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116検証会議:2009/05/13(水) 16:22:04
 石山だより

 平成二十一年五月十三日

 一、宝浄寺住職・富士学林長大村日統の葬儀が十三.十四日に行われる。
享年七十五歳。合掌

 昭和十六年十一月二十八日、八歳で出家得度して六十七年になる。幼くして出家した
苦労はさぞかし大変だったろう。

 戦後の宗門は、農地解放のため、本山の土地が五万坪までになってしまった。
そして、まともに食べることさえ出来なかった。本山では、坊の裏はみんな畑になって
いて、そこを耕し、米、野菜を栽培して細々と生活していた。当時は、みんなが
貧しかった。建物は老朽化し、絹衣を着するなんて考えられない時代だった。貧しい
時は、僧も俗もなく、日昇猊下でさえ坊に来て一緒に食事をとった。時には、僧も俗も
一緒に畑仕事をした。そんな困窮した本山の実情を憂い、登山会を提唱してくださった
のが第二代戸田会長であった。老僧は「今の若い者に、戦後の大変さが解るか」と
しみじみ語っていた。

 一、思い返せば、第三代池田会長が就任後、海外広布の伸展により昭和三十八年三月
初の海外出張御授戒が行われた。その際アメリカに行ったのが、日顕と大村だった。
この時、宗史の汚点となったあのシアトル事件が起きた。

 日顕とは、この時以来の悪縁となった。昭和三十九年十二月二十一日、弱冠三十一歳
で大世帯の宝浄寺の住職に任命された。落慶入仏式から間もなく、四十五周年になる。
何かに付け、絶大なる配慮をしてくださったのが、池田名誉会長なのである。大村に
とっては、大恩人の大檀那だった。

 その大恩を仇で返した。かずかずの忘恩の所行は、仏法の因果の理法に法り厳罰と
なって顕れた。

 大村は、よく「マイ・ウエイ」を歌ったが、自分の信念を持って生きればよかった
のに、余りにも極悪の日顕の言いなりになりすぎたことが、人生最大の誤算だった。
(悪侶出来せば親近す可からざる事・在勤鼠)

 どうやら妙光寺・尾林日至が、今朝5時過ぎに亡くなったとのこと。最近、見る影が
なかった。


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