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仏教と金剛禪

1名無しさん@いらっしゃい:2006/05/17(水) 16:22:03
前のスレタイトルがあれだったので新たにスレを立てました。
ここで質問を書いてはいけないと思いますが
仏教についての質問なので書かせて頂きます。
仏教と金剛禪の話の中で法燈明の話はいつか出てくるのでしょうか?
やはり自燈明と法燈明は二つで一つの教えだと思いましたので一様・・・

229名無しさん◆いらっしゃい:2011/08/31(水) 17:36:27
中華拳法の派生は20年くらい前の漫画で
「拳児」に詳しく書いてあったね
中華少林寺の秘技が体当りってのは本当なのかな

230名無しさん◆いらっしゃい:2011/08/31(水) 19:20:02
雰囲気はともかくあれは漫画だぞ

拳児-wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B3%E5%85%90
>本作において八極拳は、主人公が主として学ぶ武術ということもあり、非常にダイナミックに描写されている。そのため、劇中の八極拳には漫画的な誇張が多く、実際の八極拳の姿とは大きくかけ離れた部分も少なくない。

231流浪の煩悩人:2012/01/17(火) 04:34:34
仏教では恋愛やらはイカン!みたいなかんじであると思います。
法句経を読む限りも、愛別離苦のようなかんじで書かれております。

金剛禅ではどうなんでしょうか。
在家のための自己確立と地上天国実現の為の教えと行動であるから、そこまであれやこれやと云うのもあれだとは思うのですが・・・。
金剛禅の目的は小乗仏教の経典の追究にあらずして、上記のような感じであるからそんなこと考えんと修行せいっ!というのが正道なのでしょうか?
法句経を読むのは教範の周辺領域の研究目的・・・。

でもしかしBUT、どうも腑に落ちないのです。
皆さんどう思われますか。

232アップル:2012/01/17(火) 08:27:55
面白い内容だとおもいますが、
流浪の煩悩人さんが聞きたいことが少しわかりにくいので、まとめてくれませんか?

いか、印象からの個人感想です。
仏教の戒律でいけば昔は女犯といって女性に対する恋愛感情を抑えなさいみたいなルールがありましたが、
今はないですよね。

そもそも、仏法ではあらゆるものを否定しないし。中道いうてるし。

金剛禅ではどうか。
開祖も家族あるし、
教典では、夫婦相和し、とありますからね。
少なくとも否定されるものではないと思いますよ。

233615期生 ◆1WOpAbkgRc:2012/01/17(火) 12:01:03
私も腑に落ちない、釈尊が童貞ではないことに。

冗談はさておき仏法というか、特に日本仏教では色恋事は実に揉めやすい話題ですよね。
最終的には、仏教がどうこうとか金剛禅がどうこうというよりは、私はどうするてことになります、
極論ですけども。もちろん門信徒として守るべきものはありましょうが。

いろんな佛教がありますけど、禅宗的な思考パターンでいくと(施行とか言ったら怒られそうですが)
>そんなこと考えんと修行せいっ!
というよりは、避けず突入して、考えぬいて下さい、ではないですかね。
小乗仏典の研究も大いにありだと思います。研究の要を感じた機縁があったわけですから。

世に戒律ムと言われるものはたくさんありますが、佛法で言う戒律、とくに個人向けの戒は
「してはいけない」ではなく「しないほうが良い」くらいのニュアンスだったように思います。
余談ですが、モーゼの十戒も「汝、アレやることなかれ」みたいな書き方で
民衆ではなく「汝」という個人向け、「するな」ではなく「なかれ」てのがおもしろいですね。
他人はどうあれあなたはやめといたほうがいい、位ののりが不思議です。

していけない、とするとこれまた面倒です。
禅に神仏なしといいながら何故に師(黄檗)は仏像に手を合わせるのか、と弟子が質問したら
「うっさい、ぼけ、わしはそんな事考えてる暇はないんじゃ」と殴っとい話があります。
なるほど、「何かはいけない」と言うものは多い。仏教的に言えば、それは煩悩から離れるため
解放されんがためであります。こだわりを取ること、握っているものを離すことです。
しかし気を付けなければいけないのは、「離れなければならない」ということにこだわってしまうのも
これは握っているこどではないでしょうか。神仏に礼拝してはいけない、というのも握っていることではないでしょうか。
ほどけばほとけ、とはうまくいったものです。黄檗はただ手を合わせたかったから合わせただけではないでしょうか。
そこに「いけない」などいうことをかんがえる暇、余地などなく自身の心に素直に従ったのではないですか。

弟子の道には2つあると思います。師に言われたことを守る道です。これが概ね上座部です。
「舎利子チン、アレヤy無いほうが、いいんでない?」そう言われたから舎利子は辞めたとします。
しかしべの人にも同じ事を言うかはわかりません。釈尊はあくまで、その人に対してその状況で
言ったからです。ですから、異なる対象、異なる状況なら釈尊はどういっただろうか、言葉の一字一句ではなく
その真意を割れに当てはめて考える道、それが概ね大乗です。だって釈尊に会ったこと無いんだもん。
場合によっては、釈尊の言われたこととおなじくらい釈尊が辿られた道を重視しているように思います。

開祖だって人に拠って同じ逆小手をかけたわけではないでしょう。いろんな逆小手があったでしょう
開祖の逆小手はこうだったというても、素はあなたにかけた逆小手であったはずです。
それをどの程度一般化かして良いか、それには一考の余地があります。そして人によって
いや、開祖の逆小手はこうだったと、微妙に違うことを言い合うようなことが人の世ではよく起きます。
これが「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」というやつです。どちらの逆小手も真であったのに
他方を捨てて一方を取る、真を「そのままに」受け入れず、好きなもの都合の良いものだけを取る。

私は開祖にお会いしたことはない。かなうならお会いしてみたかったです。
ちなみに釈尊にもお会いした事無いです。かなうなら(ry
今となっては、どういう意味で言ったんだろうと妄想するしかありませんね。そしてそれは自分で掴み取っていくしかありません
方を拠り所にはしますが、時と場合によっては佛さえきってしまうのが佛法だからたまんない。

234流浪の煩悩人:2012/01/17(火) 17:21:03
>>231
アップルさん。私が聞きたいのは、
「金剛禅や仏教では恋愛をどうとらえて、どうあるべきと方向つけるか」ということです。
・・・う〜ん。夫婦相和し!の時点で結婚してますよね。
恋愛は何もないとこと結婚の間の曖昧な期間ですよね。
夫婦というならお互い幸せにやったら良いのですが、恋愛となると・・・。
何より結婚した後より執着が起こったりするように思います。
さて、どう実践すべきか・・・といった感じです。

>>233
615期生さん。
その時その時で思案すべし!というのは大いに共感します。
戒のニュアンスのとりかたも理解に難くないです。五戒は金剛禅の読本や少林寺拳法教範に載っていますけれども開祖を含めて完全には守っていませんからね。
お酒があるからこそ語り合える?というのもありますしねw。
してはならん、してはならんと執着するのはいけませんもんねm(__)m。

よく金剛禅の教典だけで腑に落ちないときは他の宗教書をあたります。
法句経やチベット仏教、しまいには他の宗教や国学の本も当たっています。
本部が公式見解をださないことが金剛禅のある意味での良さなのかもしれませんね。
人間十人十色、みんなちがってみんないい。
人間的な教えとして金剛禅はできたわけですからね。
目指す到達点はしっかりと示されているし、教義や語録もある。
後は拳士、拳士のとらえ方、生き方ですね。

・・・ただ開祖の語録をまとめたHPが閉鎖されたことは非常につらいです。

金剛禅が他の考え方を見る中で非常にうまく開祖はまとめられたな。というのが感想です。
スレ違いですが、少林寺拳法の全体像を見ると、それこそ綿密に教範も技術も作戦も練り上げられているように思います。

235615期生 ◆1WOpAbkgRc:2012/01/17(火) 18:38:42
もともと佛教の宗派なんてのは学派みたいなもんで兼学が基本のように思います。
南都六宗だって行き来されてたし、道元だってはじめから禅宗を学んだわけではありません。
開祖だって別にどこかで「少林寺拳法」や「金剛禅」を学んだわけではありませんしねー。

本部の立ち位置はわたしもいいと思います。
しかし金剛禅について語ることの出来る人が少ないのはまずいと思っています。育ってない。

最近会報や武専講義で頻繁に内修外修が取り上げられるようになりってますが、
あれは本部がようやく制定したという事ではないかなと思っています。これまでの教範以上の内容が
突然顕れました。これで良いと思います。

金剛禅はまだ未完な宗派です。本部もそれはわかっているから整備をして行っているのだと思います。
日本曹洞宗ですら、道元一代では完成されず、おおよそ四代目で100年近くかかって現代の体系になったと言われます。
そうして700年続く法を保ってきたわけですから、開祖一代開創60年で改正したと考える人がいるなら
それは開祖が人を残すことが出来なかったということにほかならないでしょう。
開祖すげーと思うことはありますが、たとえ開祖が傑出していたと仮定しても、(他所様の話が出ててるので敢えてこう書きます)
現段階の金剛禅が完成していると考えるべきではないように思います。

これは拳技も同様でたとえ「少林寺拳法がすごい体系」であったとしても、後進はそれをさらに高い価値のものにするべく
研鑽が必要ですし、まちがっても「神聖にして侵すべからず」となってはいけないと思います。

ですから、金剛禅以外の仏典を当たることは至極当然の話であり、自信をもっと行われるべきだと思います。
拳技も同様です。開祖は実によい全体像を構築してくれたので後はそれを詰めていかいなと勿体無いなぁと日々思います。


開祖法話は多少はアーカイブしてますので、もしメールでもいただけたらお分けしますよ〜

236ビスキュイ:2012/01/17(火) 21:18:52
宗論であれ拳技であれ、伝承が「劣化コピーの連続」になってはマズイですよね(´ω`)

237アップル:2012/01/17(火) 23:41:19
>恋愛は何もないとこと結婚の間の曖昧な期間ですよね。
結婚してからも恋愛は可能。夫婦になっても恋愛しててもよいと思いますよ。
いやでも恋はするだろうし。それを受け入れられるかどうかではないでしょうかね。
金剛禅は生き抜くことを大前提にしていますから。
仏法を実践するのに、学に走るのはつまらん生き方だなーと思う訳です。

で、本題にもどって金剛禅は恋愛をどう考えるか。
流浪の煩悩人さんの定義として、
「結婚するまでの恋」片思い、両思い含む
としてもっかい考えてみます。
面白いですね。考えても見なかったなぁ。

恋に限らずですが、
教範では人の苦悩を「過剰な期待と結果とのギャップ」によって生じるガッカリ感からくるものだと仏陀は因縁という言葉でおしえてるんだ。
と(いうような内容を)書いてありますよね。
そこから教範では祈祷やお呪いなど神様に体する一方的な願いなんておこがましいんだぜ!という話になるのですが、

好きかもしれない症候群はとまりませんからね。

んー、文献や思想からは答えが出ない気がしてきました。

後輩が恋したとして、先輩である私が、
拳士としてアドバイスするなら。

全力でイケ!道場休んででも!というでしょうな。

238名無しさん◆いらっしゃい:2012/03/21(水) 01:55:47
>>233
615期生 さん

本論から離れますが、気になったので

>余談ですが、モーゼの十戒も「汝、アレやることなかれ」みたいな書き方で
>民衆ではなく「汝」という個人向け、「するな」ではなく「なかれ」てのがおもしろいですね。
>他人はどうあれあなたはやめといたほうがいい、位ののりが不思議です。


「なかれ」は文語の形容詞「なし」の命令形ですので、この文はもっと厳格な表現では?

参.
この箇所は他の版では、
・日本語聖書の最新訳の新共同訳……〜ならない
ex.殺してはならない。 , 姦淫してはならない。

・英訳聖書(欽定訳聖書から一貫として)……shall not (文:shalt not)
ex. You shall not murder. , You shall not commit adultery.
 ※shall not は、法律や契約で、禁止に使われる表現

239名無しさん◆いらっしゃい:2012/03/21(水) 04:35:30
ああ、ちなみに、
>民衆ではなく「汝」という個人向け
は、単に、転用語法による強調表現ですね
ttp://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%BB%A2%E7%94%A8%E8%AA%9E%E6%B3%95

240615期生:2012/03/21(水) 12:54:27
これいは明快なお話ですね。
勉強不足で恥ずかしい、ありがとうございます。

243222:2013/04/01(月) 20:58:47
鎮魂行の打棒は臨済宗で現在も行われているそうでした、不勉強でした

臨済宗でも儀式の時は六尺棒で床を打つようです。

244615期生:2013/04/03(水) 14:08:56
それは知りませんでした。
京都別院周辺ことを考えると、臨済宗の影響が濃いのかもしれませんね。

248名無しさん◆いらっしゃい:2013/10/09(水) 12:57:06
>>36
だって法律家は現実を見ていないもの。
裁判官は週刊誌すら読まないし。
週刊誌にはまだジャーナリズムが生きているのに。

249cheap michael kors handbags:2014/06/16(月) 07:56:26
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250名無しさん:2014/08/01(金) 23:12:47
金剛禅は格義仏教でしょうか?
無我論ではなく魂魄を肯定するように思いますが・・・

251615期生:2014/08/02(土) 07:09:53
格義仏教という言葉を知らなかったのでお相手するのは恐縮ですが、wikiを読みますと・・・
老荘思想の用語と影響を受けまくってるか否か?てことでしょうか。
インドの仏教とは違うのではないかというお話ですか?


魂魄は教範で定義されてますもんね。あの魂魄論自体世間的に見てどれくらい一般性のあるものなんでセう。

252250:2014/08/10(日) 20:50:57
返事遅くなりました、少林寺拳法の魂魄という概念は道教における霊肉二元論
とどのように違うのでしょうか?仏教は無我論を展開しますがこれとは矛盾しませんか?

253250:2014/08/10(日) 20:55:27
魂魄とは死後、天に昇る魂と地に眠る魄をなす霊肉二元論の道家の思想ですので、無我を唱える仏家の思想ではないのでは?

近代中国禅が日本で言う習合仏教のように道教と合わさってるのでしょうか?

254615期生:2014/08/11(月) 12:04:02
実に楽しいお話です。私も知らないことがあるのでよい勉強のきっかけになります。
おいおい調べていきたいと思いますけど、とりあえずネットで検索で検索!! カチッとかるくやってますが。

インドを出た時点で、Chinaにしろ日本にしろ必ず土着の信仰と混ざっているのは避けられないのではないですか。
密教のようにヒンズー等インドでさらに影響を受けたものもあるわけですし、これは人々の努力といいますか
真摯な行功てなもんではないですかね。

釈尊にしろイエスにしろ、そのスタイルはおおよそ対機説法であり、形式的なトークを好まなかったようですから、
もともと仏説には幅があるものだと思います。ChinaにはChinaのの風土があり、日本には日本の風土があり、
またインドもまた大きな大陸で各地気功にも差がありましたから、たとえば「雨季は定住な、寺て呼ぶわ」とされても
では雨季が激しくない地域もそれを行うべきだろうか、という疑問は当時からあったはずです。

そういういみでは、
インドの仏教とは違うかもしれない、いやたぶん、というか絶対違うだろうが、これも仏教。てなもんかとおもいます。

世には原始仏教とかその手の言葉はありますが、むしろ仏法が遍くものを備えていればこそ、他の信仰とも通じcomplexできるのであって私はむしろ素晴らしいことだと思います。
人々の敬虔な息吹すら感じます(たまには)。

開祖がChinaでどのような道教に触れたのでしょうね。おそらく大陸でも道教は地域や家庭単位でも、かなり幅があるのではないですが。
開祖がとのような人と触れてどのような影響を受けたのか今ではわからないところですが、魂魄という概念はやはり大陸の生活で培われて、金剛禅に入れとこう!!と思ったのは間違いない個でしょう。

しかし教範の魂魄の解説によると、天地のことは書かれていませんし脳との関連において東洋には以前からそのような概念があった、と結びつけている
程度ではありませんか。特に道教というよりは、魂魄という単語を用いているだけに見えます。
教範にある「天」はダーマのことですから、おおよそ仏法や理という概念に近く、その末端にして全たるダーマを人間は持ってるから、
可能性があるから強く生きようyo!てのが金剛禅の根底です。まあ、誰にも仏性はあるから修行しようぜ愚民どもーーーっ、みたいなもんでしょう。
ですから、道教における魂魄の概念と無我論の比較は、金剛禅とはあまり関係ないように思います。



私は無我論というものを学んだことはないのでよく知りませんが、私の感覚だと、ここでいう無我とは「無い=在る」というニュアンスを含むのではないですか。
諸法無我という言葉もありますが、つまり「無い」とは「隔たりがない」、凡や空のようなものではないでしょうか。

255250:2014/08/12(火) 23:36:23
原始仏教というより初期仏教の考え方を金剛禅は踏襲していると、我々も学ばされているつもりです。
聖句からいきなりダンマパダから引用しているのがその意味だと思います。

更に少林寺拳法は身心一如の修養法だとも教えられます、身心一如は読んで字の通り身体と心は不可分であるという一元論でありまして
魂魄思想における二元論を否定する事になります。無我論においても私というモノに魂というモノは無いと考えます。

釈尊はバラモンの有我論における、絶対の有我を否定しておりこれが仏教の真髄であります。
故に我々も教本で仏教のスローガンである三法印を学んでおりますので、魂魄論は余りにも矛盾するように思います。

もちろん自分も法華経の本地説を否定する者ではありません、タイやネパールの上座仏教国といえ地元の聖霊信仰と習合されています。
釈尊に全ての神々も帰依しているので、全ての神々も釈尊の教えを対機説法として説いている、これはまあ、仏教の多様性という素晴らしい思想ですが金剛禅は僧階所有者に正しい釈尊の教えを学ぶように指導しているのに釈迦の本義を否定する二元論を肯定するような思想を教えているのは矛盾しているように思います。

それともう一つ、霊性という金剛禅独自の単語の意味が分かりません。
霊性とは、戦後の鈴木大拙居士の造語もしくはキリスト教の霊性どちらの意味なんでしょうか?
霊性という言葉は辞書で調べても、その二つしかないですし霊って仏教用語でもないですよね?

霊性は鈴木大拙居士の造語であるなら、宗教意識という意味になりますし、キリスト教ならば神がアダムを創るときに自らの身体に似せて土くれからアダムを造ると時に神がアダムのボディーの鼻に吹き込んだ吐息となります。

霊性を魂だとすると、これまた釈尊の否定する有我論となります。

>無我とは「無い=在る」その通りです有るでは無く在る、では何が在るか禅では自己だと言いますが
魂は無い無我だと言いながら自己が在る、矛盾に感じますが我と言う魂(アートマン)では無く 無我なる自己は縁起により仮因縁和合として在る。

そこまで行って始めて釈尊ではないですが
「縁起の理法 歴然として私無し」だと思います。

こういう風に自己を説明してくれたらいいのですが、魂魄だとか霊性だとかを漠然と単語として使い説明も無いというのはおかしいです。

それに最近は、金剛禅は唯識にアプローチしてますね、ほんま本部はちゃんと理解して教学を説明できるんか心配です

256615期生:2014/08/13(水) 14:04:34
私もダンマパダを持ってくるあたりに開祖のセンスを感じますwww
通戒偈を落としてしまったのはすごく残念ですけど(´Д⊂グスン

>二元論を肯定するような思想を教えているのは矛盾しているように思います。
ここには同意致します。
しかし私にはまだ金剛禅の魂魄論が二元論を指しているのか、正直わからないままであります。もともと道教の魂魄論の理解もままならないのですが。
私の場合は一元論というよりは、不二観として金剛禅を学んだせいもあり二元あってもまあいいや的な解釈に陥りやすいのかもしれません。


上記の通りもし現在の金剛禅の展開に矛盾があるなら、これからどんどん修正が必要な点ですね。
どうも多くの拳士は、漠然と少林寺拳法は完成されたすげー体系であると信じこむフシがありますが、拳法も哲理もまだまだ未完成であることを
認識すべきであると思います。本部はいちよその辺はわかっていると思うので、ここ最近でもちょっとずつこれまで教範になかったような解釈を
漏らしつつ在るのはそういうことだと、信じています。
完成していると認識されては、だめになる一方ですし、その露呈した解釈はともかくとしてそういう認識が在るのだとわかってやや安心てな感じです。

もっと本山だけではなく在野においてもこのような議論が交わされればよろしいのですが、みんな興味なさそうですしwwww orz


確かに教範では「東洋では〜これを魂魄言うねん」て東洋の一般概念として紹介してますね。金剛禅における個別の魂魄論というより、東洋一般として用いていますね。
あらためて読むと、「第二章 武の意義と武道の本質」の項において「四、人の霊止たる識の認臓」を何故入れてきたのかがねいまいち不明。どうも浮いてませんか。
ダーマの分霊、霊性在るよね、てことでそれを高めてね、て言いたい。てことでいいのでしょうか。

あらためて読むと、魂は新皮質の働き、人間の心でダーマの分霊… え、ダーマて人間にしか分霊無いの Σ(゚д゚lll)ガーン
私のダーマ感ではニャンコも石も犬も杓子もダーマだったのに、勘違いだったようです。

(霊性についてはレスを分けさせていただきます。)

257615期生:2014/08/13(水) 14:16:59
分けて書くほど内容もないのですが…

霊性という言葉は一般的ではなかったのですね。日本的霊性は私も以前読みましたが鈴木大拙氏のオリジナル造語だったことは知りませんでした。
開祖もさらーと使ってますが、金剛禅独自の単語だったのですね。

自己という言葉は金剛禅ではとても大切なキーワードですから、確かにより明確な定義付けがあっても良いかもしれませんね。
日本的霊性ではないですが、確かに現在における金剛禅の自己は「宗教的意識」としては低いものかもしれません。
別に低いものがすべて悪いということではないと思いますが、自己に対する解釈はもっとしっかりしてあるべきですね。きっとそれのほうが拳法も生きるはず。


開祖はどこから魂魄という概念を入れようと思い立ったのでしょうね。
さらっと調べると、初版教範にはダーマという言葉は一度しか登場せず、それも鎮魂行の一文としてあるだけで解説はなし。
魂魄という言葉は初版にも第二版にも出てないようです。ということは昭和40年ごろに入っての教範あたりからの登場なんでしょうかね。
すでに大きくなりつつあった少林寺拳法の組織・構成員をみて、どうして魂魄という言葉を入れようと思ったんでしょうね。

258250:2014/08/14(木) 12:25:27
>金剛禅の魂魄論が二元論を指しているのか、正直わからないままであります

魂魄論は肉体と魂を分けて考えているからです、教義では仏教は身心一如であります、肉体と心は分けれないと考えます。
死後において、魂と魄が分裂し天に魂が登り地に魄が眠るというのは、まるでプラトン等の言う霊肉二元論ではないでしょうか?

>どうも多くの拳士は、漠然と少林寺拳法は完成されたすげー体系であると信じこむフシがありますが
そうですね、技術においてだけではなく、教義においても教範により完成されたものであると勘違いしていますね。

ダーマ論においても、呼び方からしてダルマ=法を達磨と混同しない為にダーマと呼んでいるなんて言わず、
サンスクリット語のダルマやダンマではなく、広く民衆に広められたパーリ語のダーマと言う語句を利用とすればいいと思います。

ダーマ=法をきちんと説明するのは大変ですが、法については天親菩薩の書かれた阿毘達磨倶舎論とかを本気で読むのもいいかもしれません
まあ、難しいですけど・・・
それと、少し前のあ・うんで横山鉱一氏と瑜伽行唯識学派の事について書かれていましたが、これはいいですね。
如来蔵思想と唯識思想の統合された教えは、達磨禅の根本教義ですからね。
いっその事、般若心経ではなく楞伽経を唱えればいいと思いますwww

259250:2014/08/14(木) 16:44:02
>開祖はどこから魂魄という概念を入れようと思い立ったのでしょうね。

全くわかりません、開祖の仏教理解力や儒教の考え、また教範の教学は何処から来たのか?
一切謎ですね、>>222は自分ですが開祖は後藤伊山師の元で臨在禅を学んだのか?

臨在禅が少林寺拳法の教義の基かな?と思っていましたがそうでもないようにも思えます。

秘伝少林寺拳法で後藤伊山師の法弟になるとありますが、出家得度していたのでしょうか?

260615期生:2014/08/15(金) 11:55:33
京都別院育ちの人が言うには、
「開祖は後藤伊山老師にもとにあししげく通って学んだ」
「開祖『わしはこれまで禅風に触れたことがなかった』とか言っとったーーー」
てな話は聞いたことがありますが、にその話の状況やらニュアンスはよくわかんないのでなんともですね。

昭和40年手前で力愛不二がようやく導入され、つまるところ行念一致の概念が「明確に」金剛禅にようやく投入されたことで、一応最低限の要素は
揃ったかなと私は思いますが、やはり後藤老師の影響が大きかったのではないでしょうか。

出家得度はどうなでしょう。(会ったことすら無いけど)開祖のキャラからすると山で修行というよりは里で走り回るような感じなので、してないのではないですか。
少林寺拳法は拳も禅もどちらかというと現代人、素人向きの人里や都向きのものであると考えていますし。深山幽谷で修行する道ではないと思います。

開祖的には臨在に学んだというよりは、老師に学んだという感じなのではないですかね。
法形演練はどちらかという公安みたいなものだと思います。
法形は初版教範からすでに大量にあったので、後藤老師とは関係ないですが、相性の良さは感じています。
まぁ現在の法形は、その問答に彼我の関係や術理以上に形式が求められ、とても組手主体になってるとは思えませんが。

開祖が遷化した時、戒名がついて線香にそれが印字されてるみたいな話も聞きましたが、本山の開祖廟の線香は無地でしたし、この話もまゆつばです。

禅宗師家として宗道臣の立ち位置はほぼ無いでしょう。
戦後新宗教禅宗的な本をいくつ見ても、金剛禅が載ってるの見たこと無いですし、会員数は結構いたはずなのにw
本人と高弟は結構まじめに、仏法まなぶ気概を持ってたように思うのですが、その気概は伝わらなかったようですし。

261250:2014/08/15(金) 14:03:39
やはり後藤老師の影響が大きかったのでですか
教範にも開祖の次に出てくるのが後藤老師ですもんね。

臨在禅との影響は少ないながらも、後藤老師から色々学んでいるという具合でしょうね。
>本人と高弟は結構まじめに、仏法まなぶ気概を持ってたように思うのですが、その気概は伝わらなかったようですし。

自分の古い先生に聞きましたが、京都別院では非常に座禅をやられたようすね。
今は座禅は、鎮魂行のオマケ程度になりもったいなく思います。

後藤伊山老師は山田無文老師門下で、山田無文老師は臨済宗の花園大学学長でもありました。
また、花園大学少林寺拳法部初代顧問は義弟の原田公臣先生です原田先生は京都別院の法輪寺の別院長代務ですね、義弟を小さな大学の顧問に据えたのには何か意味があったのかもしれません。

今も花園大学拳法部には山田老師が自ら書かれた部の看板があるそうです。


教範にある達磨大師の記述は中国の歴史文献より出展ですが、古い会報では花園大学の柳田聖山氏の説を取りますね、敦煌遺跡により実在としての達磨大師の存在が認められたのがセンセーショナルだったんでしょう。

昨年のあ・うんだったと思いますが新大乗の秋月龍眠師の名前が出ていましたが、この方も山田門下ですね秋月師はは鈴木大拙居士と西田幾多朗氏の研究家でもあります。
金剛禅が秋月師の目指した在家禅にどのように向かうか、教義の補完として唯識に挑戦するのか楽しみであります。

>615期生
楽しいお話ありがとうございました、自分は金剛禅に興味がありまして、また新たな発見や疑問がありましたら質問させてください。でわでわ

262615期生:2014/08/15(金) 17:04:57
こちらこそ、大変楽しく、またよい刺激となり勉強になりました。
ありがとうございました。(^人^)

284坊主拳法 ◆he6/GQW19c:2017/12/07(木) 00:56:51
> 今も花園大学拳法部には山田老師が自ら書かれた部の看板があるそうです。
稽古やってる時は今でも出してます。
部員が少ないので‥‥‥

285坊主拳法 ◆he6/GQW19c:2024/01/30(火) 03:14:10
まだ生きてるかな?


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