものでなくてもOK。
「誰々のこのような話を聞いて自分も歓喜した」
「近くにこのような人がいます」でもOK。
但し『個人情報に抵触』するものにはご注意下さい。
誹謗・中傷は禁止です。

2公爵(旧ハンネ):2009/01/11(日) 12:38:26
若鷹の掲示板では、ログの流れが速いので再掲です。

【沖浦問題を考察する】その1・時間の重要性

私にとっての今年2008年は、広宣流布の闘いには「時間に勝つ!」ことがいかに重要かを思い知らされた年はない。

 私の折伏中の友人がいかに電話に出ずとも、約束をしてすっぽかされても、先輩に指導を受け、その先輩から「一ヶ月で出します!」と言い切った。その一ヶ月で「彼の心を開かせてみせる!」と決意し、一ヶ月より多少の時間オーバーがあったが、友人の心を開かせることができた。これは日顕宗の東日本大会があった当日の出来事である。少し大変だったが、これはまだ序の口で、すごいのはこの後である。
 悩める後輩の部員さんにアドバイスして、「色々な先輩に指導を受けるように」と言った後、「その問題を一ヶ月で解決できるか?」と言うと、部員さんは「はい」と言った。驚くことに、その部員さんはたちどころに活動をやりきり、この大不況の中で見事に正社員での就職まで勝ち取った。しかも彼は一ヶ月以内でやってのけ、自分の壁を打ち破った。部員さんが自分よりすごい結果を出し、「よくやった!」と本人よりも大喜びしてしまった。
「いやあ〜憎いね〜コノ!コノ!コノ!」と言ってやりたい(爆笑)。

 ここで特筆すべきことは、「一ヶ月でやる」とあるように、決意をしたら「いつまでにやるぞ!」という時間設定があることだ。普段何気なく、学会活動で組織から「5・3までに結果を出すぞ!」という声をよく聞く。実はこれには重要な意味があった。

■ 「決意をしたら、即いつまでに達成するのかという時間設定することによって、その時間内にすべき行動の密度や質をあげることにより、自身の限界を大きく打ち破れる力が生まれる。それだけではなく、メンバーの士気が大きく向上し、学会発展の原動力となる。しかもこれを知る人は稀なのである。時間に勝った分だけ境涯革命が可能になり、時間に負ければ結果がなかなか出てこないばかりか、信心が惰性に流されてしまい、悲しいことに、最悪は学会にいられなくなるのである。時間との勝負はそれだけ重要なのである」

…ということを知ったのだ。しかも驚くことに、この時間の重要性という答えが、意外にも「沖浦・樋田両氏の共通する根本的な問題」の中から導き出されたものだということを、誰が想像できるだろうか?私が樋田氏に二度目に会ったとき、樋田氏を実際に見た学会メンバーとある「共通の見解」を出して樋田氏を酷評。これは沖浦教祖の見解と真っ向から対立する。その共通の見解から、「時間の重要性」という発展した理論が誕生したのだが、これが先述した「決意と同時に時間を決める」なのである。樋田氏は、敵に学会発展の「武器」を渡してしまったということになり、これが組織の士気高揚につながってしまったのだ。

「日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり(上野殿御返事・P1558)」

 これが時間の重要性を説いた御聖訓である。
境涯によって時間の使い方に違いがある。法華講は他人(学会員)の過失・短所など「あら捜し」ばかりに時間を無駄にしてしまうが、」沖浦教祖一派もこれに属するだろう。あら捜しは失敗者のやることだというのは、一般で成功法則を研究する人間の共通見解でもある。早い話「時間に暗い」ということだ。

沖浦教祖は30年間も学会から信心指導も受けず、己の「我見」に翻弄され、さらに未活動家に優しい他の学会員に甘えてきた。学会は「指導主義」であるから、池田先生はおろか戸田先生をも背いたことになるし、信心指導をまったく受けない人間が、師匠の言葉を引用・歪曲すること自体が「師敵対」なのだ。そして最近では、他の学会員へのあら捜しが顕著になっている。大切な時間を無駄にしてきた人間だからだろう。
選挙戦のような時間制限と数字での勝ち負けがはっきりする闘いでは、まさに自身の壁を打ち破るのにもってこいの闘いはない。しかも、沖浦教祖はその闘いすら逃げてきたのは残念だ。

3鈴木清:2009/01/11(日) 16:03:57
公爵様
いついつまでにやり切るという姿勢は、社会での仕事でも同様大切な事ですね。
『その時間内にすべき行動の密度や質をあげることにより、自身の限界を大きく打ち破れる力が生まれる』
非常に素晴らしいお言葉だと思いました。

4公爵(旧ハンネ):2009/01/11(日) 18:08:48
鈴木さんへ

 はじめまして。拙い文章ですがよろしくお願いします。
 ネットは初心のようで。しかし、創価学会の基本活動は地元の組織での「ライン活動」と「指導主義」であります。ネットでは、地元組織から「信心指導」を真面目に受けない学会員も大勢いますので、一人一人をよく見極めた上でネットに参加された方がいいです。私も一時、信心指導をおろそかにした時期で、ネットで結構失敗しています。現在は反省していますが、基本はやはり現実での闘いが一番大事ですね。

 また、沖浦騒動でもあるように、これから現場での活動しないネット参加者に対して、厳しくなるかと思われます。どうか注意してくださいね。

さて、鈴木さんもデール・カーネギーの本を活用されているようですね。私は読書中で全部はまだ読んでいません。しかし、役に立つことがたくさんあります。
デールが「議論に勝つには議論を避けた方が勝つ」とあるように、友人との対話には、難しい議論は必要ありません。相手にとって創価学会の信心が、自分に必要だと「納得してもらう」ことが大事なのです。

例えば、同じ創価学会員で、同じ御本尊に向かって、同じ題目を唱える人の中でも、「成長できる人とそうでない人」がいます。さて、根本的に何が違うのか?
「そうでない人」「成長できない人」の信心とは、「題目をたくさんあげればよい」とか「題目さえあげれば大丈夫・何とかなる」といったような、「他力本願寄り」の信心をしている傾向があります。観念の信心ですね。
それとは対照的に、「成長できる人」の信心とは、現実のあらゆる問題や、人々の苦しみを我が苦しみのように「同苦」し、解決してゆく信心と行動という両方が備わっています。「現実の変革」こそ、創価仏法の最大の特徴だともいえます。ところが、沖浦教祖はその「現実変革」を軽視したため、堕ちてしまったのです。「慈悲心」がないということです。

折伏とは、あくまで慈悲の修行ですので、先ほど申し上げた「議論はハヤクヤレ」「議論に勝つには議論を避ける」に基づけば、「慈悲を第一にするならば、議論はできればしない方がいい」ということになるのです。そこが、ネット参加者の学会員の中で、実に90パーセント以上の人がわかっていない。ここを注意しなくてはならないのです。

もちろん、自分にとって信頼できる同志の方と、互いの信心を高めあっていける議論ならば、いくらでもやっていいのです。ただ、仏法の到達点はあくまで「慈悲」だということを忘れてはならない、ということなのです。

簡単ですが、挨拶がわりとさせていただきます。


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