したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

情報スレッド

89検証会議:2009/04/16(木) 02:59:01
フェイク 第1016号

(発行=09.04.16)

 日顕は焼香にも来ない冷淡さ
 大講頭・河原昭太郎の通夜にみる僧俗差別
 参列者は本堂に入らず下駄箱付近で焼香

 日顕宗・法華講大講頭の河原昭太郎が、去る十四日に死亡(本紙一〇一五号参照)。
その通夜が十五日午後六時から京都市内の平安寺で行われた。玄関の下駄箱付近には
焼香台が設けられて、参列者は靴を脱がなくても焼香できるようになっていた。これは
苦しみ抜いた末、遂に息絶えた故人の堕地獄の相を一般の参列者に見せたくないための
処置ではないかと囁く人もいた。

 本堂には遺族や法華講幹部が集っていたが、本来ならば、真っ先に駆けつけるべき
阿部日顕の姿が何処にも見当たらなかった。

 前日、日顕が来るらしいと噂していた関係者は落胆して「御隠尊猊下(日顕)は
冷たいな」「講頭さんは、あれほど猊下様に御奉仕されたのにね」と、ヒソヒソ
囁きあっていた。

 というのも、河原は法華講の大講頭に加えて、平成十八年四月には立正安国論正義
顕揚七百五十年記念局委員、地涌倍増大結集推進委員会委員にもなっており、日顕、
日如が来るのが世間の常識だ。だが、どんなに役職があっても、信徒に冷たいのが
日顕宗である。

 死んだのが、もし末寺住職であれば、ニセ法主や総監、宗務院の正副部長らの役僧が
ゾロゾロ集まって来るのに、日顕に尽くしぬいても信徒だと焼香にも来ない――これが
日顕宗坊主の信徒に対する余りにも冷淡な態度なのである。

 六人の大講頭の中でも、河原は特に日顕との関係は深い。日顕が平安寺にいた頃から
の腐れ縁である。

 日顕が平安寺住職になったのは「シアトル買春事件」直後の昭和三十八年四月、当時
は教学部長だったが、僧階は権僧都、遊び盛りの四十代前半だった。日顕の遊興は東京
の本行寺時代から派手であったが、平安寺に移ってからの遊びは一段とエスカレート
していた。

 昨年の暮れに死んだ山崎正友は、日顕の道楽について昭和五十六年二月十二日号の
「週刊文春」に次のように書いていた。

 「日顕自らが、若い頃より知らぬ人のない遊蕩児であった」「(父親の日開が死んだ
時も)日顕は、吉原に居続けていた」「熱海に愛人が出来て、女房と離婚して一緒に
なると騒いだことがあった」「金がなくなると、先輩の寺に朝早く来て、門前で無心
して行った。離れた所の電柱のかげで、女がかくれて待っていた」

 更に「京都の平安寺にいる間も、神戸の福原、大阪ミナミのピンクサロン、生駒の
岡場所などへ毎日のように繰り込んでいた」

 ここまで暴かれた日顕が、執筆した山崎に「嘘つきと言って悪かった」と謝ったほど
だから「週刊文春」に載った日顕の酒色狂いは、真実ということになる。

 この日顕の遊興三昧を支え続けた一人が河原であった。

 平成四年十一月、古巣の平安寺へ出向いた日顕は、昔を振り返り、こう言った。
 「(河原は)入信して以来、常に折伏、折伏ということを述べて、自行化他に精進を
しておられた姿が今でも眼に浮かびます」

 日顕は自分の恥部を知り尽くした河原に対する最大の賛辞を呈していたが、通夜に
顔も見せない。

 これでは講員に「供養、供養」と叫んで、縛り取っては日顕に差し出していた河原も
浮かばれないだろう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板