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109
:
検証会議
:2009/05/02(土) 23:07:58
新改革通信 第99号
平成二十一年四月二十八日発行
「僧俗差別」を説く日顕らは、大聖人を迫害した者たちと同じ立場にある。"民主化"
という時代の波に逆行する、法主独裁の宗門は、前世紀の遺物でしかない。
建長五年(一二五三年)四月二十八日、日蓮大聖人は清澄寺で、南無妙法蓮華経こそ、
末法の民衆を救済する唯一の正法であると宣言された。
しかし、念仏を厳しく批判した大聖人に対し、念仏の強信者であった地頭・東条景信
は激しく憤り、大聖人の身に危害を加えようとした。
すなわち、立宗は長く続く迫害の幕開けとなったのである。
●今の宗門は大聖人を迫害した側と同じ
大聖人が戦った相手は、衣の権威で民衆の自由を奪っていた僧侶たちであった。彼ら
は僧俗差別を説いて民衆の地位を貶めていた。
どんな人にも最高の生命境涯である仏界がある。しかし、当時の僧侶たちは、誤った
教えと僧俗差別によって、その仏性を封じ込めたのだ。
今の宗門も同じである。彼らは"成仏にも差別がある"という。すなわち僧侶の成仏と
信徒の成仏とは違うというのだ。それは、信徒は、どんなに努力をしても僧侶を超える
ことができないという意味である。
彼らにとって差別は自分の立場を守るための装置である。しかし僧俗差別を説くと
いうことは、宗門は宇宙大の生命境涯である仏界に差別を設けただけでなく、仏界を
矮小化するという、反仏法の教えを説くことになるのだ。
●宗門事件は試金石だった
宗門事件というのは、宗門が僧俗平等の大聖人の教えを受け継ぐのか、それとも
檀家制度の弊害でもある僧俗差別の道を選ぶのか、その選択を迫られた試金石だった
とも言える。
もし、宗門が衣の権威・出家の慢心を打ち破ることができていれば、宗門は、
僧俗平等を貫く、真の日蓮門下の僧侶集団として、生まれ変わっていたかもしれない。
しかし、日顕にはそれができなかった。「目通りかなわぬ身」という言葉に象徴
されているように、出家の慢心に取り憑かれた日顕は、独裁者の道を選んだ。
そして、他の宗門僧侶たちも日顕につき従い、カトリック教会が自分たちの立場を
守るために、地動説を唱えたガリレオたちを迫害したように、宗門をあげて、
池田名誉会長を非難し、僧俗平等を唱える創価学会を異端として、破門した。
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