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仏教と金剛禪

1 名無しさん@いらっしゃい :2006/05/17(水) 16:22:03
前のスレタイトルがあれだったので新たにスレを立てました。
ここで質問を書いてはいけないと思いますが
仏教についての質問なので書かせて頂きます。
仏教と金剛禪の話の中で法燈明の話はいつか出てくるのでしょうか?
やはり自燈明と法燈明は二つで一つの教えだと思いましたので一様・・・

2 アップル :2006/05/17(水) 16:40:05
難しい話が・・。

法燈明をどのように解釈するかにもよるかもしれませんね。
こないだ615さんとその話をした気がww

私は自燈明と法燈明とを表現が違うだけで同じもののように考えています。

「法ってなーに?」についても表現はいろいろでしょうが、
金剛禅でいうなら宇宙の真理ダーマなわけです。
開祖は私達をダーマの分霊とも表現されましたね。

まぁ、すんごい個人的な解釈ですよ。
ちょっと教範読み返してみるかなー。

それよりも、>>1さんハンドルネーム決めませんか?
せっかくなんでなんか考えてみてください。

それから仏教の教えを(今回は釈尊のだけど)金剛禅がまるまる含んでいるとは限らないと思います。

3 名無しさん@いらっしゃい :2006/05/17(水) 17:10:13
単独の質問ならスレをたてるな。
単独でなければもっと>1の文章を考えろ。

4 名無しさん@いらっしゃい :2006/05/17(水) 22:00:20
>>2
とりあえずリーというハンドルネームにいたします。宜しくお願いいたします。
自燈明と法燈明については私は二つで一つと考えております。
自燈明を考えを誤ると法を無視して自分勝手にするという解釈になります。
(まぁこれは本人によりますが)
つまりは法燈明を通して自燈明が完成しているか?
という確認作業が法燈明にあると私自身は考えております。
なんだか自分で書いておいて解りにくい文章ですね・・・
私自身も大学で仏教を学んでいますが勉強不足なところが大いにありますので
お互いに学びあっていきましょう!
>>3
仏教関連の質問を質問スレに書いちゃってもいいのかなぁ・・・
と思って迷った挙句スレ立てましたすみません・・・
とはいえ仏教の話もいたしたいので・・・

5 リー :2006/05/17(水) 22:21:23
>>4
ハンドルネーム書き忘れますた・・・

6 615期生 :2006/05/18(木) 01:21:38
帰宅しました。おなか一杯です。

私はよく法燈明というものを理解していません。
なーんかいまいちわかるらないのです。今はアップルさんの言う様に、
>私は自燈明と法燈明とを表現が違うだけで同じもののように考えています。
という印象です。

>自燈明を考えを誤ると
「誤る」とはなんでしょう? 誤った、とは誰が判断てするのでしょう?

>確認作業
何故確認が必要なのでしょう?

>>2
>それから仏教の教えを(今回は釈尊のだけど)金剛禅がまるまる含んでいるとは限らないと思います。
これはズバリだねーそうかも〜

確かに>>1の内容は単独質問ですが、タイトルはからしてジャンルが分かるし、
>>1の内容的に、仏教の疑問もここだろうかと匂わせるのでこれでいいかもしれません。
そもそも仏教なんて、こういった疑問からはいるものではないかなとも思います。
私以外の方にこのようなスレを立てていただいてうれしい限りです。

少林寺と関係ないが仏教の話
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/4609/1147477967/
をホシュして倉庫逝き。

7 リー :2006/05/18(木) 08:27:27
説明不足が大いにあるので補足を。
自燈明を誤るということは
自分をよりどころにするという自燈明の考えを
「自分をよりどころにするということは、法を無視して好き勝手にやっていいんだ。」
と考えてしまう人が出てきてしまうわけです。(まぁ人によりますが)

そこで法燈明という法をよりどころにするという考えがあります。
法をよりどころにするということは
釈尊の教え(この場合生き方といってもよい)を参考
にしてそれをよりどころにせよということです。

つまりは釈尊の教え(生き方)を参考にして
よりどころに出来るような自己を確立できるのであれば
自らをよりどころにしてもよいという、ことなのです。

よって法燈明をみないと自燈明が完成しているかどうかわかないのです。

あー説明がヘタくそですね・・・頭でわかっちゃいるのですが
どう説明したらよいかわかりません・・・
ですが「自燈明と法燈明とを表現が違うだけで同じ」ということも
あながち間違っちゃいないかも・・・

ホントはこのスレにレスつけるのは
いけないとわかっているのですがお許しを・・・

8 615期生 :2006/05/18(木) 09:03:28
そもそも誤りというものが無いのではないですか?仮に誤っていればそれは自分に返ってくるんだから
確認なんてしなくても自ずとと分かるのではないのでしょうか。
「自由」と書いて「自ずからに由る」です。すべてあんたの責任よん、ですから、
その反動すら受け入れる、受け入れられる自己を得ようとするからこそ自灯明なのだと私は考えています。
乱暴な言い方ですが、正解(法)というものは無く、泥多仏大みたいなことです。

正解なんてそんなものありはしないのではないでしょうか。
私は釈尊の言動は参考にはしますが、正解などとは思っていません。
不正解を総て避けて進むことはできるものではないので、不正解をも享受してなんぼだてのが
私の考えなので(天道生生只自然)、こんな感じになってしまうのです。
特に金剛禅は過程を大切にしていると思います。

法燈明とは何か法という正解があるということではないのではないでしょうか。
むしろいわゆる「間違い」にすら法は流れているものだと思います。凡てに法はあるのだと考えています。
もちろん法を軽視しているわけではありません。
ただ、沢庵翁みたいな生臭の名僧?もいましたし、またどごぞの彼は「仏に会ったら仏を切れ」なんて言ってました。

法とはdharma、ダーマのことですから、ダーマの分霊をもつだとか、仏性は万人に
宿っているという思想を私は持っていますから、こんな感じですね。
金剛禅でダーマの分霊を自覚するということは、三合であり天地の間に立つ事であり、
「どうどうと生きていける(教範)」であり、自己確立だと思います。
つまり法燈明と自燈明が不二たど解釈しています。

あっそういえば、このスレはもう仏教スレとしては進めていくのでどんどんageて
レスしてくださいーいヽ(´ー`)ノ 今日もお外なのに雨orz

9 615期生 :2006/05/18(木) 09:20:24
しゅっぱーつ

リーさん、これからもよろしくお願いします。
私にとっても勉強になります(^人^)

10 リー :2006/05/18(木) 09:57:23
そもそも誤りというものが無いのではないですか?仮に誤っていればそれは自分に返ってくるんだから
確認なんてしなくても自ずとと分かるのではないのでしょうか。>
なるほどなるほど。こちらも大変勉強になりました!
いや〜やっぱりまだまだ勉強不足ですね・・・
ということでお互いに勉強しあっていきましょう!!!

11 アップル :2006/05/18(木) 10:10:18
私は仏教学者ではないのであんまり専門用語(仏教でも金剛禅でも)を並べられるとよくわからないんだけど、
もっかい整理すると、リーさんの質問は、

金剛禅の教義において、仏教でいう「法燈明」という教えはどこに出てくるの?

でOK?

12 名無しさん@いらっしゃい :2006/05/18(木) 10:39:38
>>11
いえいえ、私の質問は
私自身は自燈明・法燈明は対になる教えだと考えていたわけですので
自燈明の説明があるということは、法燈明の説明もこれからあるのか?
という質問ですハイ。

13 リー :2006/05/18(木) 10:40:20
>>12
またハンドルネーム入れ忘れました・・・

14 リー :2006/05/18(木) 10:53:24
またもや連続レスで申し訳ない。

しかし「金剛禅の教義において、仏教でいう「法燈明」という
教えはどこに出てくるの?」という疑問がありますね・・・
金剛禪の教義的説明をする
(少林寺関連の出版物は主に技法的な関連がほとんどですので・・・)
本があったらわかるのですが・・・
まぁ私自身の勉強不足もありますがね。

15 615期生@携帯 :2006/05/18(木) 11:11:25
丸角には今のところ法灯明の予定はありません(-ω-;)

16 アップル :2006/05/18(木) 11:13:36
>自燈明の説明があるということは

とは具体的にどこのことを言っています?できればソースを挙げてもらえるとありがたいのですが。

17 アップル :2006/05/18(木) 11:19:02
あえて、自燈明・法燈明両方の説明がほしいのであれば
自他共楽を勉強すればいいことだと思います。

18 アップル :2006/05/18(木) 11:21:40
もしくはダーマ信仰とか。

単語にこだわらないほうがいいですよ。

19 名無しさん@いらっしゃい :2006/05/18(木) 17:23:52
アップルさんありがとうございます。
なるほどそういうことですか。
なんか教えてもらってばかりですな・・・いと情けなや。

20 リー :2006/05/18(木) 17:27:34
>>19
なんでこうもハンドルを入れ忘れるのだ!

アップルさんの言うとおり私は
どうも単語にこだわっていたようです。
私の勉強不足のうえお騒がせしてすみません!

21 たまに見てます :2006/05/29(月) 09:21:19
スレタイに誘われて発言させていただきます。

まず、法燈明が何を意味しているのかを明確にしなければお話は始まりません。
少林寺拳法の場合、法=ダーマと解釈するかたも多いかも知れませんが、
一般的に法燈明の法とは、仏になるための真理を指すようです。
この真理とは仏性のことではありません。
三法印、八正道などなど、お経とか教範に記されているお釈迦様の教えです。

私も仏教学者なんぞではありませんが、便利な時代でソースには事欠きませぬ。

22 アップル :2006/05/29(月) 10:17:04
>>21
こんにちは。勉強させていただきます。

>三法印、八正道などなど、お経とか教範に記されているお釈迦様の教えです。

っということは。金剛禅でいえば、少林寺拳法や金剛禅運動がそれにあてはまるのでしょうか?

>便利な時代でソースには事欠きませぬ


よかったら
>一般的に法燈明の法とは、仏になるための真理を指すようです。
のソースを教えてください。

23 615期生 :2006/05/29(月) 13:41:49
先日とある坊さんに聞いてみたら、法燈明は「自然界の摂理」みたいなもん
と仰っていました。

ちなみに私の感覚では、
>仏になるための真理を指すようです。
と矛盾しません。

>法=ダーマと解釈するかたも多いかも知れませんが、
いやー多いと思います。私もいくつか媒介しますが、こんな感じですし。

24 たまに見てます :2006/05/29(月) 23:56:14
>アップルさん
私も勉強させていただいております。
どうぞよろしくです。

>金剛禅でいえば、少林寺拳法や金剛禅運動がそれにあてはまるのでしょうか?
金剛禅では少林寺拳法や金剛禅運動が真のお釈迦様の教えに則った道である、
という立場ですから、当然仰るとおり当てはまることになるかと存じます。
ただ、何が正しいお釈迦様の教えかという命題に関しては各宗派によって
いろいろでもありますね。

ソースに関してですが、例えば「法燈明」をググったときに最初に出てくる
HPなどは参照文献などを明示している点で信憑性が高そうです。

>615期生さん
>法燈明は「自然界の摂理」みたいなもんと仰っていました。
う〜ん、私の言っているのとはちょっとニュアンスが違うような・・・
もちろんそのような解釈もあって良いと思いますが。。
上記HPでは戒・定・慧の三学を法の基礎とする学説を紹介しています。
三学は八正道と同格と解釈されます。
四諦・八正道は真理ですが、自然界の摂理かなあ?

25 615期生 :2006/05/30(火) 00:20:13
こういう話での自然界の摂理でというのは、サイエンスでいう摂理だけでなく
東洋哲学での摂理といった意味合いが強いのでとくに問題な問い思いますが。

26 たまに見てます :2006/05/31(水) 00:19:34
自然界の摂理というのが物理法則みたいのじゃなくて、
例えば陰陽思想みたいな自然の摂理を意味していたとしても
やっぱり私の紹介している法燈明とはニュアンスが違うようです。

自燈明は、自らを拠り所にせよ!、で苦もなく理解できますが、
法燈明は、自然界の摂理・・・ではハア?・・・となるのではないでしょうか。
それが、「お釈迦様が見出されて広められた成道の教えを拠り所にせよ」
と解釈すれば、ほらこんなにすっきり。

きっと法燈明の解釈にはイロイロあるのでしょうけれど、上のような解釈は
特に現在の日本の禅宗各派には採用されないかも知れません(知らないけど)。
なんたって禅宗の建前は教外別伝・不立文字ですから、
お釈迦様の教えを拠り所にセヨ!では収まりどころが悪そうな気がします。

でも、金剛禅では教外別伝なんて言いませんよね。

27 615期生 :2006/05/31(水) 06:33:32
>それが、「お釈迦様が見出されて広められた成道の教えを拠り所にせよ」
>と解釈すれば、ほらこんなにすっきり。
これでも「私の感覚」とは矛盾しませんよ・・・

私はそういう話を聞いたと言ってるだけです。
別に「これだ」と言っているわけではありませんよ。。

28 たまに見てます :2006/05/31(水) 21:45:22
>これでも「私の感覚」とは矛盾しませんよ・・・

ってえことは、615期生サソの感覚の中では、
お釈迦様の教え=自然界の法則
という方程式が矛盾無く成立しちゃっていることになりますが、、、
それでいいの?

29 615期生 :2006/05/31(水) 22:54:33
equalではありませんがさほど矛盾はありませんよ。

>>23の坊さんがどういうつもりで言ったかは分かりませんが、
今日はダンマパダを読んでいましたが、これに通ずるものがありました。

30 アップル :2006/06/01(木) 11:17:01
equalではないがさほど矛盾しないとはどういう意味ですか?

31 615期生 :2006/06/01(木) 11:37:56
例えばダンマパダなら、208とか240とか387みたいな仏教の教えと
自然の運行を併せて表現するようなニュアンスが仏教にはよくある
ちゅうことかな。

諸行無常や諸法無我とかもそうかなと思います。

32 たまに見てます :2006/06/02(金) 00:11:10
明らかにバイアスが入ってますな。
たぶん>>8にあるような前提が妙なフィルターになってしまっているのでしょう。
ダーマの分霊云々の解釈は金剛禅の徒として自然な流れだと思うし
特に文句も無いのですが、それと法灯明の解釈は別問題です。

>自然の運行を併せて表現するようなニュアンスが仏教にはよくあるちゅうことかな。
待機説法は古今南北を問わず仏教の十八番なわけですが、そのために仏典には
様々な比喩が所狭しと鏤められています。
仰るような自然の運行もしかり、動物、人々の行為もしかり、はては天界の神々から
悪魔にいたるまで、その喩えは極めてバラエティに富むものです。

要するに何が言いたいかと申しますと、自分の考えに都合の良い部分だけを抽出して納得してしまうという
態度は、安直以外の何物でもないということ。
これを、正見の逆で偏見と申します。

33 たまに見てます :2006/06/02(金) 00:17:06
待機説法×
対機説法○

34 みんみん :2006/06/02(金) 00:26:26
禅問答のような喩え話で論戦するのは仏教的ではありますが、その発展を
見れば見るほど本来の教えから外れているような気がします。

浄土真宗(私も門徒)なんかは最も進化しているといえるかもしれませんが、
仏陀は「何の悟りも開かなくても念仏を唱えていれば彼岸で救われる」
なんていう積もりは無かったと思いますよ。

もっとシンプルでいいのではないかと思います。

35 たまに見てます :2006/06/02(金) 00:37:53
>みんみんさん
初めまして。
ところで私は禅問答が大嫌いです。
もし私の発言の中で「禅問答のような喩え話」が認められるようでしたら
指摘して頂けると大変に幸甚です。

36 みんみん :2006/06/02(金) 00:55:34
たまに見てます さん
こちらこそはじめまして。
仏典には詳しくないのであまりコメントしないでいたのですが、
>仏典には様々な比喩が所狭しと鏤められています。
というところでチョットしっくりこなかったので。
仏典は膨大にあり、内容は相矛盾するような内容も含まれていると思いますが、
そのような仏典の「研究が足りないから云々」的な論法はうなずけません。

話が飛びますが、最近司法の正義に疑問が呈されています。
現代の法律家は法律を勉強しすぎて本来の正義を見失ったと思いませんか?

37 たまに見てます :2006/06/02(金) 01:56:33
>そのような仏典の「研究が足りないから云々」的な論法はうなずけません。

仰ることはわかりますが、今回の問題は仏典の研究不足云々以前のお話でした。
膨大な仏典のごく一部の記載を作為的に抽出することに対する危険性を示唆したまでです。

>現代の法律家は法律を勉強しすぎて本来の正義を見失ったと思いませんか?

正しい勉強は物事を実行するときに必須の作業であります。
仏教で言えば行学一致です。
法律家が本来の正義を見失っているとすれば、それは不勉強であるか、勉強方法の誤りに
起因しているものと考えます。
現状は多分後者なのでしょう。
正しい道を見つける努力は身体精神に関わらず惜しむべきではないと考えます。

また、問題視すべきは勉強のしすぎではなく、勉学に偏った態度だと言えましょうか。

38 みんみん :2006/06/02(金) 02:19:46
>今回の問題は仏典の研究不足云々以前のお話でした。
>膨大な仏典のごく一部の記載を作為的に抽出することに対する危険性を示唆したまでです。
615期生さんの代弁をするわけではないですが、このような掲示板では例示をすることは作為以外にありえませんね。
あなたも>>8にバイアスがかかっていると言いましたが、このような表現も作為の一つです。
バイアスかそうでないかは事実を指摘すべきで、「あなたの例示はごく一部に過ぎない」からというのは、
無理がありますよ。

法律の話を出したのは「知識が多い」=「偉い・正しい」と言う論法をよく見るからです。
こういうのを見るにつけ、日本人は自称知識人に惑わされすぎているのだと思います。

論点は「法燈明」の「法」が「自然の法則」か「成道の教え」かということだと思われますが、
それを実証するのに相手の意見に「バイアス」などと言っても詮無いことだと思いませんか?
仏陀が見出した「成道」が「自然の法則」なのだから矛盾しないでしょ。と言うのが615期生
さんの意見ですが、論破するならそこの論理的破綻を指摘すればいいのです。
そのために仏典から作為的な例示をするのは別に構いませんよ。

私は615期生さんのいうことは理解できます。正しいかどうかは不勉強ですが。

39 たまに見てます :2006/06/02(金) 03:11:42
一気に殺伐としてきました。
2chじゃないけど、まずかったです?(よくルールがわからないもので)

さて、まずは訂正させてください。
>>37で「作為的」という表現を用いましたが、615期生さんは作為的に
>>31の発言をされていたとは私は考えておりませんので、これは不適切でした。
「作為的に抽出することに対する危険性」を
「無意識に抽出することに対する危険性」と読み替えてくださいまし。

>あなたも>>8にバイアスがかかっていると言いましたが、
私がバイアスが掛かっていると言ったのは>>31ですが、
「バイアスが掛かっている可能性がある」くらいにしておいたほうがよかったかすら?
でも、主張する内容は同じで、偏見には注意しましょう、ということです。

論点は仰るとおりズレまくっておりましたが、論点のずれない掲示板の議論
というのを私は見たことがありませんw
当然後で軌道修正するつもりで法律の話題にも乗りました。
ちなみに私は「知識が多い」=「偉い・正しい」とまでは考えていませんが
得られる知識を得ようとしない態度は怠慢だと思っています。

それでは、法燈明のお話に戻りましょうか・・・ねむ

40 615期生 :2006/06/02(金) 11:21:37
みんみんさんおもしろいなぁ
たまに見てますさんは結局何が言いたいのか、私にはさっぱり分かりません

41 みんみん :2006/06/02(金) 20:44:54
今晩は。 今日はこれしか書きません。続きはまた後日書きます。

>一気に殺伐としてきました。
>2chじゃないけど、まずかったです?(よくルールがわからないもので)
一向に構いませんよ。逆に私は2ちゃんねらーなので少々粗く直截な発言となってしまいます。
勘弁してください。

>「作為的に抽出することに対する危険性」を
>「無意識に抽出することに対する危険性」と読み替えてくださいまし。
この必要はないと思います。誰しも何かを主張するために例示をするときには
何らかの「作為的選出」が不可避だと思います。

>私がバイアスが掛かっていると言ったのは>>31ですが、
そうですね。>>31>>8のバイアスがかかっていると言うことですね。
申し訳ありません。

>主張する内容は同じで、偏見には注意しましょう、ということです。
その偏見が偏見である理由を示してやればいいのであって、それをせずに
偏見であると評価ながら発言われてしまうと、上から物を言われているようで、
正しい議論にならないと思うのです。

>当然後で軌道修正するつもりで法律の話題にも乗りました。
全然違う例示で済みません。もっとわかりやすいのを考え付かなかったので。

>ちなみに私は「知識が多い」=「偉い・正しい」とまでは考えていませんが
>得られる知識を得ようとしない態度は怠慢だと思っています。
その別の知識をもったいぶらずに示してあげればいいのでは?
615期生さんがある例示をしたのに対して、それに反論・対応・補足する例示
をしてあげればいいのです。
「他の例がいっぱいあるから、その論考は一面的だ」と言うような主張をよく
目にしますが、何かいっているようで何も言ってないように思います。

さて、法燈明の「法」とは何ぞや。ですね。
よろしくお願いします。

42 たまに見てます :2006/06/03(土) 00:27:01
>一向に構いませんよ。逆に私は2ちゃんねらーなので少々粗く直截な発言となってしまいます。
>勘弁してください。
2ちゃんの時の癖で煽りだしたのは私の方です。
武板には出入りが少ない方でしたが、私も結構老舗の2ちゃんねらーです。

皆さんのこれまでのこのスレでの発言から推して、
法燈明のお話の前に少し仏教の背景を確認した方がよいように思います。
先に述べてあるとおり、私は仏教学者でもなんでもありませんが、
今はネットがあるお陰で様々な情報を誰もが俯瞰できる便利な時代ですので
素人なりに勉強することはまあできます。

ご存じのように仏教は種々に分化して現在に受け継がれていますが、
「法」とか「真理」の解釈もその立場によって変化してしまいます。
法というと、真理なのだから意味は一つしか無いはずだ、と考えがちですが、
どっこい真理の意味は時代とともに、また宗派によって、
変化しているとも考えることができちゃいます。

もう一つ、私たちが法を考える上で抑えるべき重要な点は金剛禅の多面性です。
金剛禅が儒教や道教の影響を受けているということは割合知られている
ことだと思いますが、もう一つ忘れては成らないのが初期仏教への親近です。
その上で漸悟禅です。

みんみんさんがなにやらお付き合いして下さりそうな気配ですので
もう少し具体的に思うことを書いて行けるかもしれません。ボチボチと。。
昨日の夜更かしが祟って既にねみいであります。

43 名無しさん@いらっしゃい :2006/06/03(土) 01:00:42
武板でもそうだけど文章で実力ってばれるよな

44 ペガサス :2006/06/03(土) 13:06:57
仏法論議が盛んになってるようで結構な事だと思います。
ただ一般論いくら並べ立てたとしても収拾は難しいでしょう。
一つこう言う考えに立って考えてみてはどうですか。

我々は金剛禅と言う禅宗の一宗派であると言うことです。
その立場に立って議論しないと全ての物事が水掛け論に終わってしまう可能性があるでしょう。

我々は金剛禅の信徒であり、我々の金剛禅には我々独自の教義があると言う事です。
その教義とは開祖が求められた釈迦の正統仏教を基にしたものであり、且つ又既成の形式仏教、儀式仏教を否定し
死者を弔ふ事や祈願してご利益を求めまたは祈祷による無病息災を願うような事ではなく、
生きている人間の幸せ、生きる喜びや人との和を求める生き方を教える教義に立ち返ると言う事であったはずです。

その大前提として我々はダーマを信仰しダーマの分霊であると言う認識をもち、
その恵みを共に分かち合うべく日々修行を通し我々の祈願達成に向け精進していると言う事です。
ではその悲願とは何か?それは信条に謳われているこの世に理想境(地上天国)を建設する事です。
ですから仏法用語と言えども我々の教義に沿ったものとして解釈し使用する必要が出てきます。
目的が違えば言葉の意味合いも違ってきて当然です。
他派の用語、意味をもって自派の教義を語った所で必ずしもそれが適正とは言えないでしょう。

45 ペガサス :2006/06/03(土) 13:07:58
ここで問題とされている「法燈明」と「自燈明」ですが、
たまに見てますさんが言われるように昨今ではネットでも随分と知識が吸収できるようになりました。
「法燈明」を検索していけばきっとこんな言葉に行き着くでしょう。

これは釈迦がが入滅(死亡)される直前の説法において出てくる言葉だそうですが
「なんじらは、ここに自からを燈明とし、自らを依所として、他人を依所とせず、
法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。」

つまり「自燈明」とは自分自身を拠所とし「法燈明」とは法を持って拠所とすると言う事です。
法自体が釈迦の教えではありません。釈迦が求めた真理、この世に潜在する真理とでもいいますか、
それを見出し理解した釈迦がそれをわかりやすく自らの言葉で説いのが釈迦の教えと解釈した方がいいでしょう。

ではここで言う「法」とは何か?それは種々の意味を持つ言葉です。
ですからそれは各宗派の教義によってそれぞれの宗派にもっとも適した解釈が用いられる事でしょう。
我々金剛禅ではこれは「ダーマ」と解釈しているわけです。
ダーマと言う宇宙の大霊力(法燈明)を持って自らの心の拠所とし、
且つ又自身を霊肉の拠所(自燈明)として他に依所する事無く生きていける人間となるべく修行する。
それが我々金剛禅の教義です。

これを他宗派の教義や意味合いと一緒にしてしまっては、
少林寺拳法の技を他流派の術理で説明するようなものです。
我々少林寺拳法には我々の術理があります。
その我々自身のいえ、自派の言葉を使わずして他派からの借物で解釈し説明していたのでは
それこそ「自燈明」には程遠いと言う事になってしまうでしょう。

46 ペガサス :2006/06/03(土) 13:08:55
我々も金剛禅の信徒であるからには仏教の勉強は必要です。
でもそれで既成の仏教に引きずられてしまってはいけないと言う事です。
わざわざ開祖がそこから離脱する為に始められた金剛禅なのに
自宗の教義を展開出来なければ何の為の金剛禅かわからなくなってしまいます。

教範の第一編の十三の金剛禅の教義にはこう明記されてあります。
「我等は、大霊力ダーマに信心帰依し、大聖釈尊の遺教たる、自己を確立し、
己を寄り所とする道を極め、祖師ダルマの遺法を奉じて、精神修行し、霊肉一如、
行念一致の修行の功徳によって必ず成道し得ると信ずるのである。」

つまりいくら知識を持っていても自分がどこに属し、何を信奉し何処に向かって歩むのかと言う事が明解になっていなければ
いくら言葉をつむぎ出したところで実のある論議とはならないと言う事です。
基本は我々は金剛禅の信徒であるということです。そして我々には信奉するべきものがある。
それがダーマであり、それを支える教義です。
それを踏まえて仏教を学び語らなければその知識が生きてこないと言う事です。
金剛禅の門徒か浄土宗の門徒になるのか、浄土真宗か仏教学者か、はたまたキリスト教か。
それこそキリスト教にもその解釈をめぐって様々な宗派に分かれています。

言葉とは生活する上で使うもの。
仏教用語やその解釈も自分の信奉する心の基盤に立って使えてこそ生きてくるものです。
法はダーマではないと言う人がいたとしても我々はダーマと解釈しこの金剛禅に集まっているのです。
他宗派の方ならそれでもかまいませんが、もし同じ金剛禅の門徒であるなら法はダーマではないと言ってしまえば
それはもはや同じ教義を信奉する仲間ではなくなってしまいます。我々は知識をもって奉じるのではなく信心を持って奉じるのです。
その原則を忘れては金剛禅など存在しなくなってしまいます。いえどんな宗派も同じです。
自派を信じる心無くしてはいくら知識があっても人の心と通じ合う言葉にはなりません。

47 ペガサス :2006/06/03(土) 13:09:45
もし若い人が間違った解釈をしているようならそれを正し、我々の本来の道に導いてやる。
それがその道の先輩としての役目ではないかと思っています。
そしてそれは一般論を説く事ではないと思います。

開祖は法話でいつも教範読めと何度も何度も言われていました。
わしの言いたい事、主張は全てここに書いてあると。そして読んで理解したら実行せよと言う事です。
でもその実行するには実行を支える考え方、思想と言うものが必要になってきます。
どっちに向いて走り出せばいいのかわからないでは困りますから。
それが我々の教義です。何を信じ何処に向かっていけばいいのかが明記してあるのです。
そしてそれを実行する指針として我々は「四諦」「八正道」「三法印」を実践せしめんとしているのです。
これを理解し信奉し実行しなくては金剛丸に乗り合わせる意味はありません。

悪い例えで恐縮ですが「いわしの頭も信心から」と言う言葉があります。
私は博学者よりも真摯に教えに前向きに進もうとする人を志を同じくする者として応援しまた信頼したいと思っています。

48 たまに見てます :2006/06/04(日) 00:15:09
ペガサスさん、初めまして。
私はコテハンのとおりでこちらの常連ではありません。
ペガサスさんのことはなんにも存じ上げないのですが、
書き込みから察するに多分指導的な立場に居られるものと思います。
折角巡ってきた機会ですので、二、三の質問をさせていただきます。
これは私個人の根本にも関わることですので、ご回答の程よろしく
お願いいたします。

>我々金剛禅ではこれは「ダーマ」と解釈しているわけです。
まず第一には、この、法灯明の法はダーマである、という部分です。
これは金剛禅総本山少林寺の公式的な見解と考えてよろしいでしょうか。

二つ目の質問ですが、開祖による「法灯明の法はダーマである」という
内容の発言乃至記述の記録はありますでしょうか。

>法はダーマではないと言う人がいたとしても我々はダーマと解釈しこの金剛禅に集まっているのです。
三つ目です。金剛禅では仏教に登場する法(dharma)を全てダーマと解釈してしまうのでしょうか。

>>悪い例えで恐縮ですが「いわしの頭も信心から」と言う言葉があります。
最後に、これは質問ではなくてコメントですが、喩えが悪すぎます。
仏教は、釈尊の当時にバラモン教のヒエラルキーに苦しんでいた人々を
解放するために布教されたとされているそうです。
釈尊は、信仰を捨てよ、とまで言っています。
盲信を捨て、自らに依って立つ道を説く仏教本来の教えに立ち返れば、
いわしはマズイでしょう。

最後が不躾なコメントになってしまって申し訳ありません。
私がペガサスさんに面識を持っていたら、もしかしたら遠慮して
こんなこと言えないかも知れませんね。
私のような「部外者」だから聞ける話もあるくらいに思って
どうぞ堪忍してください。

49 ペガサス :2006/06/04(日) 02:22:21
はじめまして、たまに見てますさん。
まず第一の質問ですが、私は少林寺拳法の人間ではありますが本部の役員ではありませんので
私の言った事が本部、特に宗教法人の正式見解と取っていただいては困ります。
それは組織と言うものは時代と共に見解も変わる時がありますので。

まして開祖他界後既に二十有余年になっています。今の本部の正式見解はどうなのかちょっとわかりかねる部分があります。
これは私が逃げを打っているのではなく私もまた日本を離れ外国の地で二十有余年に及んでおりますので。

第二と第三の質問に関しては、たまに見てますさんご自身が
「法燈明の法とは、仏になるための真理を指すようです。」
と言われていたように「真理」と言う言葉が出てきます。

開祖も教範の中でダーマの語義は「法」と訳されているが
「法則」「真理」「全宇宙を統一する力」「正義、最高の実在」「最高の真理」「最高の本体」
等の意味を持つ最高、最貴の語としても用いられていると逆説ながらその意味合いを明記されています。
そしてこれは第三の回答に相当すると思いますがそれらを認識した上で金剛禅としては全てをダーマと言う言葉に包含したと言う事でしょう。
これは宗派の教義ですから、一般解釈とは別に何処とも似たような解釈で自派の教義は作られていると思います。

さて最後のコメントですが、少々書き方が悪かったので誤解を受けたようです。
でもご指摘はありがたく頂戴し今後の教訓とさせていただきます。

私の言う「いわしの頭も信心から」と言うのは信じる心が大事だと言う事を言いたかったのです。
形式的な信仰は捨てるべきですが自身が信じるべき法は言葉を羅列して見せるのではなく
真摯な姿勢が大事だと言う事です。それは小さな事からでもいいのです。
「いわしの頭」とはまさにそう言う例えです。
信じる心もないのに知ったかぶりをするより身近なちょっとした事、
小さな事からでも信じる心もって臨みなさいと言う事です。

信じるとは自分も大霊力であるダーマに生かされているその分身なんだと自覚し
その与えられた無限の可能性を信じなさいと言う事です。
こう言うところですがいかがでしょうか。

50 たまに見てます :2006/06/05(月) 00:21:23
ペガサスさん、ご回答ありがとうございます。
海外生活20有余年とは正直驚きました。
最近は欧米、特にアングロサクソン系では無宗教者がマジョリティになりつつあるようですが、20年以上前の異国の地で金剛禅は大きな心の支えになっていたのではないでしょうか。
たまに海外の武道系掲示板を見て回ったりしたことがありますが、そこでの哲学的宗教的ディスカッションは日本ではあまりお目にかかれないものでした。
きっと、ペガサスさんの金剛禅への意識は国内の平均的な拳士の方々よりも高いのでしょう。
是非ご教示の程よろしくお願いいたします。

さて、一つ目の質問は、ペガサスさんの法灯明の解説が金剛禅の正式見解かどうか、という内容でした。

>まして開祖他界後既に二十有余年になっています。今の本部の正式見解はどうなのかちょっとわかりかねる部分があります。

少なくとも開祖存命時には金剛禅の正式見解として法灯明の法はダーマであったということですね。

二つ目の質問は、その法灯明の解釈は開祖の直説か?ということでした。
今回のご回答からは、開祖がそのような法灯明の説明を具体的な事実としてされたというところまでは残念ながら読みとれませんでした。

そして三つ目は、仏教におけるdharmaを金剛禅では全てダーマとしてとらえるのか?でした。

>開祖も教範の中でダーマの語義は「法」と訳されているが
>「法則」「真理」「全宇宙を統一する力」「正義、最高の実在」「最高の真理」「最高の本体」
>等の意味を持つ最高、最貴の語としても用いられていると逆説ながらその意味合いを明記されています。

もちろん私も存じ上げております。
これは種々あるdharmaの意味の一部です。
私はこれをダーマの定義としたときに、仏典におけるdharmaの全てをダーマで解釈してしまうのだろうかと疑問をもったわけです。

>それらを認識した上で金剛禅としては全てをダーマと言う言葉に包含したと言う事でしょう。

dharma(法)の他の意味合いの全てをダーマに包含してしまったという事でしょうか。
dharma(法)には上記の他にも、仏教の教説を指す場合と、存在(五蘊)を指す場合があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29

これはら宗派によってどれかを選ぶ、といったものではありません。
例えて言えば、「和」という日本語が文脈によって日本国を意味したり調和や強力を意味したりするのと同じです。
dharmaもまた仏教用語や経典中の用法によって意味は変わりますし、変わったからといって自派の教説を曲げることにはなりません。
このような背景から考えて、教範のダーマに関する記述のみを根拠に
法の用法の「全てをダーマと言う言葉に包含」してしまうというのはおかしな事です。
また、例えば「四諦・八正道はダーマである」のような言い方をされている事にもなりますが、このような言い回しを私は聞いたことがありません。実はあるのでしょうか・・・

なんだか長くなってしまいましたが、最後にいわしについて(笑)
誤解はしておりません。ただ、やっぱりちょっと不適切かなと。
アイロニーの意味が強い言い回しですし。。
http://gogen-allguide.com/i/iwashinoatama.html

51 みんみん :2006/06/05(月) 01:03:51
たまに見てます さん
微細なツッコミは敬服に値しますが、
法燈明の「法」がダーマであるか否かを突っ込んで話し合うことで、
あなたは何が言いたいのですか?

法燈明というのは、四諦・八正道のような仏陀の根本の教えではなく、
副次的なものではないかと思っています。
つまり、「仏法と言うのは非常に大切でありがたいものなんだよ」と
言ってるだけのことばです。
その中の「法」の解釈がまちまちであったら、なにか不都合なことが
あるのでしょうか?
具体的に指摘してください。

52 ペガサス :2006/06/05(月) 03:24:00
確かにたまに見てますさんはよく勉強されていると思います。
ただ貴方と私の違いは日本人と海外の人間の宗教観への取り組みへの認識の違いかもしれませんね。
貴方の知識はすばらしいものだと思います。ただそれは学問上の知識に近いものにのように思われます。
間違っていたらお許しください。

先に「アングロサクソン系では無宗教者がマジョリティになりつつあるようです」と書かれていますが
これはどっかの安物の週刊誌でも読まれたのではありませんか。
確かに若い人達のの中には以前そう言う人達が増えていることは事実でしょう。しかしまだまだ一部でしかありません。
こちらでは宗教と言うものは日本のように冠婚葬祭のみの飾りではないのです。

日常が宗教の教えというか教義をベースとして生活していると言っていいでしょう。
しかしそれは本人達にとってはそんなに堅苦しいものではなく、小さい時からその中で育っていますので。

日本人なら結婚式でもやれ教会で仏式で神式でと自分の属する宗派とは全く関係ない所でも平気でしますが
こちらではそう言うわけにはいかないのです。やはり自分の属する宗派の教会で結婚式を上げます。
また今でも同じキリスト教どうしでも宗派が違うと結婚に色々支障が起こります。

そして各宗教に絡む祭日や記念日には家族揃って教会に行き祈りを捧げます。
それはクリスマスの日だけではありません。ユダヤ教ではこの時はハッピー・ハヌカと言われ1週間ほど休みになります。
私はアメリカでファッション業界にいたのですがこの業界でもユダヤ人が多く彼らの宗教祭日には全く仕事になりません。
その他にも4月のエースター(キリストの復活祭)ユダヤ教ではヤンキッパーというのもあります。
そして各日曜日には人々はミサに行きます。この日には大きな教会の前では警察官がでて交通整理に当たるほどです。

だからこそ宗教間、または宗派間で話がこじれれば戦争にまで発展するのです。
今のイラクがいい例でしょう。同じ宗教でありながら宗派間で殺し合いをやっています。
それらの問題、いぞこざには事欠きません。中東の各地で、そしてイギリス、スコットランドと言った辺りでも
世界中にその種の種は存在するのです。

日本人位のものでしょう。宗教に無関心と言うか実際の生活に結びついてないのは。
前にも言いましたが宗教とは知識でするものではないと言う事です。信心をもってするものです。
そしてそれが日常の生活に結びついて行くのです。人々は救いを求めて宗教に入りますが
宗教者達はその人達に理解しやすく、心を取り込みやすい形で教義を言うものを各宗派に適した形に解釈し布教して行きます。
だからここで宗派の分離が起こるのです。皆がたまに見てますさんと同じ認識なら宗派の分裂はなかったかもしれません。

ですからあなたの言われる事は学問的には正しい事でしょう。しかし生きた宗教観ではないと申し上げたいのです。
そういう意味で我々の金剛禅もその一つの宗派であると言う立場で私は理解し信奉してきたつもりです。
極端な言い方をすれば信じてついていけるのかどうかと言う事です。
100%の答えが出るまで出来ないでは一生信仰心など生まれては来ないかもしれません。

では仏教の勉強はしなくてもいいのかと言う事ではありません。
勉強は必要ですが知識のみで実行が伴なわなければ何もならないと言う事です。
人の心は知識で癒されるものではなく心を打つ言葉、勇気を与えてくれる言葉、安らぎを与えてくれる言葉等によって癒されていくのです。
それをつむぎだせる人が宗教人だと思っています。物知りは宗教人ではありません。それは学者でしょう。

53 ペガサス :2006/06/05(月) 03:24:58
また貴方が仏教は儀式仏教、形式仏教であってはならない、入れ物、器にご利益を求めたり
先祖の霊を祀る事で無病息災を願ったりするのではないともし思っておられるとしても
家にある仏壇は壊せないでしょう?(笑)普通心情的にはできませんよね。

それは知識ではわかっていても心が縛られているのです。日本人は無信教が多いと言われながら心の奥底で縛られている。
それはどうしてかわかりますか?それは日本人が実は信心深いからではなく逆に真に心に拠り所とする法がないから知識でおかしいと思っていても逆らえないのです。
心ではこんな事無駄だ。いけないとわかっているのでしょうが既成の悪習を取り払えないのです。
そんな事をしたら親がなげく、世間近所から何を言われるかわからない。
仏教の真の意味、正統仏教とは死んだ人の為ではない。生きた人間の幸せを求める為にあると言いながら
自分の家にある古い風習一つ壊せないでいる。仏壇などなくても先祖の冥福は祈れるのです。
高名な仏教学者と言えども世間から見えない家の中ではどれほど既成概念に縛られ、娘の結婚は教会でなどと言ってる人がいるかも知れません。
しかし知識ではそれを否定する行動が取れないのです。自らを動かす信心はいるのです。
私は家の仏壇を叩き壊し墓も親戚にやりました。
これはちょっと極端かもしれませんが信心は心の中にあるのです。そしてそれを求めて行動する事です。
知識を詰め込んでこれで由とする事ではありません。

金剛前とはまさに行動する宗教だと思っています。
開祖も仏教の全てを学びそれらを研究し金剛禅を作られたのではないかもしれません。
ならどうでしょう。全てが網羅されてないと信心を持ってはいけないのでしょう?
自分が一番大事だと思う核となる部分を大切にし、枝葉を見て芯見間違ってはなにもなりません。

金剛禅では生きた人の為の仏教、ダーマを心の拠り所とし釈迦が説いたとされる正統仏教の教えを規範とし
祖師ダルマの遺法をもって身を整え、霊肉一如、行念一致の修行から道を求めようとするものです。
私はこれに惹かれその道を自分なりに実践してきたつもりです。
だからこそ海外でもホームシックにもならず、また差別にも屈せずに少林寺拳法の普及に努められたのだと思っています。

54 ペガサス :2006/06/05(月) 03:42:16
書き間違いがありましたので訂正しておきます。

確かに若い人達のの中には以前そう言う人達が増えていることは事実でしょう。
->確かに若い人達の中には以前よりそう言う人達が増えていることは事実でしょう。

4月のエースター(キリストの復活祭)
->4月のイースター(キリストの復活祭)

世界中にその種の種は存在するのです。
->世界中にその種類の種は存在するのです。

心を取り込みやすい形で教義を言うものを各宗派に適した形に解釈し布教して行きます。
->心を取り込みやすい形で教義と言うものを各宗派に適した形に解釈し布教して行きます。

自らを動かす信心はいるのです。
->自らを動かすには信心がいるのです。

全てが網羅されてないと信心を持ってはいけないのでしょう?
->全てが網羅されてないと信心を持ってはいけないのでしょうか?

文章が長くなったのでいたる所でミスが出てしまいました。
申し訳ありません。

55 ペガサス :2006/06/05(月) 06:50:41
申し訳ありありませんでした。少々言いたい事を書き過ぎました。
たまに見てますさんの質問には答えていませんでしたね。

まず第一の質問ですが
私の見解としては教範が改定されていない限り、
開祖が文章中に書かれた事が少なくとも少林寺拳法としての見解だと思っています。
ただしこれが本部の宗教法人としての見解かどうかは確認したわけではありませんが。

第二の質問ですが、これも繰り返すようですが
やはり開祖が書かれた事をもって判断するより仕方ありません。
私は十分明記されていると解釈していますが貴方にとってまだ不足だと思われたのなら
それは貴方の見解という事になります。
残念ながら私はそれ以上の提出すべき資料は持っておりません。

第三の質問ですが、我々の言うダーマとは宇宙の実相、大霊力の事、またはこの世を司る法と解釈しています。
それは人知では計り知れず、それを明確にこれだと言い切れる人がいたとしたら
それはもはや人知を超えた存在と言えるのではないでしょうか。

だから人は言葉をつむぎ、「法」いい、「真理」といい「法則」といい。色々な言葉を並べ立てているのでしょう。
これを一言で、いえ、具体例もっと解析し説明出来る人間がいたとしたらその人こそ「法」を超えた人となるでしょう。
例え釈迦をもってしてもその統べを解明はできてはないと思っています。

所詮我々人間が辿り着ける次元は言葉を出し合い、あれだこれだと言っているレベルです。
でもまた人間のすばらしいことろはその思考に限界がないという事です。
いつの日かその真相に行き当たる時があるでしょう。諦めなければ。
そこに辿り着く手段が釈迦の教えだと思っています。

世には釈尊もいればキリストもいた。モーゼもいればバラモンもいたのです。
誰もこの世の則を解明し心の世界を統一し一つの宗教にした者はまだいません。

だからダーマと呼ぶ、我々に出来るのはそこまでです。
そこには色々な可能性があり、理解の幅があると言う事です。
もし貴方がダーマとはこれだ法とはこれだと解明できるなら、
もしくはネットで書かれている事が世の真理なら何故人は一つに集まれないのでしょう。

キリスト教でも教義は一つではありません。
Cathlicがあり、Protestantがあり
そのProtestantの中でもPresbyteroanがあり、Episcopal,Baptist,Evangecial
またはMormon(モルモン教の事)、Jehovah's Wittness等様々な宗派があります。
同じキリストの教えを受け継ぎながらそれぞれに少しずつ教義が違うのです。

それは日本の仏教の宗派でも同じでしょう。
認識が同じであり、解釈が同じであるなら宗派など出来るはずがないのです。
しかし自然か故意か我々の回りはその違いで色々な宗派があります。
その中の一つが私は金剛禅だと思ってます。

一つ質問ですが、貴方はどこ似属するのですか?
あなたも金剛禅でしょうか?それとも他の宗派の方ですか?
それだけの知識を人の心の苦しみや悩みを救う為に活用されましたか。
人に知識を教える事や間違いを指摘する事は易しい事です。
でも大事なことは自分はどうかという事です。その知識や信心(もしあればですが)をもってどう行動したかです。
それらの知識は自分を救い人の助けになってこそ価値あるものです。

あなたほどの博識があればその知識を活用し、悩める方々の救済に活用してあげてください。
私のレベルでさえ外国で20年支部長として少林寺拳法の布教が出来たのですから。
あなたならきっともっと大きな事ができるはずです。頑張ってください。

56 615期生 :2006/06/05(月) 09:44:04
>金剛前とはまさに行動する宗教だと思っています。
いいなぁ(´Д⊂グスン
勉強になります。ペガサスさんありがとうございます(^人^)

57 アップル :2006/06/05(月) 10:01:50
仏教専門用語を金剛禅専門用語に訳したり、その逆だったりってのは難しそうですね。
どっちも一般人(仏教にかかわりの無い人とか)にはわかりにくいですしね。
うまく法話できるようになりたいですなぁ。

58 615期生 :2006/06/05(月) 10:32:34
100レスに満たずにこういう話になるなんてなんてすばらしいスレ。

59 :2006/06/05(月) 16:50:13
門外漢ですが、宗教論のようなので少し感想を託します。
>ペガサスさん、たいへんに勉強になります。
>たまに見てますさんも、勉強家ですね。

感想ですが、仏教学者の間でもひとつの解釈に至らない「法」解釈論は、
今後が楽しみです。

仏教界は、「仏陀、在りき」で、すべてが始まり進みます。
私のハンドル「空」は、大乗の中観派の「法は空である」から採っている。
だからどうしたと突っ込まれても意味はありません。
仏陀の「法」論争が日本で燃えあがることは、インド仏教以来のことで、
前後の日本では滅多無かったことなので、興味津々です。

「自燈明、法燈明」についてですが、意味は述べられてある通りです。
面白いことに仏教界では、「灯明」は訳の間違いであることは常識になっていて、
サンスクリットで「島」を意味するdvipaを使っていたところ、一般的な俗語、
パーリー語で書くと「灯り」を意味する【dipa】と同語形であるため、
パーリー語を原典として漢訳した「長阿含経」の編纂の際に「燈明」となってしまった。

つまり、「自らの島〜」が「自らの燈明〜」となったようです。
こういった行き違いは、取り上げれば色々と限りなくあるようですが、
だからどうしたの?程度です。他にもっと大切なことがある。
日本の宗教界では派間で「これが本当じゃ!」なんて、普通やらない。
同門同士の勉強のためにはもっときつくやり合う。

「法」の解釈に至っては漢訳ではなく、サンスクリット語で遣り取りしなければ、
本来の解釈が得られなくなってしまうし、経典解説書を読んだ程度では無理です。

ペガサスさんの
>それだけの知識を人の心の苦しみや悩みを救う為に活用されましたか。
>人に知識を教える事や間違いを指摘する事は易しい事です。
>でも大事なことは自分はどうかという事です。
>その知識や信心(もしあればですが)をもってどう行動したかです。
>それらの知識は自分を救い人の助けになってこそ価値あるものです。

これに尽きるようです。

従って、落語の「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」という川柳は、
的を得ていることになります。

60 アップル :2006/06/05(月) 16:54:12
空さん、勉強になります。

>つまり、「自らの島〜」が「自らの燈明〜」となったようです。

このような話があったのですねー。知りませんでした。

61 615期生 :2006/06/05(月) 16:57:22
>宗論は どちら負けても 釈迦の恥
これ上手すぎますね…

空さん、お久しぶりです。(^人^)

62 ビスキュイ :2006/06/05(月) 18:16:37
うわっ!空さんお久しぶりです〜。こちら見ていてくださったんですね。
また機会がありましたら書き込みなどいただけると幸いでございます〜。

63 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/05(月) 18:52:30
おぉ、空様、お久しぶりです。
お元気でおいででしたか?(^人^)

64 1改 :2006/06/06(火) 01:02:20
>ペガサスさん、みんみんさん

このスレに来た当初は簡単なコメントをするだけのつもりだったのですが、いつのまにやらこんなことになっておりました。
仕事の関係でずいぶんと長く休眠状態が続いておりますが、そのような私でも名乗る権利があるのなら、私は金剛禅の門徒であるつもりです。

私は丸廉にもupしていただいている「少林寺と北禅」スレを2ちゃんねるに立てちゃったやんちゃなやつです(笑)。
http://marukado.web.infoseek.co.jp/20050122-/2chbbs.html

私にとっての金剛禅の魅力は、北禅スレのレス番100でSyamiさんが指摘されているように、原始仏教に近い教義です。
お陰様で初期仏教に関する勉強の機会はとても増えましたが、私の知識なんぞはどっからか聞きかじってきたのをより集めただけで、学問的でもなければ博識だなんてとんでもありません。

しかし、私は学問、知識というものを実行と同格の重要なものと考えています。
行動がともなわなければ知識には何の意味もありません。当たり前です。
それと同様に、正しい知識が伴わない行動がいかなる惨事を生むか、全ての宗教者はオウム事件でそれを学んだ筈です。

北禅スレのレス番57を見てみてください。
多度津を知る臨済宗僧侶の発言です。

「さて数年前、知人が少林寺の有段者で、かなりの高段位を取る試験の話を伺いましたが、演舞など実技以外に、禅的な内容のペーパーテストがあるそうで、「これはどういう意味でしょう」と聞かれことが在ります。内容は、初歩的なものであったと記憶していますが、一応説明しましたが彼は余り理解できないでいるようでした。そういう点から鑑みても、少林寺拳法は直接禅的境涯を養うものでは無いと言えます。 」

このていたらく。
他派に鼻で笑われるような現状で、一体どうして釈尊の正当な仏教が云々などと言えましょう。
どうやら金剛禅は学問、知識を軽視しすぎるきらいがあるようです。
行動の重視、それは素晴らしいことです。
しかし、行動を起こす者の責任としてそれに見合う深い教義への理解が必要な筈です。
一般的な語義の解釈を知り尽くした上で、金剛禅の語義の理解に努めれば良いのではないでしょうか。

65 1改 :2006/06/06(火) 01:05:16
>>60 アップルさん
>このような話があったのですねー。知りませんでした。

あなたに請われて>>24で紹介したソースにその話そのまんま出てますがな(^^;;

66 ペガサス :2006/06/06(火) 03:20:24
はじめまして空さん。
以前にここでSyamiさんと高野の話をされていた方でしょうか?

私の母の実家が和歌山の橋本なもので小さい頃よく高野山に連れて行かれた事があるのですが
その頃はただこんなお山にお寺があるんだ。くらいにしか思ってなかったのですが
そんな私が未熟ながら宗教に関わりを持つ事になろうとは想像すらしていませんでした。

私は特に専門的に仏教学を勉強したわけではありません。金剛禅の教えをベースとしどちらかと言うと行動から学ぶ方でしょう。
まぁ、こう言うとまた「たまに見てます=1改」さんからもっとちゃんと勉強しろと叱責されそうですが。(^^;)
ただ仏教の知識も我々の技術も同じで知っているだけではだめなのでそれを使え、活用できてこそ生きたものとなる。
それが私の基本姿勢です。これに関しては1改さんも同じ見解をお持ちなようで安心いたしました。

確かに我々少林寺拳法の人間は技は勉強し共に仲間と切磋琢磨し合うようですが
我々の教義に関しあまり勉強会を持ち激論を飛ばすような事はないようです。
これも我々の修行のうち、いえ精神的にはその根幹をなすものですからそれなりの勉強は必要です。

ではそれを何処で実践すればいいのか。一つには我々には道場があります。
技を教えるのも一つですが、そこでちゃんと我々も教義も教える。
また後進の悩みや問題があれば聞いてやり解決の手段に活用する。
職場や身の回りでも、日常の中で自然とその知識が活用できるようになってこそ
習ったものが生きてくると言うものです。

道場でならまだしもそんな宗教じみた事を職場や近所で言っていたら
みんなから変な宗教に勧誘されるんじゃないかと白い目で見られるから出来ないと言われるかも知れませんね。
何も釈迦がどうのこうのお経がどうのこうと言う必要はないのです。
共に生きている人間同士、その悩みの根源を見出しどうすればそこから抜け出せるか
祈っても拝んでもそんなものでは解決しないのです。
その苦から抜け出す為にはどう言う考え方をもてばいいのか。どういう行動をとればいいのか。
その道を指し示してやる。自分の人生経験、人生観を通してまたは知り得る例を示し
そこに我々の思想の下地を乗せて。これは生きて行く為の哲学だと思っています。

だから私のいるここのように仏教徒でもなくまして他宗教の考えを容易に受け入れない西洋の人間にも
人生の悩みの相談や諸々の問題解決の為の相談に乗れるのだと思います。

自派の学問は自分自身に課せるもの、しかし使う時は時と所と方法を考えて応用変化を持ってする。
これが我々で言う所の「略」です。
邪道と言う人がいるかもしれませんが宗教を全面に出せない場で教える者の知恵とお考えください。

「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」ですか。
なるほど意を得た川柳ですね。では
「宗論は 逃げて通れば われの恥」
とでも返しておきましょうか。

空さん、ご教授ありがとうございました。
今後ともご意見ご指導の程宜しくお願いいたします。

67 ペガサス :2006/06/06(火) 03:32:30
川柳の出来がいまいちでした。
これの方がよさそうです。
「宗論は 逃げて通れば 後の恥」

「あほ、そんな事考えている暇があったらまじめに勉強せんかい」
と言われそうです。(^^;)

68 みんみん :2006/06/06(火) 07:25:17
1改さんだったのですね。2chでお見かけしたことがあります。
休眠拳士ですか、私と同じですね。

臨済宗僧侶の話ですが、何から何まで曖昧で評価に値しませんね。
「かなりの高段位を受ける人が何か覚えてないが初歩的なことも知らず理解できなかった。」
こんな曖昧な表現で他派を馬鹿にするのは良くないですね。もし事実なら、その僧侶さんの底も知れているというものでしょう。
まして他派の話です。馬鹿にされたからなんだと言うのですか?
「八正道」を実践するならそのような見栄に囚われてはいけませんね。

それよりも、前からお伺いしているはずです。私も615期生さんもあなたの主張が理解できません。
「法」の定義など、曖昧な質問とその返答に対する批判を繰り返すことで、
「あなたは何がいいたい」のですか?

>私は学問、知識というものを実行と同格の重要なものと考えています。
と言うのは結構ですが、自分が勉強していろいろ知っているからと言って、
こういう掲示板で他人を鼻で笑うような態度をとるのはいただけませんよ。
(「バイアス」、とか「NETにソースがあるよ(調べろ)」とかいう態度のことです。
「臨済宗の僧侶」などという権威を使う表現も私は好きになれません)

69 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/06(火) 10:15:49
あぁ、やはり1改さんでしたか。
どうも文調や論調に見覚えがあるなぁと思っていました。
お久しぶりです。お元気でしたか?
最近多忙で2chはおろか、こちらの方もあまりチェックしていないので
スレッドに乗り遅れてしまいました。
こちらには色々な方がおいでなので、どうぞお楽しみを。

70 トビアス :2006/06/06(火) 10:33:59
615期生様、アップル様、ビスキュイ様、Shami様、
修行は進められておりますでしょうか?
私は未だに谷で独鈷などを探しております。

ペガサスさんには、感心致します。私は、高野の者ではありません。
いわゆる、市井の古いタイプの修験者です。
修験道は、皆在家です。少林寺拳法も在家のようです。
1改さんは、出家僧侶に惑わされているので、一言書きます。

1改さんは、たまに見てますさんと同じお人ですね。
たまに見てますさんは、禅問答は大嫌いと書いておられた。
禅問答が大嫌いであれば、「不立文字」である禅の理解は難しい。
「不立文字」であるのに「禅」の書物が、もっとも書籍数が多いようです。
この言葉も「不立文字、教外別傳、直指人心、見性成仏」から成ります。

その臨済宗僧侶の方が、批判として言われたのか、
鼓吹するために言われたのか真意は無、こういった批判もまた方便と
考えるべきでしょう。
鼻であしらったかのように見えるのは出家禅僧の特殊性か、
その僧侶の修行が足りないだけのことです。出家僧と在家僧では、
自ずと生活が違うのですから、一様に考えないことです。
特に臨済宗は、面白い。

私は禅についてはあまり知識がないが、一般人よりは知っているでしょう。
臨済義玄による臨済宗は、臨済録からもわかるように鋭い機鋒です。
単に棒喝の禅機ではないことは特筆すべきところです。

「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝等諸人の両門より出入す。
未だ証拠せざる者は看よ看よ」これは録中の誰もが知る有名な言葉です。

「肉体の上に階位づけできない真の人がいる、
 常に君たちの感覚器官を通して働いている、
 それをまだ自覚体認していない者は、
 心眼を開いて見よ見よ」
という意味で、釈迦を無位の真人と見て、仏陀の悟りとした。
このことは「鈴木大拙先生」が「臨済宗の基本思想である」と明言している。

このあたりになると少林寺拳法の「拳足法器の行」は、
「真人」を自覚するための心眼を開く、ひとつの過程ではないかと思えます。
これは、原始信仰ともいえる修験道世界と通ずるところであって、
私としては何ら他宗に恥じるところはないと思っております。

一言いうならば、1改さんには迷うところがあるから、
他宗や議論に気をやっている。そのような迷いは、
「行」を「修」することによってのみ、解き放たれるのです。
本や議論ではどうにもならないところがあります。

先の「無位の真人」はそのことをいっている。
心眼を「行」によって開くところから、すべて始まるのです。
禅宗においては「座禅行」など、修験道では「回峰行」など、
少林寺拳法では、「拳足法器の行」などを主に言うのでしょう。

休眠拳士とお書きになっておられる。どの修行も継続しないと意味はない。
継続しないため、人は色々と理由をつけたがるのです。
その「行」も中断すれば気泡に期す。一から出直すのは、
最初に始めるよりも数倍の努力が必要です。
1改さんも、「不立文字、教外別傳、直指人心、見性成仏」といった、
言葉や書物に迷わず、早く戻られて、「行」を「修」されることが、
一番の早道と思います。

ここの方々は理論より実践、実践で理論を確認してゆく方達だと思いますから、
是非、心を開き修行を再開されることをお勧めいたします。
くれぐれも、書物や結論に至らない、他人との議論に頼らないことです。
最後に私はこの掲示板で「自他共栄」を教わりました。
つまり、自を確立し、伸長せしめて、その後に他人の幸せを扶く。
自己の確立と伸長なくして、他を語る価値は無い!

71 ビスキュイ :2006/06/06(火) 10:36:56
はにゃ??トビアスさん???え?

72 トビアス :2006/06/06(火) 10:41:19
トビアスは私?だれ?・・?偽名。

73 ビスキュイ :2006/06/06(火) 10:44:37
>>72 トビアスさん

70の書き込みはおそらく「空」さんだと思うのですが,何故に「トビアス」さんのお名前が…???

74 トビアス :2006/06/06(火) 10:56:58
わしは「空さん」だったのだろうか?
滅多に書き込んだこと無いのに・・・。社内に居るのかな?

75 アップル :2006/06/06(火) 10:59:57
あれ?やっぱり?おかしいと思いました。

>社内に居るのかな?

いまあなたの後ろに・・・。

76 :2006/06/06(火) 14:09:58
70は私です。すみません。
人に打ってもらいますので、誤ったようです。
トビアスさん申し訳ありません。
以降書き込みは止めます。陳謝。

77 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/06(火) 15:50:46
>以降書き込みは止めます。陳謝。

まま、そう仰らず。
私共にとっても他宗の御方と交流する貴重な機会です。
この後もご遠慮無く書き込んで戴きますようお願いいたします。

78 みんみん :2006/06/06(火) 17:30:16
空さん
含蓄のある書き込み、勉強になります。
久しぶりの書き込みを拝見できて光栄です。

>休眠拳士とお書きになっておられる。どの修行も継続しないと意味はない。継続しないため、人は色々と理由をつけたがるのです。
まさに私にも当て嵌まります。
理由をつけず、早く再開します。

これからも書き込み下さい。
みんな待っていると思います。

79 1改 :2006/06/07(水) 01:34:25
>Syamiさん
お久しぶりです。
ホントに最初はサクッとコメント入れてサクッと消える筈だったのですが、なにやらこんなことになってしまいました(笑)。
まあ乗りかけた舟ですので、もう少しお邪魔させていただこうかと思っております。

80 1改 :2006/06/07(水) 01:34:56
>みんみんさん
私が本当に言いたいことは既に書きました。
バイアス、偏見の語に大変敏感になっておられるようですが、これは仏教的にみても大変正しい態度です。
初期仏教に置いて最初期に成立した苦を滅する教法が八正道ですが、その最初が正見です。
正見の解釈は実はイロイロなのですが、金剛禅では
「一切の先入観を捨てて、ありのままにものごとの本質を見つめること」
です。
私はこの先入観(バイアス)という強い言葉を使って615期生さんを煽ったのです。
私が話をしたかったのは、仏教に強い関心を持っている彼でしたから。
でも何故か釣れたのはみんみんさんでしたw

>臨済宗僧侶の話ですが、何から何まで曖昧で評価に値しませんね。
2ちゃんねるのレスなんてものは、厳密なことを言えば評価に値するものなどなにもなくなってしまいます。
私は、件の臨済宗僧侶の発言を引用して金剛禅の体質を揶揄したわけですが、それを見て自省の機会とするのも、ただ反発して腹を立てるのも、これは読者次第としか言いようがありません。

あと、気になったので一応指摘しておきますが、ソースを提示させておいて自ら調べもしないような態度では学校のお勉強(親切この上ない)もできません。
また、臨済宗僧侶に権威を感じたのはあなたであって、私としては、臨済宗という宗派の坊さんの発言だという意味以上でこの語を用いたつもりはありません。

あなたからは、私をやりこめてやろうという気概みたいなものは感じますが、仏教に対する興味関心を微塵も感じることができません。
できれば無意味に私に話しかけないでいただけないでしょうか。
(って、無理かなw)

81 1改 :2006/06/07(水) 01:35:29
>空さん
初めまして。

私は確かに禅問答が大嫌いですと発言しました。
実はこれには注釈がつきます。
正確には、私は文字情報でコミュニケートする掲示板のような場であるにも拘わらず、禅問答の様な曖昧な言説で誤魔化されるのが大嫌いなのです。
禅問答自体は看話禅たる臨済禅の重要な修行法として強い興味を持っております。
ちなみに私の出自は禅ヲタですw

ところであなたは私の発言を少しも理解していませんね。
修験道を修行されているとのことですが、本山派ですか?醍醐派ですか?
まさか我流なんてことはないでしょうね。
いったい、行学一致を説かない仏教宗派が何を行っているのか、大変興味深いものがあります。
いずれにせよ、安っぽい修行論みたいなレスで人を迷わせるのも大概にしてください。

82 みんみん :2006/06/07(水) 06:54:27
1改さん
あなたの話は何もかも「曖昧」です。
レスが汚れるのでいちいち書きませんが、2点だけ。

>私が本当に言いたいことは既に書きました。
→書いていません、書いたと言うなら再度でもいいので書いてください。

>できれば無意味に私に話しかけないでいただけないでしょうか。
本来このスレではROM専門です。あなたが普通に議論できる的確な発言をするならば、私は消えますよ。
仏教とは関係なく、2CHで駆使されている典型的な発言テクニックで人を揶揄しているので、議論を正常に戻すために書いているのです。
仏教の話以前に、あなたの発言が2ch的に見ても「卑怯」な手法だと指摘しているだけです。

83 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/07(水) 11:27:55
> 1改さん

えー、一言だけ。
ここは2chではありませんから、過剰な「煽り」をしなくても
普通に真摯に疑問を提示すれば皆さん真摯に返答してくれますよ。
折角他宗の空様や大先輩のペガサスさんもおいでなのですから
それこそ「八正道」の訓と瞋恚説法を思い出しつつ、この機会に
勉強させていただこうではないですか。

84 :2006/06/07(水) 13:20:30
みなさんすみませんでした。
1改さん、初めまして。
書き込まない予定でしたが、少しだけ返答して了とします。

私は、貴殿の書き込みについて、批判などする気は毛頭ありません。
私は臨済宗について記載があったため、臨済宗の持つ根本思想について
若干でも知識の共有をみなさんとするべく、少し述べたのです。
お気に触ったようで申し訳ありません。
貴殿ほど禅の知識が無いため、失礼を致しました。

貴殿の禅についての追記注釈は理解しました。
注釈がないと分らず仕舞になるところでしたが、
禅問答が曖昧であるとのご指摘は初耳でしたので、勉強になります。

>あなたは私の発言を少しも理解していませんね。

まだまだ修行が足りないのでしょう、
一層の修行に励むことにしましょう。

一点、修験道についてのご指摘や記述については、
もう少しお調べになって書かれるほうがよろしかろうと思います。
少なし、修験道が仏教宗派であるかのようなご指摘には、驚きました。
私も今一度、勉強し直すことに致します。

私の安っぽい修行論で迷うようでは困りましたね。
私も大概にしておきます。
貴殿の記述をひたすら読んで、勉強させていただくことにします。
私にとって、ここは勉強の場所ですし、やりとりが楽しい。
ですから、時折密かに訪れて読んでおります。

貴殿には、口を挟んだようで誠に失礼を致しました。
ここにお詫び申し上げて、了と致します。

85 みんみん :2006/06/07(水) 14:44:38
空さん
スレが荒れてしまい、ご迷惑をおかけしました。ただ、この議論の御蔭で久しぶりに空さんの発言があったのは、有り難いことでした。
了とおっしゃらず、また落ち着いた頃に書き込みください。
ありがとうございました。

86 ペガサス :2006/06/07(水) 15:01:48
空さん、もしご気分を悪くされたとしたら私からお詫びいたします。
ここは一応少林寺拳法を行ずる者が主催する場であり、そこの掲示板ですので
道院、支部と言う入れ物はなくてもみな同じ門下という事になります。
1改さんがまだ金剛禅の門徒であるの言うのであれば私と同じ門下。そして後輩と言う事になります。
同じように精神を高めようとされている他派の人に対する非礼申し訳ありませんでした。

人には徳と言うものが必要だと開祖も説いておられました。これは人間性の問題です。
最近では死後になりつつある言葉ですが、少なくとも法を拠り所としまた我を拠り所として
悟りの道を求めようとする者ものがその精神を忘れてはどんなすばらしい言葉をつむぎだしても色を失うでしょう。
「徳」という字は、行人偏にプラス四つの心と書く。徳育、尽くす心、捧げる心、与えて喜ぷ心、だと
開祖は法話でこう話されていいました。

少なくともその道の実践者に机上の知識だけで是非を問うのはいささか非礼ではないかと私は思います。
合気道の本をよみ、貴方の合気道はなってないというようなものです。
私も少林寺拳法の技術書を読んだだけの素人にあなたの術理は間違ってると言われれば腹もたちます。

我々は少なくとも道を求めようとする者。どんなに書籍を読み知識を身につけたとしても
人としての礼節も徳も持たぬ者に仏心も法もないでしょう。
それでは何を学び何を求めようとするのか。
例えどんなに優れた知識を持とうとも人としてその品位を貶める事になるだけです。
客をもてなす精神なくしては「一期一会」も絵空事にしか過ぎません。

私は仲間内で疑問があるなら論議を交わす事は大いにいい事だと思います。
でももし1改さん。あなたがまだ少林寺拳法の拳士であり、金剛禅の門徒であるというのであれば
もう少し外部の人に対する礼節を持ってもらいたいと思います。
でないと貴方自身の品位が疑われ、どんな博識を広げても誰も信じようとはしなくなるでしょう。

87 ペガサス :2006/06/07(水) 15:13:32
それとこれは余計な事かも知れませんが、bias(バイアス)は英語では先入観とは使いません。
確かに辞書を引けば先入観と言う言葉はあるかも知れませんが、
日常語としてそれは偏見とか誰かに肩入れするような時に使う言葉です。

つまり机上の言葉と生活の上で使われる言葉は違うと言う事です。
では先入観とはどんな英語なのか。それはご自分で調べてみてください。

88 ..空 :2006/06/07(水) 18:31:11
ペガサス様、
ご心配いただき、ありがとうございます。
「宗論は 逃げて通れば われの恥」武辺の感じが漂います。
では私は「宗論は 何といっても 逃げるが勝ち」
逃げちゃいましょう。

私は、法器の項で、お仲間に入れていただきましたが、
武術には疎いためにいろいろとご教授いただきました。
私は、修験道の行者ですが、膝を悪くし近年は篭って勉強をしています。

時折、ここを覗いて、はにやにや喜んでいます。
お蔭様で、法器と武器の関係ではかなり知識がつきました。
しかし、谷に失った独鈷などは未だに惜しい気がして、
まだまだ修行が足りないと反省するしだいです。

ここの方々は実によく勉強されています。
教えられることが多い。
Syami様のお陰で、冷や汗をかきながら、
師や大先達、時には座主などにも確認しながらお答えするほどでした。
却って、「お前ももっと勉強しなさい」と、叱られたのですよ。
こういった具合にみなさんとても楽しいし、元気をもらっています。

みんみん様も、お元気で何より、あまりき熱くなることは無いですよ。
これだけ言い合いが出来る内は、お互いにまだ余裕があるということ。
極限状態ではこうはいかなくなって、扶助し合うものです。
その中から自分の愚かさや弱さが見えてくる。
一生勉強です。

89 ビスキュイ :2006/06/07(水) 19:00:43
空さんのお話はネットの掲示板で読んでも不思議と「味わい」が伝わって来ますな〜。

90 615期生 :2006/06/07(水) 19:13:19
いい香り、てやつですか。

91 ビスキュイ :2006/06/07(水) 19:25:44
>いい香り、てやつですか。

うんうん。何て言いますか,夜に囲炉裏のそばにご一緒させていただいて,そのまま
般若湯などいただきながら色々と修行のお話を伺わせていただきたくなるような…

92 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/07(水) 19:39:35
然り然り。一度直にお会いしてゆっくりとお話など伺いたいものです。

93 1改 :2006/06/08(木) 00:10:21
>>82
>みんみんさん
私の主張は>>64の通り、一言で言えば行学の一致です。
当初は法灯明が話題でしたが、話す内容が八正道でも三法印でも同じ事です。
折角の法灯明も、感覚的に矛盾はない、で済ませていては深まりません。
ただ、やはりここで下らない2ちゃんテクは使うべきではありませんでした。
深く反省しております。

94 1改 :2006/06/08(木) 00:10:42
>>83 Syamiさん
確かにここは2ちゃんではありませんでした。
丸廉が2ちゃん支部を謳っていたこともあって油断しておりました。
考えてみればほとんどの皆さんは顔見知りなわけですね。
誰かが2ちゃん風に煽られて黙っている訳がありません。
だいたい、このような普通の掲示板で瞋恚を引き出そうとする行為事自体が間違っておりました。
このスレにSyamiさんがいてくれて本当に助かりました。
下手したらこのまま爆走していたかもしれません(汗
お世話をおかけして申し訳ございません。

95 1改 :2006/06/08(木) 00:11:02
>>みなさま
私の不用意な発言により多くの方々の御気分を害したことを深く陳謝いたします。
なかには2ちゃんねるに出入りされていないような方もいらっしゃるようで、私の完全な認識不足でした。

>ペガサスさん
>>66で空さんに宛てたレスを見れば、私なんぞのあのような無礼な発言まで真剣に聞こうとしてくださっているペガサスさんの人徳が伝わってきます。
2ちゃんねるというのは特殊な遊び場ですが、そんなものをこちらにまで持ち込んだ非礼をお許し下さい。
逆立ちしても足元にも及ばぬ未熟者ではありますが、今後とも是非によろしくお願い致します。

>空さん
>>81の発言は煽りと呼ばれる2ちゃんテクであります。
現代語訳いたしますと、「もっと遊ぼうよ」となります。
御気分を害されたことと思います。申し訳ございません。
ご指摘の通り私は修験道のことを囓った程度にしか知りませんが非常に興味を持っています。
レスを控えるなどと仰らずに、是非是非ご教示下さいますようお願いいたします。

以上、私の反省の弁でありました。
なお、今後は誓って煽りを用いたりは致しませんが、私の思うところは今まで通り直截に発言していきたいと思っております。

96 名無しさん◆いらっしゃい :2006/06/08(木) 01:47:43
>2ちゃんテクは使うべきではありませんでした。
>確かにここは2ちゃんではありませんでした。
>2ちゃんねるというのは特殊な遊び場ですが、そんなものをこちらにまで持ち込んだ非礼をお許し下さい。

ちがうくない?
ちがわなくないのかな?

97 1改 :2006/06/08(木) 02:21:03
まあたしかにちがうような気もするけど、いまんとここれでおなかいっぱい。

98 みんみん :2006/06/09(金) 07:20:53
1改さん
ここの掲示板は2ch発祥ですし、2ちゃんねらーが多いのも確かです。
レイアウトも似ていますが、そうでない人もおりますので・・・
素直に認めていただいてありがとうございます。
私も少々荒い書き込みをしたかと思います。申し訳ありません。

>私の主張は>>64の通り、一言で言えば行学の一致です。
>当初は法灯明が話題でしたが、話す内容が八正道でも三法印でも同じ事です。
>折角の法灯明も、感覚的に矛盾はない、で済ませていては深まりません。
ご意見わかりました。この「感覚」にいたる部分まで論理的に証明できるのか、
浅学な私にはわかりませんが、今後の論証を待ちたいと思います。
私の場合、肝心の議論ではROM中心になりそうですが。

99 1改 :2006/06/10(土) 01:14:58
みんみんさんにはお許しいただけたようで嬉しいのですが(ありがとうございます>みんみんさん)、2ちゃんに不慣れな方にとってみれば真剣な発言も私のいい加減な「煽り」に踊らされて引き出されたような不快感を持たれているのでは思います。
一応言い訳にならない言い訳をさせていただきますと、私の発言内容は、煽りを意識していますので表現は非道いの一言につきると思いますが、全て本音です。
ムナクソワルイとは存じますが、内容のみを読みとって頂ければ幸いです。

もう一つ、2ちゃんに不慣れな方にフォローしておかなければならないことがあります。
2ちゃんは特殊な遊び場ですが、何故か少林寺の拳士は2ちゃんでも紳士な方が多くいらっしゃいます。露骨な煽りを多用する私などはむしろ少数派かもしれません。
少なくとも丸廉の常連さんに私のようなタイプはいないでしょう。
北禅スレではSyamiさんに大変お世話になったのですが、こんなできた2ちゃんねらを私は他に知りません。(真似はしませんでしたけれど)
どうやら私は2ちゃんとは相性がよろしくない様な気がしてまいりました。
お恥ずかしい限りです。反省の証にしばらく2ちゃんからは撤退しようと思います。
もっとも、ここのところ忙しすぎて既に半ば引退しているのですが。

100 1改 :2006/06/10(土) 01:16:01
さて、法燈明の話が中途半端でしたので閑話休題とさせていただきます。
金剛禅における法燈明の定義はペガサスさんが説明してくださいました。
当初私はその内容を知りませんでしたので、所謂原始仏教、初期仏教のカテゴリーの経典を研究する文献学者の学説を紹介いたしました。
原始経典には金剛禅の教典中の聖句に引用されているダンマパダも含まれます。
私は、開祖が当時の原始仏教の研究成果を大胆に取り込んで現在の教義を練り上げたのではないかとも推察しております。
そのようなわけで、これら文献学の成果を知ることは開祖の思想をより深く理解する重要な手がかりになると考える次第です。

前置きが長くなりましたが、まずはネットで拾ってきた中村元博士による大般涅槃経の該当部分の邦訳をお示しします。次に、参考までに学者さんや坊さんの法の解釈を少しだけ引用してみます。

「ブツダ最後の旅」岩波P62
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。
わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けにょってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けにょってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
「修行僧たちよ。修行僧はみずから念じて、よく気をつけておれ
修行僧は、身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
感受に関して感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における食欲や憂いを除去していなさい。
今も、自分の死後も、誰でも学ぼうとするものはそのようであれ。

次に法燈明に関して仏教学者を引用します。ちょう一流のかたです。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/gendaijinnozen/fl-kyouten/05-jitoumyou.htm
「大般涅槃経」の「自燈明・法燈明」で釈尊が言われた依り所とすべき「法」とは何か。平川彰氏は、「帰依三宝」すなわち、仏教徒が帰依すべき三つの宝、仏・法・僧の場合、原始仏教教団では「法」は、五分法身と解釈されていた、という(1)。五分法身は、「戒・定・慧・解脱・解脱知見」である。

以上引用終了。
なお、日蓮宗の某お寺のホームページでは、法燈明の法をやはりお釈迦様の教えとしていました。

一方、今超うれっこの臨済宗の禅僧、玄侑宗久さんはこんなふうに言っています。
http://www.genyu-sokyu.com/essey/essey03/22.html
 お釈迦さまは、亡くなるまえにアーナンダにおっしゃった。「自己と法とを拠り所とせよ、けっしてそれ以外のものを拠り所にしてはならない」と。世に「自燈明、法燈明」と呼びならわされている逸話である。
 このことに驚くのは私だけではないだろう。つまりお釈迦さまは、けっして自分の教えを拠り所にしなさいとはおっしゃらなかったのだ。ここでの「法」とは、宇宙を通貫する真理と考えていいだろう。

これは金剛禅よりの解釈ですね。

おっと、100ゲト!

101 名無しさん◆いらっしゃい :2006/06/10(土) 02:21:23
1改氏ご自身はどう解釈しているの?

102 ペガサス :2006/06/10(土) 07:46:20
さて、この法燈明、自燈明の問題ですがここで言われる法とは何をさすのか?
と言う意味合いの解釈も大切でしょう。元々の意味がわからなければ何もなりませんので。
でもそれだけで終始しては単なる辞書の言葉探しになってしまいます。

そこで次に考えなければならないのはこの法燈明で言う所の「法」とは金剛禅にとって何であるか。
またどう言う意味をもつのかと言う事です。
1改さんが言われていますが
>開祖が当時の原始仏教の研究成果を大胆に取り込んで現在の教義を練り上げたのではないかとも推察しております。

との事ですが、私もそう思います。そこでまずこの原始仏教とはそもそも何なのか?
多分知っておられる方は多いとは思いますが、復習の為に簡単に説明してみますと
釈迦が入滅されてから約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教を原始仏教、もしくは初期仏教と言います。

これは後に出てくる上座部仏教や大乗仏教とはまた区分けして言われる仏教です。
この上座部仏教というのは以前は小乗仏教の分類で呼ばれていましたが
今は小乗仏教と言う名称は使わずに上座部仏教と呼ばれています。
つまり上座部仏教とは主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、
利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であると大乗仏教からは批判されている仏教です。
そしてこの教典はバーリ語で書かれ、バーリ経典と言われているものです。
(直に批判の対象になったのはこの上座部から分離した説一切有部の部派だと言われていますが)

それに対し大乗仏教とは自身の涅槃を追求するにとどまらず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への救済に対する誓いを立てること(⇒誓願)を主張し、
この「利他行」の強調して、大乗仏教と上座部仏教(=部派仏教)とを区別しています。
使用されている教典はサンスクリット語が多用されています。

ではそれ以前の原始仏教とは何か?
「原始仏教」中村 元著 日本放送出版協会 刊によれば

≪憂いと悲しみと物惜しみを捨てる。その他もろもろの心を騒がすものを捨てる。
最後には、こころを騒がす源になっている「わがもの」という思いを捨てる。
「わがもの」と思っているものは、「わがもの」ではありえない。何故なら、人は必ず「死ぬもの」だからである。
「わがもの」と思い、飾り、いとおしむこの肉体も、死ねば腐敗し、消え去る。
愛する人も、愛した物も、財産も、すべてをこの世に残して、一人で死ななければならない。
わが身にとって「わがもの」というものは何ひとつ無い。
あるはずの無い「わがもの」に執着し、怒りや妬みに心を騒がせるのはなんと愚かなことか。
この理を知り、次々に湧き上がる「わがもの」という思いを捨て去ることが、すなわち修行である。
自分の心を注意深く観察し、湧き上がる「わがもの」という思いをひとつひとつ消しつづける。
「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態、こころを騒がせるものが何もない、
それがニルバーナ(涅槃)である。人は努めてニルバーナに至り、楽しく暮らせ。≫

つまりここに見える姿は仏ではなく人間シッダルタです。ナザレのキリストが人々に布教して回った時と同じように。
生きるものへの解脱の勧め、それは真理を理解する事。それをわかり易い言葉で説いているのです。
訳のわからない漢文の教を原文で読むような事でも、頭の痛くなるような難解な教典を読む事でもなく。

そしてその真理とは何か、それが解脱の向こうにあるもの。法に接する事。ダーマと一体になる事でありまたその一部となる事。
我々の金剛禅はこの部分を持って教義としているように思うのです。我々自身は羅漢の修練はします。
しかしそれは上座部仏教のように自分達だけが解脱し、涅槃をもとめるのではなく,
得た真理、悟りを持って大乗仏教より批判をうける説一切有部にある二乗(声聞や独覚)になるのではなく
我々の羅漢とは大乗仏教に言う所の菩薩的なものであろうと考えます。

そして釈迦の唱える中道の精神。
「厳しい苦行や、それと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法」のこと。
これを我々は養行として行なっているわけです。

しかしまた大乗仏教にある顕教や密教ではなく幾多の如来を崇拝する事でも真言を唱える事でもなく
我々の漸漸修行を通して日々の悟りより大いなる悟りに至る道を求めるもの。

よって羅漢としての修行をしながら、涅槃をあえてこの世の理想郷に求めた道。
それが金剛禅の骨格ではないかと思っているのですが。
これはかなり大雑把な事を言ってますので賛成するも否定するも話を進める上での一つの叩き台になればと思います。

103 1改 :2006/06/11(日) 01:34:51
ペガサスさん、原始仏教の概説をありがとうございます。
僭越ではありますが、あまり主題とは関係ない一部分を訂正させていただきます。

>この上座部仏教というのは以前は小乗仏教の分類で呼ばれていましたが

大乗仏教が当時の論敵として小乗と揶揄していた仏教セクトは当時の最大勢力である説一切有部です。
龍樹が空(縁起)の概念で論難した相手もこの有部になります。
説一切有部は上座部からさらに分派したセクトですから、上座部を称して小乗(と言われていた)と言っては他の部派がかわいそう、ということになります。

主題と関係があまりありませんので、wikipediaのURLを引用するに留めます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8

実際、この手の主張はスリランカや東南アジア諸国から現代の日本に布教に訪れている南方上座部からも出ております。
一応、参考までに日本テーラワーダ仏教協会の一文も引用しておきます。

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi10.html
『大乗仏教で小乗仏教と言われていた宗派はお釈迦さま入滅後200年ごろインドで上座仏教から分かれていった部派仏教の宗派で、その仏教を非難して大乗仏教が形成されていったという史実がありますが、大乗仏教から小乗仏教と呼ばれていた部派仏教はいまでは何も残ってはいません。従ってテーラワーダ仏教のことを小乗仏教と呼ぶ人もいますが、それは歴史的事実を知らない人の認識不足でテーラワーダ仏教は最初からお釈迦さまの教えだけを受け継ぐことを目的として連綿(れんめん)とつづいてきた仏教であり、大乗仏教や小乗仏教とはその成立過程も主張も根本的に異にするものです。』

以上引用終わり。

ただし、注意すべきは、現在のテーラワーダ(上座部)仏教は決して原始仏教ではなく、部派の生き残りとして現在にまで継承されてきた歴とした現代宗教であるという点です。
彼らは彼らの信仰として、自らを原始仏教と主張していますが、仏教学的な原始仏教観と矛盾する教義も含まれます。
ご参考まで。


>「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態、こころを騒がせるものが何もない、
>それがニルバーナ(涅槃)である。人は努めてニルバーナに至り、楽しく暮らせ。≫

ここに初期仏教における涅槃の定義があります。
最重要な一文ですね。
何故なら、原始仏教においては涅槃を得ることが最終目標だからです。
涅槃とは、『「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態』、すなわち離欲を完成させることによって欲から生じる一切の煩悩の火の吹き消された精神状態と解釈されます。
煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教かが現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。
これが四諦ですね。
そして、その離欲のための具体的な方法論が八正道としてまとめられています。

>そしてその真理とは何か、それが解脱の向こうにあるもの。法に接する事。ダーマと一体になる事でありまたその一部となる事。

この解釈はどちらかというと大乗的であると考えます。
実は私はこちら方面の勉強がまだまだ不足気味であります。
縁起が発展して空となり、またダーマとなって大乗の根幹に据えられました。
一念三千など他派の類似思想を紐解いて、それらが印度教の梵我一如とどのように区別されるのかを知っていかなければと思っています。

104 1改 :2006/06/11(日) 01:42:03
重要なとこなのに間違えちゃいました。訂正します。

× 煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教かが現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。

○ 煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教から現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。

105 1改 :2006/06/11(日) 02:16:14
今、読み返しましたら、ペガサスさん、ちゃんと説一切有部について触れていらっしゃいますね。
失礼致しました。前半部分は聞き流してください。

106 ペガサス :2006/06/11(日) 06:40:34
やはり、1改さんがつっこんできましたか。それも想定内と言う事です。(笑)
まずは私が仮説を立てた事でそれを元にして話し合える基盤になればと思ったものですので。
ですから、どなたでもまたこれらに関しまたはそこから派生する事につき話し合っていただければいいと思います。
しかし1改さんはなかなか手ごわいかもしれませんね。頑張ってください。

ただ二点だけ付け加えておきます。
まずは当時の年表についてはあまり気にしない事です。
だいたい釈迦の生没年は仏教研究上未決であるとされているのですから。
一説に紀元前463年 - 前383年、前560年 - 前480年等さまざまです。

ですから私が言った「入滅されてから約100年くらい」と書いたのも
人によっては100年〜200年くらいと言う幅で使われていますのでこう言う年表はあまり気にしないで下さい。

二点目、それはここに出てくる小乗仏教についてですが、1改さんが言われるように
大乗仏教が当時、批判の対象としたのは当時の最大派閥であった説一切有部です。
この説一切有部は釈迦の死後、根本分裂を経て、仏教は保守的な上座部と革新的な大衆部とにわかれ
更にこの上座部も枝末分裂を繰り返しますがその代表的なインドで最大であった部派が説一切有部です。

ただこれは私に言わせれば偉い僧侶も町のチンピラも同じだという事です。
随分むちゃくちゃな表現をしてますが、だいたい喧嘩をする時、または戦いをする時は大将の首をとるのが一番手っ取り早いのです。
はしっぱと無駄な争いをしていてはこちらの戦力も落ちると言うものです。

ですから当時も叩くべきは最大派閥に目標を絞ったと思います。
そこさえ叩けばそれに付随する派閥は一緒くたに叩けるわけですから。
ですから誰が誰を叩いた、批判しかたではなく、何に対して批判したかです。
つまり大乗仏教の主張する「利他行」を行わず、「阿羅漢」を目指す宗派統べてと言う事です。
たまたまその時の最大派閥が説一切有部だったと言う事です。
当時のことですから細かい資料などは残ってないかもしれませんが、
ともかく阿羅漢修行を含む派閥統べてと言う事になるでしょう。
その当時もし上座部を含め各部派にもその思想があればそれも明記されなくてもその対象にはなったでしょう。

その後説一切有部は衰退して行き、大乗仏教の勢力が大きく伸びてくる事になりますので
説一切有部に加担もしくは思想を同じくするものは生き延びる為には持論を少々曲げてでも世に迎合する必要が出てくるでしょう。
それが現在にまで生き延びられた小乗系宗派だと思っているのですが、少々妄想が過ぎましたかね。(笑)
これは本筋とは特に関係ない部分ですが私の推論です。

どんなにすばらしい教えであれ、所詮それを引き継ぐのは生身の人間です。
迷いも過ちも統べて継承して引き継いでいるのでしょう。
だから経典が数万とも言われる人間一人が一生かかっても読みきれないばかげた宗教になっているのではないですかね。
真理が正しく伝わっていればここまで分派、分裂はしなかっただろうに。

107 1改 :2006/06/12(月) 01:39:41
>ペガサスさん。
私の脱線にまでお付き合い下さってありがとうございます。

大将の首論は面白い視点ですね。
私なんぞがこんなことを言うと文献学者様にお叱りを受けそうな気もしますが、仰るとおり当時の事情を詳細に示すことのできる資料は限られているようです。
説一切有部は法有(一切の構成要素の実在)を説くことから、一切皆空を説く龍樹の良い標的になったということですが、これ以外の部派に対する対応の詳細は私も知りません。

でもまあ、HPをリンクしてしまったこともありますので、上座部の肩をちょっと持ってみたいと思います。
私はテーラワーダの回し者ではありませんが、彼らの言い分も少しだけ聞きかじっておりますので紹介させていただきます。
日本では小乗にムリヤリ分類されてしまう彼等ではありますが、その教義にも利他行は含まれています。
すなわち、まずは自分の内面の煩悩・無明を四諦・十二縁起の観察・八正道・瞑想修行により取除きます。
その後他者を涅槃へと導く手助けをしていくわけですが、これが彼等の利他行です。

まずは自己確立を促して、その実力の裏付けのある利他を推奨している金剛禅のあり方と良く類似しているように思うのですが、いかがでしょうか。

なお、上座部は大乗の空に強調されるような重重無尽縁起を説きません。
これは大きな相違です。

108 :2006/06/12(月) 12:56:01
釈迦に説法で恐れ入りますが、
以下ご存知の通り、ご賢察願います。

雖誦習多義
放逸不従正
如牧数他牛
難獲沙門果

不務観彼
作與不作
常自省身
知正不正

所謂智者
不必弁言
無恐無懼
守善為智

109 1改 :2006/06/13(火) 00:40:07
空様:
ご教示ありがとうございます。
このスレでは荒らしのような格好になってしまいましたが、以後慎ませて頂きます。

ペガサスさん、ありがとうございました。
金剛禅の見解を知ることができたことは本当に収穫でした。
おそらく最後になりますが、私も法句経の中から糧とすることばを引用してみます。



だれがこの大地を征服するであろうか?
だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。

中略

うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。

うず高い花を集めて多くのはなかざりをつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。

後略

「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元

110 1改 :2006/06/13(火) 01:21:53
補足として空様の教示された漢訳部分に対応する邦訳をお示しします。
私は漢字が苦手ですので、間違っていたらごめんなさい。
なお、邦訳は中村元の真理のことばからの抜粋ですが、こちらはパーリ語からの直訳になりますので
意味は完全には一致はしないようです。


雖誦習多義
放逸不従正
如牧数他牛
難獲沙門果

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
−−−牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。

不務観彼
作與不作
常自省身
知正不正

他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

所謂智者
不必弁言
無恐無懼
守善為智

多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。
こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、−−−かれこそ賢者と呼ばれる。

111 ペガサス :2006/06/13(火) 02:49:29
書き込みが遅くなってしまいました。
実は昨日アメリカで少林寺拳法を最初に開き
40年間に渡って布教されていた我々の先輩が逝去され昨日葬儀がありました。
私もその山森先生とは以前より面識があり、今は同じ地域に在住しておりますので
葬儀のお手伝いに行って参りました。また開祖直伝の門下がお一人この世を去られました。

この葬儀は本人のご意志、ご家族の希望で運ばれたものですので同門としての作務をさせていただきました。

ただ同じ地域と言いましても車で1時間以上はかかる所ですが。
朝4時半起床、5時に家を出てまだ夜は明けていませんでした。
その分車もすいており、1時間ちょっとで辿り着くことが出来ました。
これがラッシュアワーであれば1時間半から2時間はゆうにかかるところでしょう。

6時から準備にかかり9時から開場となっていました。
さて今回の儀式は神式でした。それはその先生が40年間お借りしていた道場がその神道の講堂だったものですので。
私も神道式の葬儀と言うものは初めてでした。神道では焼香ではなく玉串奉奠になります。
これは玉串を受け取り枝の方をご遺体の方に向け一拝二拍手(この時はしのび手と言われ音はだしません)そしてまた一拝。
この玉串を渡し、作法を説明するのが私の役目でした。

人が多かったので本堂の他に外に二箇所、玉串奉奠の場を設けその一つが私ともう一人の支部長との受け持ちでした。
勿論、殆どの方々は神道式葬儀はご存知なく毎回私達が説明しなければなりませんでしたが
これも一つの勉強になりました。

そして帰ってきて、こちらをみれば空さんからのメッセージ。
それを読んで、さて、これはまた厄介な事を(苦笑)と思っていたら停電です。(^^;)
あはは。1改さんに先を越されてしまいましたが、意味する所は我々の金剛禅も同じです。

俗的に言えば「行」をしてなんぼと言う事です。
修験道でも「行」があり、禅宗でも他の宗派でもそれぞれに「行」と言うものを積みます。
それは読経であったり瞑想であったり様々ですが
つまり知識を己の霊肉を持って行じてこそその真理とする所に辿り着ける。
これはどの宗派でも変わりはないでしょう。

我々金剛禅ではそれを易筋行を持って行なっています。
1改さん。貴方も金剛禅の何たるかを本当にお知りになりたいのであれば
早く休眠拳士より復帰し、「行」と共に理解に勤しんでください。
また違うものが見えてくるかもしれません。

空さん。ご指摘ありがとうございました。
しかしここまで来るとちょっと一般掲示板としてはついていきずらくなりますね。(^^;)
お手柔らかに。

112 ペガサス :2006/06/13(火) 05:16:02
最後にこのレスを立てて下さったリーさん(でよかったんでしょうか?)
それに615期生さん、アップルさん。みんみんさん。Syamiさん。ありがとうござました。
1改さんや空さんの色々な意見を拝聴しまた交換させていただき私も大変勉強になりました。

あまり私は長々と投稿する事はなかったのですが今回は想定外の展開となってしまいましたが
改めて行ずると同時に学ぶ事の大切さも再確認させていただきました。
ありがとうございました。

ところで空さんの法句経の説ですが、
こう言う漢文の書き方も他にもあるんですね。中国語も幅が広いですから。

雖多誦經集
放逸而不行
如牧數他牛
自無沙門分

私は経の専門家ではないのでそれらもまたいい勉強になりました。

再拝

113 ペガサス :2006/06/13(火) 08:14:49
もう止めるつもりでいたのですが、
1改さんの示された邦訳はこれらが一番近いと思われますので参考までに。

雖多誦經集
放逸而不行
如牧數他牛
自無沙門分

不觀他人過
不觀作不作
但觀自身行
作也與未作

不以多言故
彼即為智者
安靜無怨怖
是名為智者

では今度こそ。

再拝

114 :2006/06/13(火) 08:19:01
勉強になりました。
ありがとうございました。
失礼致しました。

115 アップル :2006/06/13(火) 10:32:47
皆様ありがとうございました。途中からついていけなくなってしまって見る側になっていましたがとても勉強になりました。

116 615期生 :2006/06/13(火) 10:52:34
いえいえとんでもございません。
私も大変勉強になりました。
ありがとうございます。
今後もご鞭撻のほどよろしくお願いします。

117 :2006/06/13(火) 13:22:40
今回、少し感じたことを書いて了といたします。

書いても意味はないのですが、
お経については、日本ではどうしても漢訳が中心になります。
確かにパーリ語は、その発見された量から見てもプラークリットでは
最重要語ですから、当然漢訳には多いですね。
インドで発展を見なかった仏教は、中国にわたり、その漢訳に際しては、
中国に帰化したインド僧が主になって、積極的に取り組みました。
中国僧も同じく漢訳をしました、ですから、漢訳文は諸々ありますし、
訳者によって品数までも違います。

重要なのは、内容であります。
しかし、同時に経を誦える韻律もまた重要になります。
釈迦がマガダ語で喋ったであろう説法を弟子たちが集まり、
そう言ったかどうかの確認をとりながら、まとめていった。
それを書いたものや書き写したものが、後年になって漢訳されたのです。

漢訳においては、大切な呪や文言について原語の音を
漢字に当てはめる音写を試みています、
訳者によって少し違いが出てきますし、完全な音ではないこともある。
つまり、宗派によっては、漢訳は内容の意味と同時に韻律がどうなのかが
重要になるわけです。
そのため、漢訳よりサンスクリットを多用する場合も多く有る、
従って、毎年の多くの者が、ネパールやチベットにも修行に出かけ、
これを学ぶ訳です。

しかし、こういった仏教史や仏教学に関することなんぞは、
いちいちここで書かなくても、そこいらの本を読めば、解説注釈入りで、
すべてちゃんと書いてあります。
ネットで調べても大抵のことは出て来ます。
引用の中には私の師も知人の名も出ておりました、引用は結構ですが、
こういったことを続けても果てがなく、
化他行とも思えないし、なんの利も無いと思えます。

「これだけ知ってるぞ。」
と知識をひけらかしても、行するものから言えば、たかが知れている。
それはつまり、自分の「行」を通じて会得した言葉ではないからです。

真言系で読むべき文献のリストだけでも、一冊の分厚い本が出来ます。
そのひとつの文献の中から引用することは、その対となる引用もしなければ、
片手落ちになることでしょう。

ましてや、仏教語の語彙を論えるとなると、到底ここの掲示板で
語りきれるものではないでしょう。
古来から今現代に至っても、仏教論は出尽くしては居ないのです。

自分ひとりで学問する仏教も大切ですが、師を見つけて師事する事が最良と言えます。
その上で、
「自分が行する過程で生ずる疑念について、
 文献を学し、良き師に問うて学ぶ」
修行とはそうあるべきで、師もまたその修行段階によって、変わってゆくものです。

私のような誰とも知れぬ、修験者が口を挟むべきでないことは
重々承知しておりますが、修験には宗旨は関係なく、
全ての仏教宗派、神道、祈祷師、霊能師、あらゆる階級の方々まで
「行」ざれます。
お山と信者の間に介在し、自分だけでなく、
他を思う気持ちを担って責任を持って真摯な気持ちで行じている。

師を探し、許可をもらうことに数年かかることもあります。
「行」は行じないと判らないことが多くあります。
文献ではどうにも理解できないことが、多く隠されています。
特に修験では、師事しないと得られないことが沢山あります。
九字とか真言とか護摩加持などは、本でも真似て学べますが、
師事して授かることでのみ、初めて効力を発するのです。
お山はそれを知っています。

どうか、仏教学や仏教史などに囚われずに、
それはそれとして発掘調査で折々変化する知識程度にとどめ、
そんなことは「出家僧と学者」に任せておいて、
「行」する中から湧き上がる疑問を「学」し、師に問うて己を高め、
生活に根ざし仏道を行ずる「在家信徒」としての立場を失わないで
頂きたいと節に思う次第です。
そういう思いから、今回の論争には、少し悲しくなるものがありました。

勝手な感想を一方的に書いて、了と致しますが、
他意は全くございません。
皆様の今後のご活躍を祈念致しておりますし、
今後とも密かに覗かせて頂きます。(了)

118 615期生 :2006/06/13(火) 14:08:31
合掌(^人^)

119 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/13(火) 17:20:57
合掌

  空様、ペガサス先輩、1改さん。

 ありがとうございました。この度も大いに勉強させて戴きました。
空さま、他宗の方にしか出来ない見方、またはご教示をありがとうございました。
ペガサスさんが拳法の高手である事は直接学んで知っておりましたが、教義や仏教も
極めて深く修行なさっていた事を知り頭が下がりました。

1改さんは…相変わらずでしたね。(笑
でも、おかげで盛り上がりました。

>漢訳においては、大切な呪や文言について原語の音を
>漢字に当てはめる音写を試みています、

「呪」(しゅ、もしくはじゅ。のろいじゃないですよ)を唱える時の正しい発音と言う事ですね。
例えば下記の様な事ですか。

"Gate,gate,paragate, parasamgate Bodhi Svaha!"
(ガテ ガテ パラガテ パラサムガテ ボディサヴァハ)

を漢語音写して

「掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝、菩提僧莎訶」

これなどは中国語で発音すると非常に良い線行っています。
しかしこの漢語音写を日本語読みすると…

「ぎゃーてい ぎゃーてい はらぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼぢそわか」

となり、邦訳すると…

「往きけり、往きけり、かの岸へ往きけり、すばらしき悟りの彼岸へ往きけり」

と、なります。でも翻訳してしまったら…と言うことですね。

>宗派によっては、漢訳は内容の意味と同時に韻律がどうなのかが
>重要になるわけです。

特にマントラを重視する御宗や真言宗はそうであると聞きました。
高野に遊んだ時も、真言を韻律を正しく唱えるのは並大抵の事ではないと思いました。

>「これだけ知ってるぞ。」
>と知識をひけらかしても、行するものから言えば、たかが知れている。

当宗の開祖も常々「知ってる事と出来る事は大違いなのだぞ!」と弟子達を戒めていました。

>自分ひとりで学問する仏教も大切ですが、師を見つけて師事する事が最良と言えます。

ありがとうございます。肝に銘じます。
また機会あればご教授戴きますようお願いいたします。

再拝 結手

120 1改 :2006/06/14(水) 02:17:03
>>117
>そういう思いから、今回の論争には、少し悲しくなるものがありました。

穴があったら入りたい・・・気分です・・

121 :2006/06/14(水) 10:42:43
またお邪魔致します。
少し、言い過ぎ、出すぎたようで申し訳ありません。
Shyami様やペガサス様は、やはり「行」を通じて得た「智徳」が、
刺さるように伝わって来ます。それで私も学ぶ心構えになることが出来ます。

1改様の知識欲は、只ならぬものがあります。
大変に良いことで、嬉しい事ですが、「行」を通しての気配は感じられないことと、
ご自分の「行」で生じた問いになっておられない、それが残念でした。

Shyami様やペガサス様を「魂」とすれば、
1改様は「魄」でありましょうか。共に学ぶというお気持ちよりも、
自分を理解してくれない周囲への恨みの気配を多く発しておられるように
察知致しました。

厳しい言い方ですが、仏教も中途半端に学ぶと「魔」が憑きます。
これを仏法の妨げ「邪魔」といっています。
行中に行者に憑くこともあります、餓鬼や霊も憑きます。
行中に加持祈祷して祓うこともあります。
今後は是非、正師について学ばれることをお勧めいたします。
きっと良き仏弟子になられることと思います。

気持ちを伝える「言葉」は「心の葉」と書きます、
字の通りで、言葉だけでは、決して根幹である心根を伝えられるものではなく、
末梢のさらに先で揺れ動く危うい存在に始終します。
葉は、時に移ろい、感動も与えるけれども、虫も食い、
枯れて散るものでも有ることを忘れてはなりません。
これをコントロールするのは「行」によって得た「知徳」でしょう。
合わせ具われば、「言葉」は生き生きとして、伝わるものです。

Shyami様の書かれた「般若心経」は全文たった三百字足らず。
ここには、過日論争されていた大乗仏教の教義が全て書き込まれ、
原始仏教への批判もちゃんと書いてあります。
覚えて読むだけでも良いけれど、本来は正師について、
経を「授かる」ことが大切なのです。

ここには「呪」も書き込まれています。
Shyami様のような方に師事されて、韻律も原典から学ばれる方が良いですが、
漢訳でも「呪」はほぼ似ていますからよいでしょう。
私は、色々な真言などの和訳については、安寧は得られるが、
効力はあまり無いと思っています。

韻律などですが、インド仏教も捨てた中国仏教独特な漢訳の仏典では、
細かい無声音などを当てはめる作業が出来なかったため、
これを学んだ僧が漢字の意味に囚われた結果、後年様々な異論異説を生んだのです。
その点、日本のかな文字は、原典の発音や韻律が、かなり上手く、
細かく表現できるため、サンスクリット(俗語パーリ語)に近く
学ぶことが出来た訳です。その点からも、やはり師事した方が良いのです。

何度もすみませんでした。
補足と若干のご質問への返信と致しておきます。
今後もみなさんと一生勉強です。
ごきげんよう!(了)

122 1改 :2006/06/16(金) 01:28:21
空様:
私に対するコメントを下さったのに昨日は所用にてレスをつけることができませんでした。
お返事が遅れてしまい申し訳ございません。
叱咤のお言葉ありがたく頂戴させていただきます。
自分では作為的に作り上げているつもりでおりましたが、火のないところに煙は立たず、私の本性をズバリ言い当てられたような気もいたします。

お恥ずかしい話ですが、私はこれでも学問を生業とする者の端くれです。
自然科学研究を専門としておりますので仏教学等は門外漢も良いところなのですが、突き詰めようとする性根はどこにいっても変えようが無いようです。
私の住む世界では、議論というものは極めてありふれております。
特に研究に関する議論は目上目下の関係ないシビアなものです。
科学研究上のおはなしなど単純に正解が求まってすぐにすっきり解決しそうなものなのですが、実際には多くの要素が複雑に絡み合うことも多く、議論の勝敗は自分の肩入れする要素がより重要であることを示すことのできた者に軍配が上がることが多々あります。

あまりにも雑駁に過ぎて恐縮ですが、これが私の背景です。
掲示板におけるコメントにも根拠をできうる限り提出しようとリンクも貼りますし、言葉尻を捉える悪癖も身につけております。
なによりも、理に適わぬ方向に話が流れていくことは好きではない性分のようです。
「2ちゃんねる」ではこれで充分に通用しておりましたので、この性向に拍車がかかったのかもしれません。煽りは論外ですが・・・その節は大変に失礼を致しました。平にお許し下さいm(_ _)m

もしよろしければ少々質問などさせて頂けませんでしょうか。
了などと仰らずに是非ぜひお願いいたします。

既に私にとって、仏教も金剛禅も摩訶不思議な宗教ではありません。
(金剛禅には初めから不思議な要素はほとんどありませんが)
あるいは深く「邪魔」に犯されている状態なのかも知れませんが、私はこれを魔とは認識しておりません。
行中に憑くという餓鬼も魔も、過酷な環境における禅病のような特殊な心身の様態であるものと推察いたします。
果たして、このようなものに仏弟子が務まるものでしょうか?

123 MASA :2006/06/16(金) 02:28:28
>了などと仰らずに是非ぜひお願いいたします。

今回はこれで了にして下さい。外野からのお願いです。

124 ペガサス :2006/06/16(金) 06:02:59
私もMASAさんに同意です。
今の1改さんには空さんが説明した所で無意味な事となるでしょう。
あなたにはまだ空さんの言わんとする所がわかてないようですね。

先に空さんが教示された法句経の漢文にしてもあなたは確かにそれに近い邦訳を引っ張り出してきましたが
問題はそんな事ではなかったのです。
言葉の訳などわかっても仕方ないのです。
そこの言葉の真の意味。いえ、ここに提示された事の意味する所がわからなければ。
ではそれは何か。それはあなたが自分で考える事です。
人に答えを聞いた所で真の解決には至らないでしょう。
知識で知る事と心で知る事とは違うのです。
どう違うのか。それを知る為に人は行ずるのです。

知識でいくら解答を出した所で心の悩みや、妬み、欲や妄執と言う物は取り払う事ができません。
それは人間が生きて感情を持っているからです。行とはそう言う部分の修行なのです。
それを取り払ってようやく見えてくるものがある。
あなたならそれは何ですが。具体的に例を示して説明してくださいと言うかもしれませんね。
例も説明もありません。それは個々に自分の心の中にのみ見えるものです。
これがわからなければ千回万回質問を繰り返してもあなたは何も満足出来る答えを得る事は出来ないでしょう。

そう言えば昔、私が龍固をしていた時、どうも上手くいかなず、
そこに通りかかった御先生に何処か間違ってますかと聞いた事があるのです。
すると先生は私のやってる事をちらっと見て、何も言わずに行ってしまわれました。
「おいおい、それはないだろう」と言う所です。

さてあなたならどうしますか?
この先生の態度があなたが122番でしていた答えです。
そのあなたの問いには私も多分空さんも何も言わずにその場を去るでしょう。
もう答えは空さんが十分過ぎるほどだしてくれています。
あとはあなたが本当にそれを知識ではなく心で気がつくかどうかだけです。

不以多言故
彼為持法者
彼雖聞少分
但由身見法
於法不放逸
是名持法者

125 ペガサス :2006/06/16(金) 06:46:59
付け足すならば、その時の御先生の私に対する態度の意味する所と
その結果がわかった時私は先生に感謝せずにはいられませんでした。

126 1改 :2006/06/16(金) 09:10:45
MASAさん、ペガサスさん:
私のレスで不快にしてしまって申し訳ありません。
先回の質問は、ただ空様に関わっていたかった私の気持ちの表れです。
議論を仕掛けているわけではありません。
真に迷い、ご教示を仰いでいる次第です。
きっと、もっとも適切な形で私に回答を下さると確信しております。
もし、レスを返していただけないとしたら、それはそれで私に対するメッセージです。
どうか私にも、龍固の質問のような機会をお許し願えませんでしょうか。

127 名無しさん◆いらっしゃい :2006/06/16(金) 11:20:26
「金剛禅なんて本読めば理解できる」なんて言ってた方がいたのを思い出しました。
単なる知識だけでなく心で気が付く、か。
今の少林寺でどれだけの人が心で気づいているんでしょうか・・・。

128 :2006/06/16(金) 13:39:33
>1改さん、ペガサスさんやShyamiがすべて授けて下さっています。
 同門の教えに気づくことです。

「空を知らぬか、あっかんベー!お山で会おう」これで終いだ。

129 615期生 :2006/06/16(金) 13:56:29
空様、ありがとうございました。

以前、開祖が教範を書くに当たってあまり仏教用語を使わないようにしたと
聞いたことがありましたが、何となくわかって気がしました。
また「師匠の無い仏教は滅びる」というのもだいぶわかった、、、気がします。

130 1改 :2006/06/17(土) 00:08:48
空様:
ご返答感謝いたします。
この様な私ですが、私なりに精進してみます。
我が儘にお付き合い下さりありがとうございましたm(_ _)m

ペガサス先生を初め丸廉の多くの方々をやきもきさせてしまいました。
お騒がせして申し訳ありません。
スレを読み返して、教えてくださった多くのことをこれから確認していきます。

>615期生さん
私の出現で一番不快な思いをさせてしまったのはあなたかもしれません。
煽りの中でも私は醒めているつもりでしたので、少なくとも意識的にはコケにしてやろうなどと悪意を持ったことは一度もありませんでした。
どうぞ2ちゃんねらーのよしみでお許し下さい。
しかし、やはり私は2ちゃんに向いていないようです。
例の、私のスレにはもう戻らないつもりです。
あの板は一年くらいほっておいても落ちないくらいまったりしています。
もしよろしければ、(必要ないでしょうけれど)ご自由にお使い下さい。

それでは、今度こそ私は消えます。
お騒がせな1改キャラもネットから消えます。
(Syamiさん、お世話になりました。北禅スレは私にとっての金字塔です!)
みなさま、長い間ありがとうございました。

131 ペガサス :2006/06/17(土) 01:42:46
おやおや、1改さんをいじめてしまいましたかね。(^^;)
では最後に一つだけ、御先生の解答を言っておきます。
結局私は解答をもらえなかったと言う事が解答だったのです。

つまりこの程度までくれば放っておいてもいずれ気がつくだろうと思われたので解答してくださらなかったのです。
ある意味で自力を試されたと言ってもいいでしょう。
全くわかってなければ間違った方法に進まない為にもそれなりの解答はされたでしょう。
つまり法は人を見て説くものと言う事です。

頑張ってください。1改さん。

132 615期生 :2006/06/17(土) 23:11:22
>1改さん
>私の出現で一番不快な思いをさせてしまったのはあなたかもしれません。
いえ、一時はムムム(゚∈゚*)ともしてましたが(お恥ずかしい限り…)、全く問題ないですよ。
ここはこれでいいんです。

いや私としては、このスレの真の>>1さん(リーさん)が心労してたらと心配ですw

sage

133 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/18(日) 10:07:07
> Syamiさん、お世話になりました。北禅スレは私にとっての金字塔です!

どういたしまして。
「北禅スレ」は私にとってもちょっとした実験的なスレッドでした。
言ってしまえば1改さんの知識欲に乗って私も知識の収集したのです。
ここは「自他共楽」の一環と言う事で勘弁してください。

あなたは大分恐縮なさっているようですが、こちらの方々の殆どは懐が大きく
気持ちにも余裕がある方が多いと思っています。
むしろROMなさっている方々の方がはらはらしていたかも?(笑
今回はあなたの参入のおかげでお話が盛り上がりました。
#132で615期生君が言うように「ここはこれで良かったのです。」

空様は他宗の御方ですが、金剛禅と私達の活動に興味を持ってくださり
色々と御知識や御教示を戴いています。
(観ていなかったら「 丸廉法器研究班」のスレッドをご覧になると良いです。)
またこちらのスレッドで気の効いた話題が始まれば御光臨くださるでしょう。

では、法縁満ちた時にまたお出でください。

sage …るの?

134 Syami@Office ◆k1UMP198M. :2006/06/18(日) 10:07:43
ありゃ?sagaらなかった?

135 rusher :2006/06/29(木) 12:56:58
この話の出典、どなたかご存知ですか?

禅僧Aと禅僧Bが旅をしている時に、とある川にさしかかった。
橋がないので、向こう岸に渡るには膝上ほどの深さがある水の中を歩いて行く必要がある。
ふと見ると、うら若き女性が川岸で立往生している(服を汚したくない。しかし、裾をからげるのはみっともない)。
そこで禅僧Aはその女性を背負ってやり、川を渡った。
禅僧達は旅を続けたが、やがて禅僧Bは「僧侶であるにも関わらず女性に触れた」ことについて、禅僧Aを責めはじめた。
しばらくそれを黙って聞いたあと、禅僧Aは言った。

「その女性なら、わたしは川辺に残してきたんだが。きみはいまだに背負ったままなのかね?」

136 名無しさん◆いらっしゃい :2006/06/29(木) 13:50:14
前に、ひろさちや氏の著作の中で読んだ記憶があるけど、出典はどこなんでしょう?
なんかいろんなバージョンもあるみたいだけど・・(ウナギの匂いとか)

137 アップル :2006/06/29(木) 14:04:40
http://members.jcom.home.ne.jp/rahiri/newpage33.htm

似た話が、、出展はどこだろう。

138 615期生 :2006/06/29(木) 16:53:14
>>135
その話、おぼれた女性の話で読んだ事があります。

キーワードは、「主人公」「本来の面目(?)」「無位の真人」このあたりで
間違いないと思います。

139 615期生 :2006/06/29(木) 16:59:44
Amazon.co.jp:禅的生活ちくま新書: 本
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480061452/qid=1151567849/sr=1-6/ref=sr_1_10_6/249-8277064-3728365
たぶんこの本で読んだので、立ち読みすれば見つかるかもしれません。
ただし、ここでは僧A,Bではなく、師弟の関係でかかれていました。

ちなみにこの本、ここ数日(家で)探しているのに見つからない…
広い家じゃないのにorz

140 615期生 :2006/06/29(木) 17:02:41
うーむ、そうだ、この本では「絶対的一者」だったかもしれない…

141 これはどうですか? :2006/08/08(火) 22:36:34
290 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/08/08(火) 18:19:09 ID:vjARQh320
>>282
生き甲斐なんてのは執着の最たるものだよ。
今が大切なんて教えも禅にはない。

291 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/08/08(火) 18:22:24 ID:g34FUiJ90
>>290
>今が大切なんて教えも禅にはない。
究極的にはそうだが、今を大切にするというのは基本事項だ

142 615期生 :2006/08/09(水) 14:55:51
アップルさん、どう思う?

143 615期生 :2006/08/09(水) 18:46:54
シーン

144 mogela :2006/08/09(水) 20:57:54
教えとしては日々是好日が一番しっくり来るような気がしますね。
代表的な公案なんで深くは突っ込みませんが私だったらこれでお返します。

145 これどういう意味? :2006/08/09(水) 21:13:10

324 :名無しさん@一本勝ち :2006/08/09(水) 16:54:33 ID:Z8R2DfUj0
うちら禅を名乗っちゃいるが、あんたんとことは別モンだからかまわんでくれ。

武道@2ch掲示板
*武道・武芸板は実際に武道・格闘技を学ぶ人が主体となる板です

 ↑ ↑ ↑
「教義を突っ込まれても答えられません、もう勘弁してください」
ってことでFA?

146 アップル :2006/08/09(水) 22:42:54
どういうこと?話の前後がわかんないお

147 615期生 :2006/08/09(水) 22:53:54
>武道@2ch掲示板
>*武道・武芸板は実際に武道・格闘技を学ぶ人が主体となる板です
を貼った理由は知らないけど、

>「教義を突っ込まれても答えられません、もう勘弁してください」ってことでFA?
という解釈もまったく意味が分りませんが。


>144
シクシク
アップル君は最近オリをスルーするんだぁ(´Д⊂グスン

まぁいいとして、ありがとうございます。私は、

>今が大切なんて教えも禅にはない。
の意味が分りません。むしろ逆だと思います。

148 アップル :2006/08/09(水) 23:15:23
あ。まったく気づいてませんでした。
あれ?ぜんぶレスはメールでとんでくるはずなんだが。。

>アップルさん、どう思う?

>>今を大切にするというのは基本事項だ

これに同意ですね。
生きるってことは今を大切にするってことですよ。
日常の中にこそいかされるべき教えの方が私は好みですね。

149 mogela :2006/08/09(水) 23:52:21
>>147
私もそう思います。
ただ、数多い公案の中にはそれに反するものも存在すると思いますのでそのような
ものを引用して否定されることはあると思います。公案集などにはそれらのやりと
りが記されていますが本来このような問いは修行者と師僧の中で行われるもので単
純に解が得られるものでは無いと思っています。
有名なところでは狗子仏性があります。これについては「無」とされているものが
多いのですが「有」と応える場合もあります。これらは相手の先入観や求めている
ものを読み相手に合わせて応える典型として、禅の思想を語る際に取り上げられる
ことが多い公案です。そういう意味では行を経た上で導き出されたものであれば日
常に喜びを感じることも執着を感じる事もどちらも正しいと思います。
ただ、行を経ない形で文献等の引用で導き出したとしたらそれは違うと思いますね。
だからこそ師と面授面受で教えを受けることが大事なのではないでしょうか。
このあたりは開祖も何度も説いていましたし私達拳士も心しておくことだと思って
います。

150 615期生 :2006/08/10(木) 11:50:36
>行を経ない形で文献等の引用で導き出したとしたらそれは違うと思いますね。
そうなんです、そこなんです。

禅てのは比較的個人の信仰には寛大なほうですから、結局本人、そして師匠の
影響が大きく、どうも文献だけで語られるとどうしようもありません。

やっぱり最低限、会って話さないとつらいですね。

151 615期生 :2006/08/10(木) 13:55:30
世界一小さい新聞 - nikkansports.com : 義務を超えた「善の味」
http://blog.nikkansports.com/general/yoshida/2006/08/post_126.html

こういう話は私も聞いたことあるな。
ごみが落ちていて、何も考えずに拾う人と
「拾うべきかな?」と考えてから拾う人には差があるみたいな。

なんだたったかな、拳法でも突が来たとき受けを考えて出すのと
体が反応するのとは違う、みたいな話と絡められていた気がするw

152 アップル :2006/08/10(木) 14:08:51
>無我の実践

って何?

>ごみが落ちていて、何も考えずに拾う人と

何も考えずにというのは、拾うか拾わないかの判断はせずに、
デフォルトで「ゴミは拾って捨てる」と決まってる人って意味かな?

153 615期生 :2006/08/10(木) 14:39:57
無我の実践というか、たぶんだけど、

「無我で」実践

てことだと思う。自分は委員長だから、シンジ君を誘うんじゃなくて
シンジ君があまりにも暗いから、自然と声をかけてしまった、みたいなかんじか?

154 アップル :2006/08/10(木) 14:52:46
えっと、もしかしてエヴァ?(シンジから予想)
オリ読んでないからあんまりわかんないよぅ。

155 コイツなんとかならないの? :2006/08/13(日) 14:38:19

350 :名無しさん@一本勝ち :2006/08/13(日) 11:09:29 ID:61e2w0NG0
>>343
だから禅でもなんでもない金剛禅とやらが、
いかさま仏教を語っているからこうなったんでしょう?
禅の話がスレちがいだというなら、
少林寺拳法が「自分たちのやっているのは金剛禅で宗門の行です」というのをひっこめてください。

>>345>>346
あなたは拳士でもなければ>>336でもないんだから、
人へのレスにくちばしをつっこまないでください。
一番ここにふさわしくない人間はあなたですよ。

↑ ↑ ↑
にわか禅師がスレ荒し?!
少林寺拳法の教えが間違っているから変えろと喚き、2ちゃんで大騒ぎ
これが禅の修行の賜物ってことでFA?

156 名無しさん◆いらっしゃい :2006/08/13(日) 17:14:01
そういえば、前に少林寺拳法は「愛」を肯定的に使っているから仏教ではない。
って主張している奴がいたな〜。開祖は仏教を知らないってHPまで作って繰り返し
書き込んでたけど。

157 615期生 :2006/08/15(火) 19:31:11
>これが禅の修行の賜物ってことでFA?
勘弁してください。

>開祖は仏教を知らないってHPまで作って繰り返し書き込んでたけど。
そんなサイトがあったのか…
仏教を勉強すればするほど、私は開祖がなんて坊主くさい法話していたんだと
実感しまくりなのに。ただし、仏教の言葉はあまり使ってないからそこんとこ
わかんないのかも。

158 277期生 :2006/08/20(日) 02:04:14
初めまして、皆さんの金剛禅に対する真剣な仏教論議に感服して拝見しました。
私は、35年間少林寺拳法を修行し、23年間の道院長を退いた者です。
登録商標としての卍マークについて、本部のポリシーのない行動に同感できなく、
組織を去りました。
しかし、今でも開祖宗 道臣師家の教えを守りながら生きているつもりです。
真剣な仏教論議に感心しながら、このような真剣な方々が本部の指導員として
導いてくれていたならば、組織が維持出来るものと感じました。
他の2チャンネルの投稿も見てまいりましたが、批判のための批判が繰り広げられていて
とても寂しく思います。
私は、孫3人の爺ですが気力だけは負けないつもりで今も武術としての少林寺拳法を修行中です。
私は、組織としての本部から離れても、なお理屈でない世界、少林寺(開祖の継承者としての)の拳士
自覚をもって、社会に貢献しているつもりでいます。
少林寺拳法(開祖宗道臣の興した)を信じて修行中の皆さんの益々のご発展を
祈念・応援するものです。頑張ってください!!

159 ペガサス :2006/08/20(日) 05:11:14
はじめまして、277期生さん
野に下って金剛禅の真義を実践なさっておられる由、心強い限りです。
私も20年の支部長の座を退き、今は一介の拳士として修行をさせていただいております。
私の場合は移転に伴う個人的な諸事情により後進に道場を譲りました。

ただ私も少林寺拳法が大好きな馬鹿ですので、修行の道はいつまでもと思っております。
組織に属するだけが師の教えを引き継ぐ事ではないと思います。
大事な事は入れ物や形式ではなくその心をいかに継承するかだと思います。
組織内にいても腐った者は出てきます。またはその組織と言う防波堤に守られて
自らを真に物心両面に渡って鍛えようとしない者もいます。

我々は最終的には一人一人が開祖の代理として第一線でこの金剛禅を幸福運動を広め推進する事。
組織はそれをバックアップしてくれるもの。
それが組織が大きくなる事によって自らの意思と努力が後退し組織の力で何かをやろうとする傾向が強いようです。

確かに一人では何も出来ない。だけど5人が10人に、10人が100人に、1000人にと集まれば
大きな事も出来るとは開祖のお言葉ですが、それは一人一人の自らの意思が結集する事が前提であって
組織にお膳立てしてもらって上からの指示だからと言って歯車のように動く事ではないはずです。
ただし一旦自分達の意思決定が出来れば統率は必要なものとなってくるでしょう。
しかしそこに至る各自の心の団結、一致がこれまで組織を引っ張り大きくしてきたように思います。
それが今は逆転してしまったように思うのは私だけでしょうか。

ともかく大事な事は真に心で教えを継承し、生涯学習としての道を実践する事だと思います。
それぞれお互いの立場は変わっても同じ教えの道を歩む者同士、これからもご指導のほどよろしくお願いいたします。

160 277期生 :2006/08/20(日) 05:29:58
ペガサスさん、全く仰るとおりです。
開祖の生き様にあこがれて入門し、今までの自分の人生の指針を頂き現在の自分が
ありますので、おかしな方向へ進もうとしている組織を離れる事に悔いはありません。
道院長としての23年間も決して無駄では無かったと思います。

全国にペガサスさんのような同士がいて、開祖の教えが脈々と受け継がれている事に
喜びと安心を感じました。

今後とも一修行者として、また社会的にも役立てる人間として頑張りたいと思います。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
本当にありがとうございました。                     
                                    合掌

161 アップル :2006/08/20(日) 14:04:13
277期生さん、
大先輩ですね。組織を去られたというのは悲しいですが、それでも修行を続けられているのは嬉しい話しです。
この掲示板ではいろんな拳士が集まり、楽しんでいます。
昔話でもかまいませんから気になったことやまた、現状として知りたいことなどどんなことでもいいので今後も書き込みお願いします。

162 277期生 :2006/08/20(日) 19:19:37
アップルさん、ありがとうございます。
拳士、全国どこでも合掌ひとつで熱く語れるって良いですよね。
単なる仲良しクラブでなく、強さを求めながら理想郷建設という
開祖の思想を理解しようと集まる仲間を頼もしく感じます。

以前、ビスキューさんですか、一度お話したことがあります。
とても前向きなショウリンジャーで頼もしく思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

163 615期生 :2006/08/21(月) 01:33:38
277期生さん、書き込みありがとうございます。
私はいまとってもうれしい!!! w
というのも、277期生さんの最初の書き込みの最後に、

>理屈でない世界

という言葉を用いられています。どうも今私にとって旬でして、
「ぉぉぉぉこの人きっとすげーーーーー」と一人外出先で興奮してしまいました。(こんな文章ですいません)

アップルさんも書かれていますが、ぜひ今後もぜひ書き込みをお願いします。
ありがとうございました。 合掌(^人^)

164 名無しさん◆いらっしゃい :2006/08/21(月) 02:18:42
山に籠もり、禅を組み、書を読む修行によってさとりを開いても、
現実の矛盾に苦しむ経験がないと単なる生悟りである。

そんなオナニーのような修行よりも、現実世界で矛盾と戦いながら
修行する。これが金剛禅だと思います。

165 ビスキュイ :2006/08/21(月) 07:54:09
>277期生さん
おはようございます。ようこそいらっしゃいませ〜♪ちょっと失念してしまっていて
申し訳ございませんが、以前お話させていただいておりましたか。こちらの掲示板で
しょうか、それとも直接ですか?いずれにしまして少林寺拳法の大先輩においでいた
だいたのはありがたい限りでございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

166 まんじ丸 :2006/08/21(月) 12:04:03
>277期性さん
私の師匠も一度辞めたことがありました。
元山門衆だったのですが、開祖が亡くなった後の本部の在り方に激怒し
道衣を燃やしてしまったとのこと・・・。
その頃のお山の同輩も、ヨガの世界に移った方がいたとか・・・。
その時に皆が、口にした言葉が
「拳法は『拳』を取っても、『法』は残る。チャンチャンバラバラやるのが
拳士ではない。教えを守り、実践するものこそ拳士だ。教えを胸に生きていく!」
だったとか・・・。
277期生さんは、本当の拳士なのだと思います。
これからも、時々覗いて指導して下さい。

167 615期生 :2006/08/21(月) 13:58:59
>「拳法は『拳』を取っても、『法』は残る。
なるほろ・・・拳法とは妙な言葉ですね

168 さつまんじ :2006/08/21(月) 23:01:40
>「拳法は『拳』を取っても、『法』は残る。
いいことばですね。勉強になった!

169 ビスキュイ :2006/08/21(月) 23:23:03
>元山門衆だったのですが、開祖が亡くなった後の本部の在り方に激怒し
>道衣を燃やしてしまったとのこと・・・。

お師匠様相手にやたらと「ハゲとる」とか「茹でタコ」とかを連発してる
まんじ丸さんもいつか燃やされるのだろうか…

170 まんじ丸 :2006/08/22(火) 08:23:28
>>169
きゃ〜!!!
思いっきり、バラすなぁ。。。

仕方ないから、ハクジョーしますよ。
ワシは「先生の手はタコのようですね!頭もですが・・・。」とは言うた。
キレイに吸い付いて、逃げ切れないんだもん!
それでいて、柔らかいの!!!
他には、飲み会でステキな法話を聞かせてくれたら、
「先生、後光が指して見えます・・・。」とかかな。

あぁ、燃やされるんかなぁ。。。
でも、燃やしてもらったら脂が減るかな?

171 615期生 :2006/08/23(水) 02:07:44
まん丸さんもいずれは、言われるでしょう。



ワシは「まん丸の腹はビスさんのようですね!お尻もですが・・・。」とは言うた。
キレイに吸い付いて、逃げ切れないんだもん!それでいて、柔らかいの!!! ←アブナイ

他には、飲み会でステキな法話を聞かせてくれたら、
「まん丸さん、暗器を刺してみます・・・。」とかかな。

172 615期生 :2006/10/16(月) 17:11:37
特別展『仏像 一木にこめられた祈り』/レッツエンジョイ東京
http://www.enjoytokyo.jp/OD004Detail.html?EVENT_ID=48886

に行こうとおもっていたら、こんなニュースまで。
 今、仏像が熱い!! とかく高齢者の趣味と思われがちだった仏像だが、ここ数年では
30−40歳代を中心に愛好者が急増。さらに、その下の若い世代にも“仏像フリーク”
が…。この秋、東京国立博物館で特別展が開かれているほか、滋賀県の寺では55年ぶり
となる秘仏のご開帳など参拝ツアーが人気を読んでいる。まさにブレーク間近なのだ。

 今月3日から東京・上野の東京国立博物館で開催中の特別展「仏像〜一木(いちぼく)
にこめられた祈り」をのぞいた。
 「前売り券の段階で相当売れ、週末には1日約6000人以上も訪れています。うれしい
ですね」と同館スタッフは、喜びを隠せない。
 ジミなタイトルの特別展だが、国宝や重要文化財などレアものの仏像146体が一堂
に会す。特に会期後半(11月7日−)にお目見えする滋賀・向源寺の国宝「十一面観音
菩薩像」は“寺外初公開”の秘仏だ。
 館内では、音声ガイドとして「まんが日本昔ばなし」で知られる女優、市原悦子さん
のナレーションを起用したことも話題を呼んでいる。

 仏像フリーク必携の書といわれる『見仏記』シリーズ(角川書店)の著者、みうら
じゅん氏といとうせいこう氏のトークショー(7日)では、「380枚用意したチケット
は、発売後13分で完売してしまった」(同館)というから上野のお隣、アキバの
アイドル並みの人気だ。
 会場には中年層のマニアはもちろん、20−30代も多く、女性の姿も目立つ。
「約1200年以上も経っているのに、こんなにキレイなんて」「衣のヒダヒダ
とかもまるで本物のよう」など、ため息が漏れていた。

 仏像を求めて小旅行に出る人も急増中だ。
 特に今秋に人気を集めているのが、滋賀県・琵琶湖の東側にある「湖東三山」
といわれる、西明寺、金剛輪寺、百済寺の3つのお寺。
 これらの寺では、ご本尊の仏像公開(ご開帳)が住職一代に一度だけと決められ
ているが、天台宗が始まり1200年を記念して9月18日から一斉公開されている。
 公開は百済寺が55年ぶり、西明寺は50年ぶりなど、「これを逃すと二度と見れないかもしれない、
まさに一生に一度」と西明寺の中野英勝住職。
 この「秘仏の中の秘仏」を参拝するツアーも盛況。東京から湖東三山を日帰りで回るツアーを企画した
JR東海ツアーズは、「毎回定員に達するほど大変好評。公開は今月27日までなので、“駆け込み”
参加がさらに増えそうだ」と話している。

 こうしたブームの背景には、何があるのか。東京国立博物館名誉館員で『仏像のひみつ』(朝日出版社)
の著書がある山本勉・清泉女子大教授が語る。
 「仏像というと、これまで抽象的な話や文字で読んでからといった難しいものと思われていた。それが
理屈抜きで、実際に自分の目で見て、好き嫌いを感じてもいいんだ、という認識が広がったことで、一般
の人も受け入れやすくなったのではないか」

 格差社会や親族間での殺人事件、激務からくるうつ病…。仏像と静かに対面する機会が今こそ求められ
ているのかもしれない。(以上)
■ソース(夕刊フジ)
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_10/t2006101609.html

173 おなかすいた :2006/10/18(水) 19:09:18
名古屋では、東海地方の天台宗寺院の秘仏大公開もあるよ。
名古屋市博物館
比叡山と東海の至宝 10/21〜12/3
http://www.museum.city.nagoya.jp/

174 615期生 :2006/10/18(水) 19:46:37
ありがとうございます!!

しかし遠いorz

175 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/01/10(水) 13:28:47
先日、とあるニュース番組でバドミントンをあつかって増したが
そこのクラブ(小学校・中学校くらい)では、先生がトスを上げて
子供が返す、あいている子供は隣で筋トレ、て感じでしとるらしい。

報道によると、筋トレは先生が指示していることではなく、
子供が自発的にやっとるとのこと。「勝つためにはどうすればよいか」
と自分で考えてやてるとのこと。

勝つという明確な目標が発心を生み、努力を生み、
結果を生んで自信を養うみたいな流れの報道でした。


なんて健全なんだろう。。。

176 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/01/10(水) 13:29:22
かくとこまちがえたorz

177 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/01/26(金) 00:09:17
メモ

20世紀少年の神様のボーリングの話おもしろい。
プルートーの「完璧な人工知能とは間違いを犯すもののこと」てのおもしろい


sage

178 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/08/19(日) 20:31:16
Yahoo!オークション
http://page15.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t43936379

独鈷をヒンポツとしてつかっとる・・・
こういう使い方が正しい? あるんだろうか。
おもろい

179 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/08/19(日) 21:31:32
あ、払子か。

180 Stuart Henson :2007/09/04(火) 11:27:52
quipster microtheos cosmological baggager mediatory daggerbush formylate uvulae
<a href= http://www.freewebs.com/oixoch/1.html >This</a>
http://www.freewebs.com/oixoch/2.html

仏教と金剛禪

181 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/09/11(火) 23:04:05
1 名前:セクシービーフφ ★[sage] 投稿日:2007/09/11(火) 22:31:28 ID:???0
★ヒトゲノム計画をリードした著名生物学者は有神論者

 ヒトゲノム計画を率いてきた、米国立ヒトゲノム研究所所長Francis Collins博士は神の存在を信じており、
進化は確かに起こったがその引き金を引いたのは神だとする立場に立っている。
根本主義者と無神論者が対立する米国社会において、同博士の立場は物議を呼んでいる。

 Francis Collins博士の、科学者としての信用は揺るぎのないものだ。
 政府の公的プロジェクトであるヒトゲノム計画を率いて民間企業と競争。
米国立ヒトゲノム研究所(NHGRI)の所長として、数々の病気の原因となる遺伝子の特定に寄与している人物で、
偉大な遺伝学者として歴史に名を残すのは間違いない。

 そのCollins博士が神を信じてもいるというのは、宗教的信仰と科学とが相反するものではないことの
証明になるだろう。
 Collins博士はこの広範な主張を、そしてより具体的には、進化は確かに起こったがその引き金を引いたのは
神だとする主張を、2006年夏に出版した著書『The Language of God』(神の言葉)の中で展開している。
 『Nature』誌は論説(有料)の中で、Collins博士の神学的主張は、信者でない人々を説得できるものでは
ないだろうとしながらも、ここで重要なのは、相手を転向させられるかどうかではないと指摘している。
 肝心なのは同博士が、信者と無神論者を分かつ溝を、科学的に信用できる、称賛に値する姿勢で
越えていることだ、と同誌は論じる。
 その一方で、『The End of Faith』(信仰の終焉)という著書のあるジャーナリストSam Harris氏のように、
Collins博士の著書と『Nature』誌の反応に脅威を感じている人々もいる。
 Harris氏がウェブマガジン『Truthdig』に掲載した書評は、Collins博士の主張がなぜ懐疑論者を
説得できないのかを完璧に示す例となっている。
 だがもう1つこの書評が明確に示しているのは、一部の無神論者が、根本主義[聖書の記述を
文字通りの真実と考えようとする立場]の人々とそっくりな傾向を備えているということだ。
どちらも、自分のやり方を誰もが信じるべきだと主張する。(以下略)

WIRED NEWS(抜粋) http://wiredvision.jp/news/200709/2007091121.html

▽関連リンク
●米国立ヒトゲノム研究所 http://www.genome.gov/



5 名前:セクシービーフφ ★[sage] 投稿日:2007/09/11(火) 22:33:25 ID:???0

 記録のために、ここにCollins博士の発言を引用しておこう。

===============================================
私はたまたま神が実在すると信じるに至りました。
そうでなければ、あなたとこんな議論はしていないでしょう。
それでも基本的に私は、議論に勝ちたいがために、議論をねじ曲げるような人々には反対しています。
思うに、議論をねじ曲げるような姿勢は、宗教的なものの見方から来ています。
実際に進化を示す証拠が揺るぎなく存在するというのに、宗教的な根本主義者たちは
机を叩いて進化を邪悪だと叫び立ててるのです。
===============================================

神か科学かに議論が二極化されていることを嘆じつつ、Collins博士はさらにこう続ける。

===============================================
ほとんどの人は、どちらかに分けるような極端な生き方はしません。
ほとんどの人は中間のどこかにいて、これらの世界観の調和の可能性を模索しています。
私はそれをすでに見つけており、それが知性と精神をよく満たしてくれると感じています。
だから、この可能性について耳にすることがほとんどないことを残念に思います。
特に若い人たちが、科学か信仰か一方を選ばねばならないと教えられているのを目にしたりすると悲しく思います。
私の考えでは、どちらの1つを選んでも、片方だけでは人生の豊かさを失うことになるのです。
===============================================

さて、読者の皆さんがCollins博士の宗教観に賛同できないのであれば、それはそれで構わない。
筆者も個人的には賛同していない。

だが、博士は明らかに、神を信じていると同時に優れた科学者だ。
そのことは認めざるを得ないのではないだろうか。

182 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/09/11(火) 23:04:41
おもしろいのでホッシュを兼ねてこぴぺ

sage

183 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/09/11(火) 23:11:26
10 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2007/09/11(火) 22:36:23 ID:TxiyeX9+0
 科学者って神を信じている人多いよ。
 キリストとかそういう宗教的な神様を信じているわけではないけどね。

184 名無しさん◆いらっしゃい :2007/09/12(水) 00:14:34
神様はいない。でも神は在る。
少林寺的に言うと、ダーマさんはいない。でもダーマは存在します。

185 138B :2007/09/12(水) 07:14:08
>宗教的信仰と科学とが相反するものではないことの証明になるだろう。

なんで証明になるの?博士が神の存在を信じているという事実だけじゃない?

186 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/09/12(水) 13:31:04
それは本当だ!!

証明と云うのはまずいですね。たしかに・・・

187 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/10/21(日) 23:27:50
お寺を若い世代の癒やしの場にしようと、斬新な取り組みが盛んになってきた。
日帰りの座禅や写経体験講座の参加者は増え続け、お寺に併設したカフェが人気だ。
12月には築地本願寺(東京都中央区)で、複数の宗派の僧侶が集まり、
僧衣のファッションショーも開催される。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)東京別院である築地本願寺で12月15日に
行われるのは、日蓮宗をはじめとした各宗派の共同企画
「TOKYO BOUZ COLLECTION(東京ボーズコレクション)」。
宗派の垣根を越えた初の試みとなる。
僧衣たちが、それぞれの宗派の僧衣を身にまとってファッションショーを繰り広げる。
袈裟や法衣は、宗派によって色や形、模様は多種多様。それらが一堂に会する。
また、ダンスとラップを組み合わせた法話会、1、2時間ほどで座禅、写経、写仏を行う
“プチ修行体験”、永六輔さんらの講話なども開催する予定。浄土真宗には
“修行”という概念がないため、日蓮宗の僧侶が取り仕切るが、築地本願寺で
修行が行われるのも、従来では考えられないことだそうだ。
無料で参加でき、「文化祭のようなノリで行う」(主催する東京ボーズ
コレクション実行委員会)という。

*+*+ 産経ニュース 2007/10/21[12:15] +*+*
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/071021/sty0710211215001-n1.htm





これはいったいwww

190 みんみん :2007/12/21(金) 10:43:55
仏教で遊んじゃおう、というのは健全でいいかもね。
少林寺拳法はその走りだとw

191 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/12/23(日) 13:31:35
15日にこういうニュースがありましたよ。



 仏教の新たな形を模索するイベント「東京ボーズコレクション」が15日、
東京都中央区の築地本願寺で開かれた。

 天台宗、真言宗、浄土宗など8宗派の僧侶有志による企画。お経とラップの
共演など数々のプログラムが用意されたが、中でも異彩を放ったのが本堂に
特設舞台を設けたファッションショーのような法要だ。
 尼僧を含む36人の僧侶が、赤、緑、黄と色とりどりの衣やけさをまとい、
各宗派の声明(しょうみょう)を披露。観客が囲む細長い通路をゆっくりと
歩き、最後はパイプオルガンの伴奏で合唱しながら、ハスの花びらをかた
どった紙をまく「散華(さんげ)」を行って、世界平和を祈願した。
 おごそかさに華やかさが加わった雰囲気に、本堂を埋め尽くした観客は
大いに沸いた。

■ソース(iza)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/109952
※写真
http://www.iza.ne.jp/images/news/20071215/52125_c450.jpg
■東京ボーズコレクション
http://www.engi.jp/tbc/top.html
※ポスター
http://www.engi.jp/tbc/image/tbc-big.jpg

192 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2007/12/23(日) 13:32:33
>仏教で遊んじゃおう、というのは健全でいいかもね。
まったくですね。

193 アーナンダ :2008/04/11(金) 11:03:58
ダライラマ14世こそ仏典が 末法の世に現れ人類を救うと預言
された弥勒菩薩に間違いありません ダライラマ14世こそ仏典
が末法の世に現れ人類を救うと預言したあの弥勒菩薩なのです

194 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/04/11(金) 19:51:17
チベット問題は大変興味深い。
毎日報道を見るのが欠かせません。

まま本来始末なしです。
とはいえ、教範にも「この世は末法」みたいな記述があったような。
なんだったんだろうかあれは。

195 626期生拳士 :2008/04/25(金) 08:09:45
鎮魂行を行っていて、ふと気になることがありました。
曹洞宗や臨済宗などではみんな、「目をつぶると雑念が起こるので、
半眼で行う」というのですが、少林寺拳法ではどうして瞑目して
行うのか…。何気なく気になりました。

196 名無しさん◆いらっしゃい :2008/04/25(金) 10:31:19
金剛禅の瞑目は坐禅では無いからかも。

197 名無しさん◆いらっしゃい :2008/04/25(金) 10:35:18
>目をつぶると雑念が起こる

これはなぜかな。

198 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/04/25(金) 19:02:06
これは以前にも似た話題がありましたね。
どんな終結をしたんだっけかいなw

少林寺拳法は何故瞑目なのでしょうね。
私は半眼でやってますがw

たしかに瞑目(の時間)=座禅とはいえないですね。

古い先生に聞いたことありますが、曰く
「わしも何故かとかおやっさんに聞いたが、よくわからんかった」みたいなこと言ってました。

199 626期生拳士 :2008/04/25(金) 19:35:45
私も道院では瞑目してますけど、日常では半眼ですw
雑念は半眼・瞑目にかかわらず起こるのですが、これは凡夫だから
でしょうねw

200 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/04/25(金) 21:52:11
まま金剛禅はまだまだ未完成ですからw(たぶん)

201 名無しさん◆いらっしゃい :2008/04/25(金) 22:33:24
半眼の場合、意識は前方に持っていきます。
瞑目の場合は、意識を背面に持っていきます。
武道としての性格を考えた場合、背面の気の動きを
察する訓練が必要なため目を瞑ります。
また、半眼で意識を集中するのには
時間をかけた訓練が必要ですが、
瞑目ならば誰でもすぐ集中することが出来ます。
禅行への導入を考えた場合
瞑目からのほうが入りやすい為です

202 626期生拳士 :2008/04/26(土) 07:04:42
なるほど! 半眼と瞑目にはこういう深い意味があったんですね。
気の動きを察知するというのは、全く今まで頭にありませんでした。

203 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/04/26(土) 15:04:08
なるほど!!

204 名無しさん◆いらっしゃい :2008/04/26(土) 23:45:22
210です
ついでに言いますと、昔の道院では今とは比べものにならないくらい
長時間瞑目を時々していました。
長い時間瞑目をしていると息の動きや外界の音の
聞こえ方等々でいろいろと発見が出来てきますヨ。
自分自身も空気と一体になるような感覚を覚えたりしてきます。

205 626期生拳士 :2008/04/26(土) 23:53:23
鎮魂行、大会前とかになると、どうしてもおろそかになりがちです。
本当は拳禅一如とうたわれているように、両方とも大事なんですが…。
座禅なら、20分くらい組んでいたことがありますが、瞑目はまだ
未体験ですので、今度やってみます^^

206 626期生拳士 :2008/04/30(水) 23:35:34
そういえば、大会のときの鎮魂行で、かすかなBGMが流れるんですけど
あれはちょっとやめてほしいって思います。なんかカルトっぽくて…。

207 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/05/01(木) 21:23:53
うちは流れてないですよ・・・

208 626期生拳士 :2008/05/01(木) 22:48:51
ふうむ、うちの県だけですかね…。
ま、来月の大会でどうなってるか確かめますかな。

209 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/05/02(金) 20:29:07
まぁどんな音楽かにもよると思いますがw

210 626期生拳士 :2008/05/02(金) 21:44:58
確か前回大会の時は、ヨーガとかで流れてそうな曲でした。

211 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/05/02(金) 21:51:40
ディープフォレストとか流れてると怪しいです。

音楽は好きですがw

212 626期生拳士 :2008/05/02(金) 21:54:38
ううむ、確かにこれは引きますわ〜w

213 626期生拳士 :2008/06/22(日) 23:23:33
今日、県大会行ってきました。
やっぱりヨーガとかで流れそうな「ヒーリング」?系の曲が流れましたよ。

214 アップル :2008/06/23(月) 05:18:21
うちの県では流れてませんね。

215 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/06/25(水) 07:27:05
鎮魂とかの時間にですか?

216 626期生拳士 :2008/06/25(水) 20:54:09
そうです、県大会の開会式の時に鎮魂をやるんですが、そのときに
流れていました。

217 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2008/06/27(金) 21:20:42
まぁ普通はしずかーにやるのがいいんでしょうね。

音楽というかCDなら、昔ヨガのときにかかっていた鐘がキーンとなってるだけの
音ならなんとなく合いそうな気がしますがー

いろんな演出があるもんですね。
まぁ演出するてーのは、あんまり好きではないですが、鎮魂のときなど。

218 626期生拳士 :2008/06/27(金) 23:24:21
まあ、会場は小さな子供とかも来ていますし、雑踏とかで本当の沈黙が
保たれないから、それを打ち消す為なのかもしれないですね。
私も鎮魂の時は、一切の人為を加えない方がいいと思います。

219 新参者 ◆0Bm5POpR0U :2010/10/22(金) 19:20:48
ちょっと趣旨と違う話題だけど、開祖が満州で学んだという義和門拳の兄弟拳法
の名前がわかったのでお知らせします。
かつて梅花拳から、義和門拳が独自の解釈によって生まれ、後に離脱したといわれています。
実はこの梅花拳と義和門拳のミッシングリンクとなる拳が大聖拳(Wensheng Kung)と呼ばれる事が解りました.
1:14から注目
↓   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=GoERMXVhLlc&amp;feature=player_embedded#!

http://www.youtube.com/watch?v=SXHEk1P8gQk&amp;feature=related

これでやっと柔法は義和門拳から生まれた事が明らかとなりました。

220 新参者 ◆0Bm5POpR0U :2010/10/22(金) 19:22:36
×大聖拳
○文聖拳

221 興味 :2010/12/17(金) 00:41:24
金剛禅における坐禅が瞑想なのは、聖句をダンマパダからとったように上座部の影響ではないでしょうか?

222 興味 :2010/12/17(金) 00:52:20
でも、鎮魂行の打棒は曹洞宗の鈴木正三の不動仁王禅にもにている。開祖は元来は仏教は臨済宗から学んでいるんですが中国仏教の影響もあるね。

229 名無しさん◆いらっしゃい :2011/08/31(水) 17:36:27
中華拳法の派生は20年くらい前の漫画で
「拳児」に詳しく書いてあったね
中華少林寺の秘技が体当りってのは本当なのかな

230 名無しさん◆いらっしゃい :2011/08/31(水) 19:20:02
雰囲気はともかくあれは漫画だぞ

拳児-wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%B3%E5%85%90
>本作において八極拳は、主人公が主として学ぶ武術ということもあり、非常にダイナミックに描写されている。そのため、劇中の八極拳には漫画的な誇張が多く、実際の八極拳の姿とは大きくかけ離れた部分も少なくない。

231 流浪の煩悩人 :2012/01/17(火) 04:34:34
仏教では恋愛やらはイカン!みたいなかんじであると思います。
法句経を読む限りも、愛別離苦のようなかんじで書かれております。

金剛禅ではどうなんでしょうか。
在家のための自己確立と地上天国実現の為の教えと行動であるから、そこまであれやこれやと云うのもあれだとは思うのですが・・・。
金剛禅の目的は小乗仏教の経典の追究にあらずして、上記のような感じであるからそんなこと考えんと修行せいっ!というのが正道なのでしょうか?
法句経を読むのは教範の周辺領域の研究目的・・・。

でもしかしBUT、どうも腑に落ちないのです。
皆さんどう思われますか。

232 アップル :2012/01/17(火) 08:27:55
面白い内容だとおもいますが、
流浪の煩悩人さんが聞きたいことが少しわかりにくいので、まとめてくれませんか?

いか、印象からの個人感想です。
仏教の戒律でいけば昔は女犯といって女性に対する恋愛感情を抑えなさいみたいなルールがありましたが、
今はないですよね。

そもそも、仏法ではあらゆるものを否定しないし。中道いうてるし。

金剛禅ではどうか。
開祖も家族あるし、
教典では、夫婦相和し、とありますからね。
少なくとも否定されるものではないと思いますよ。

233 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2012/01/17(火) 12:01:03
私も腑に落ちない、釈尊が童貞ではないことに。

冗談はさておき仏法というか、特に日本仏教では色恋事は実に揉めやすい話題ですよね。
最終的には、仏教がどうこうとか金剛禅がどうこうというよりは、私はどうするてことになります、
極論ですけども。もちろん門信徒として守るべきものはありましょうが。

いろんな佛教がありますけど、禅宗的な思考パターンでいくと(施行とか言ったら怒られそうですが)
>そんなこと考えんと修行せいっ!
というよりは、避けず突入して、考えぬいて下さい、ではないですかね。
小乗仏典の研究も大いにありだと思います。研究の要を感じた機縁があったわけですから。

世に戒律ムと言われるものはたくさんありますが、佛法で言う戒律、とくに個人向けの戒は
「してはいけない」ではなく「しないほうが良い」くらいのニュアンスだったように思います。
余談ですが、モーゼの十戒も「汝、アレやることなかれ」みたいな書き方で
民衆ではなく「汝」という個人向け、「するな」ではなく「なかれ」てのがおもしろいですね。
他人はどうあれあなたはやめといたほうがいい、位ののりが不思議です。

していけない、とするとこれまた面倒です。
禅に神仏なしといいながら何故に師(黄檗)は仏像に手を合わせるのか、と弟子が質問したら
「うっさい、ぼけ、わしはそんな事考えてる暇はないんじゃ」と殴っとい話があります。
なるほど、「何かはいけない」と言うものは多い。仏教的に言えば、それは煩悩から離れるため
解放されんがためであります。こだわりを取ること、握っているものを離すことです。
しかし気を付けなければいけないのは、「離れなければならない」ということにこだわってしまうのも
これは握っているこどではないでしょうか。神仏に礼拝してはいけない、というのも握っていることではないでしょうか。
ほどけばほとけ、とはうまくいったものです。黄檗はただ手を合わせたかったから合わせただけではないでしょうか。
そこに「いけない」などいうことをかんがえる暇、余地などなく自身の心に素直に従ったのではないですか。

弟子の道には2つあると思います。師に言われたことを守る道です。これが概ね上座部です。
「舎利子チン、アレヤy無いほうが、いいんでない?」そう言われたから舎利子は辞めたとします。
しかしべの人にも同じ事を言うかはわかりません。釈尊はあくまで、その人に対してその状況で
言ったからです。ですから、異なる対象、異なる状況なら釈尊はどういっただろうか、言葉の一字一句ではなく
その真意を割れに当てはめて考える道、それが概ね大乗です。だって釈尊に会ったこと無いんだもん。
場合によっては、釈尊の言われたこととおなじくらい釈尊が辿られた道を重視しているように思います。

開祖だって人に拠って同じ逆小手をかけたわけではないでしょう。いろんな逆小手があったでしょう
開祖の逆小手はこうだったというても、素はあなたにかけた逆小手であったはずです。
それをどの程度一般化かして良いか、それには一考の余地があります。そして人によって
いや、開祖の逆小手はこうだったと、微妙に違うことを言い合うようなことが人の世ではよく起きます。
これが「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」というやつです。どちらの逆小手も真であったのに
他方を捨てて一方を取る、真を「そのままに」受け入れず、好きなもの都合の良いものだけを取る。

私は開祖にお会いしたことはない。かなうならお会いしてみたかったです。
ちなみに釈尊にもお会いした事無いです。かなうなら(ry
今となっては、どういう意味で言ったんだろうと妄想するしかありませんね。そしてそれは自分で掴み取っていくしかありません
方を拠り所にはしますが、時と場合によっては佛さえきってしまうのが佛法だからたまんない。

234 流浪の煩悩人 :2012/01/17(火) 17:21:03
>>231
アップルさん。私が聞きたいのは、
「金剛禅や仏教では恋愛をどうとらえて、どうあるべきと方向つけるか」ということです。
・・・う〜ん。夫婦相和し!の時点で結婚してますよね。
恋愛は何もないとこと結婚の間の曖昧な期間ですよね。
夫婦というならお互い幸せにやったら良いのですが、恋愛となると・・・。
何より結婚した後より執着が起こったりするように思います。
さて、どう実践すべきか・・・といった感じです。

>>233
615期生さん。
その時その時で思案すべし!というのは大いに共感します。
戒のニュアンスのとりかたも理解に難くないです。五戒は金剛禅の読本や少林寺拳法教範に載っていますけれども開祖を含めて完全には守っていませんからね。
お酒があるからこそ語り合える?というのもありますしねw。
してはならん、してはならんと執着するのはいけませんもんねm(__)m。

よく金剛禅の教典だけで腑に落ちないときは他の宗教書をあたります。
法句経やチベット仏教、しまいには他の宗教や国学の本も当たっています。
本部が公式見解をださないことが金剛禅のある意味での良さなのかもしれませんね。
人間十人十色、みんなちがってみんないい。
人間的な教えとして金剛禅はできたわけですからね。
目指す到達点はしっかりと示されているし、教義や語録もある。
後は拳士、拳士のとらえ方、生き方ですね。

・・・ただ開祖の語録をまとめたHPが閉鎖されたことは非常につらいです。

金剛禅が他の考え方を見る中で非常にうまく開祖はまとめられたな。というのが感想です。
スレ違いですが、少林寺拳法の全体像を見ると、それこそ綿密に教範も技術も作戦も練り上げられているように思います。

235 615期生 ◆1WOpAbkgRc :2012/01/17(火) 18:38:42
もともと佛教の宗派なんてのは学派みたいなもんで兼学が基本のように思います。
南都六宗だって行き来されてたし、道元だってはじめから禅宗を学んだわけではありません。
開祖だって別にどこかで「少林寺拳法」や「金剛禅」を学んだわけではありませんしねー。

本部の立ち位置はわたしもいいと思います。
しかし金剛禅について語ることの出来る人が少ないのはまずいと思っています。育ってない。

最近会報や武専講義で頻繁に内修外修が取り上げられるようになりってますが、
あれは本部がようやく制定したという事ではないかなと思っています。これまでの教範以上の内容が
突然顕れました。これで良いと思います。

金剛禅はまだ未完な宗派です。本部もそれはわかっているから整備をして行っているのだと思います。
日本曹洞宗ですら、道元一代では完成されず、おおよそ四代目で100年近くかかって現代の体系になったと言われます。
そうして700年続く法を保ってきたわけですから、開祖一代開創60年で改正したと考える人がいるなら
それは開祖が人を残すことが出来なかったということにほかならないでしょう。
開祖すげーと思うことはありますが、たとえ開祖が傑出していたと仮定しても、(他所様の話が出ててるので敢えてこう書きます)
現段階の金剛禅が完成していると考えるべきではないように思います。

これは拳技も同様でたとえ「少林寺拳法がすごい体系」であったとしても、後進はそれをさらに高い価値のものにするべく
研鑽が必要ですし、まちがっても「神聖にして侵すべからず」となってはいけないと思います。

ですから、金剛禅以外の仏典を当たることは至極当然の話であり、自信をもっと行われるべきだと思います。
拳技も同様です。開祖は実によい全体像を構築してくれたので後はそれを詰めていかいなと勿体無いなぁと日々思います。


開祖法話は多少はアーカイブしてますので、もしメールでもいただけたらお分けしますよ〜

236 ビスキュイ :2012/01/17(火) 21:18:52
宗論であれ拳技であれ、伝承が「劣化コピーの連続」になってはマズイですよね(´ω`)

237 アップル :2012/01/17(火) 23:41:19
>恋愛は何もないとこと結婚の間の曖昧な期間ですよね。
結婚してからも恋愛は可能。夫婦になっても恋愛しててもよいと思いますよ。
いやでも恋はするだろうし。それを受け入れられるかどうかではないでしょうかね。
金剛禅は生き抜くことを大前提にしていますから。
仏法を実践するのに、学に走るのはつまらん生き方だなーと思う訳です。

で、本題にもどって金剛禅は恋愛をどう考えるか。
流浪の煩悩人さんの定義として、
「結婚するまでの恋」片思い、両思い含む
としてもっかい考えてみます。
面白いですね。考えても見なかったなぁ。

恋に限らずですが、
教範では人の苦悩を「過剰な期待と結果とのギャップ」によって生じるガッカリ感からくるものだと仏陀は因縁という言葉でおしえてるんだ。
と(いうような内容を)書いてありますよね。
そこから教範では祈祷やお呪いなど神様に体する一方的な願いなんておこがましいんだぜ!という話になるのですが、

好きかもしれない症候群はとまりませんからね。

んー、文献や思想からは答えが出ない気がしてきました。

後輩が恋したとして、先輩である私が、
拳士としてアドバイスするなら。

全力でイケ!道場休んででも!というでしょうな。

238 名無しさん◆いらっしゃい :2012/03/21(水) 01:55:47
>>233
615期生 さん

本論から離れますが、気になったので

>余談ですが、モーゼの十戒も「汝、アレやることなかれ」みたいな書き方で
>民衆ではなく「汝」という個人向け、「するな」ではなく「なかれ」てのがおもしろいですね。
>他人はどうあれあなたはやめといたほうがいい、位ののりが不思議です。


「なかれ」は文語の形容詞「なし」の命令形ですので、この文はもっと厳格な表現では?

参.
この箇所は他の版では、
・日本語聖書の最新訳の新共同訳……〜ならない
ex.殺してはならない。 , 姦淫してはならない。

・英訳聖書(欽定訳聖書から一貫として)……shall not (文:shalt not)
ex. You shall not murder. , You shall not commit adultery.
 ※shall not は、法律や契約で、禁止に使われる表現

239 名無しさん◆いらっしゃい :2012/03/21(水) 04:35:30
ああ、ちなみに、
>民衆ではなく「汝」という個人向け
は、単に、転用語法による強調表現ですね
ttp://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%BB%A2%E7%94%A8%E8%AA%9E%E6%B3%95

240 615期生 :2012/03/21(水) 12:54:27
これいは明快なお話ですね。
勉強不足で恥ずかしい、ありがとうございます。

243 222 :2013/04/01(月) 20:58:47
鎮魂行の打棒は臨済宗で現在も行われているそうでした、不勉強でした

臨済宗でも儀式の時は六尺棒で床を打つようです。

244 615期生 :2013/04/03(水) 14:08:56
それは知りませんでした。
京都別院周辺ことを考えると、臨済宗の影響が濃いのかもしれませんね。

248 名無しさん◆いらっしゃい :2013/10/09(水) 12:57:06
>>36
だって法律家は現実を見ていないもの。
裁判官は週刊誌すら読まないし。
週刊誌にはまだジャーナリズムが生きているのに。

249 cheap michael kors handbags :2014/06/16(月) 07:56:26
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250 名無しさん :2014/08/01(金) 23:12:47
金剛禅は格義仏教でしょうか?
無我論ではなく魂魄を肯定するように思いますが・・・

251 615期生 :2014/08/02(土) 07:09:53
格義仏教という言葉を知らなかったのでお相手するのは恐縮ですが、wikiを読みますと・・・
老荘思想の用語と影響を受けまくってるか否か?てことでしょうか。
インドの仏教とは違うのではないかというお話ですか?


魂魄は教範で定義されてますもんね。あの魂魄論自体世間的に見てどれくらい一般性のあるものなんでセう。

252 250 :2014/08/10(日) 20:50:57
返事遅くなりました、少林寺拳法の魂魄という概念は道教における霊肉二元論
とどのように違うのでしょうか?仏教は無我論を展開しますがこれとは矛盾しませんか?

253 250 :2014/08/10(日) 20:55:27
魂魄とは死後、天に昇る魂と地に眠る魄をなす霊肉二元論の道家の思想ですので、無我を唱える仏家の思想ではないのでは?

近代中国禅が日本で言う習合仏教のように道教と合わさってるのでしょうか?

254 615期生 :2014/08/11(月) 12:04:02
実に楽しいお話です。私も知らないことがあるのでよい勉強のきっかけになります。
おいおい調べていきたいと思いますけど、とりあえずネットで検索で検索!! カチッとかるくやってますが。

インドを出た時点で、Chinaにしろ日本にしろ必ず土着の信仰と混ざっているのは避けられないのではないですか。
密教のようにヒンズー等インドでさらに影響を受けたものもあるわけですし、これは人々の努力といいますか
真摯な行功てなもんではないですかね。

釈尊にしろイエスにしろ、そのスタイルはおおよそ対機説法であり、形式的なトークを好まなかったようですから、
もともと仏説には幅があるものだと思います。ChinaにはChinaのの風土があり、日本には日本の風土があり、
またインドもまた大きな大陸で各地気功にも差がありましたから、たとえば「雨季は定住な、寺て呼ぶわ」とされても
では雨季が激しくない地域もそれを行うべきだろうか、という疑問は当時からあったはずです。

そういういみでは、
インドの仏教とは違うかもしれない、いやたぶん、というか絶対違うだろうが、これも仏教。てなもんかとおもいます。

世には原始仏教とかその手の言葉はありますが、むしろ仏法が遍くものを備えていればこそ、他の信仰とも通じcomplexできるのであって私はむしろ素晴らしいことだと思います。
人々の敬虔な息吹すら感じます(たまには)。

開祖がChinaでどのような道教に触れたのでしょうね。おそらく大陸でも道教は地域や家庭単位でも、かなり幅があるのではないですが。
開祖がとのような人と触れてどのような影響を受けたのか今ではわからないところですが、魂魄という概念はやはり大陸の生活で培われて、金剛禅に入れとこう!!と思ったのは間違いない個でしょう。

しかし教範の魂魄の解説によると、天地のことは書かれていませんし脳との関連において東洋には以前からそのような概念があった、と結びつけている
程度ではありませんか。特に道教というよりは、魂魄という単語を用いているだけに見えます。
教範にある「天」はダーマのことですから、おおよそ仏法や理という概念に近く、その末端にして全たるダーマを人間は持ってるから、
可能性があるから強く生きようyo!てのが金剛禅の根底です。まあ、誰にも仏性はあるから修行しようぜ愚民どもーーーっ、みたいなもんでしょう。
ですから、道教における魂魄の概念と無我論の比較は、金剛禅とはあまり関係ないように思います。



私は無我論というものを学んだことはないのでよく知りませんが、私の感覚だと、ここでいう無我とは「無い=在る」というニュアンスを含むのではないですか。
諸法無我という言葉もありますが、つまり「無い」とは「隔たりがない」、凡や空のようなものではないでしょうか。

255 250 :2014/08/12(火) 23:36:23
原始仏教というより初期仏教の考え方を金剛禅は踏襲していると、我々も学ばされているつもりです。
聖句からいきなりダンマパダから引用しているのがその意味だと思います。

更に少林寺拳法は身心一如の修養法だとも教えられます、身心一如は読んで字の通り身体と心は不可分であるという一元論でありまして
魂魄思想における二元論を否定する事になります。無我論においても私というモノに魂というモノは無いと考えます。

釈尊はバラモンの有我論における、絶対の有我を否定しておりこれが仏教の真髄であります。
故に我々も教本で仏教のスローガンである三法印を学んでおりますので、魂魄論は余りにも矛盾するように思います。

もちろん自分も法華経の本地説を否定する者ではありません、タイやネパールの上座仏教国といえ地元の聖霊信仰と習合されています。
釈尊に全ての神々も帰依しているので、全ての神々も釈尊の教えを対機説法として説いている、これはまあ、仏教の多様性という素晴らしい思想ですが金剛禅は僧階所有者に正しい釈尊の教えを学ぶように指導しているのに釈迦の本義を否定する二元論を肯定するような思想を教えているのは矛盾しているように思います。

それともう一つ、霊性という金剛禅独自の単語の意味が分かりません。
霊性とは、戦後の鈴木大拙居士の造語もしくはキリスト教の霊性どちらの意味なんでしょうか?
霊性という言葉は辞書で調べても、その二つしかないですし霊って仏教用語でもないですよね?

霊性は鈴木大拙居士の造語であるなら、宗教意識という意味になりますし、キリスト教ならば神がアダムを創るときに自らの身体に似せて土くれからアダムを造ると時に神がアダムのボディーの鼻に吹き込んだ吐息となります。

霊性を魂だとすると、これまた釈尊の否定する有我論となります。

>無我とは「無い=在る」その通りです有るでは無く在る、では何が在るか禅では自己だと言いますが
魂は無い無我だと言いながら自己が在る、矛盾に感じますが我と言う魂(アートマン)では無く 無我なる自己は縁起により仮因縁和合として在る。

そこまで行って始めて釈尊ではないですが
「縁起の理法 歴然として私無し」だと思います。

こういう風に自己を説明してくれたらいいのですが、魂魄だとか霊性だとかを漠然と単語として使い説明も無いというのはおかしいです。

それに最近は、金剛禅は唯識にアプローチしてますね、ほんま本部はちゃんと理解して教学を説明できるんか心配です

256 615期生 :2014/08/13(水) 14:04:34
私もダンマパダを持ってくるあたりに開祖のセンスを感じますwww
通戒偈を落としてしまったのはすごく残念ですけど(´Д⊂グスン

>二元論を肯定するような思想を教えているのは矛盾しているように思います。
ここには同意致します。
しかし私にはまだ金剛禅の魂魄論が二元論を指しているのか、正直わからないままであります。もともと道教の魂魄論の理解もままならないのですが。
私の場合は一元論というよりは、不二観として金剛禅を学んだせいもあり二元あってもまあいいや的な解釈に陥りやすいのかもしれません。


上記の通りもし現在の金剛禅の展開に矛盾があるなら、これからどんどん修正が必要な点ですね。
どうも多くの拳士は、漠然と少林寺拳法は完成されたすげー体系であると信じこむフシがありますが、拳法も哲理もまだまだ未完成であることを
認識すべきであると思います。本部はいちよその辺はわかっていると思うので、ここ最近でもちょっとずつこれまで教範になかったような解釈を
漏らしつつ在るのはそういうことだと、信じています。
完成していると認識されては、だめになる一方ですし、その露呈した解釈はともかくとしてそういう認識が在るのだとわかってやや安心てな感じです。

もっと本山だけではなく在野においてもこのような議論が交わされればよろしいのですが、みんな興味なさそうですしwwww orz


確かに教範では「東洋では〜これを魂魄言うねん」て東洋の一般概念として紹介してますね。金剛禅における個別の魂魄論というより、東洋一般として用いていますね。
あらためて読むと、「第二章 武の意義と武道の本質」の項において「四、人の霊止たる識の認臓」を何故入れてきたのかがねいまいち不明。どうも浮いてませんか。
ダーマの分霊、霊性在るよね、てことでそれを高めてね、て言いたい。てことでいいのでしょうか。

あらためて読むと、魂は新皮質の働き、人間の心でダーマの分霊… え、ダーマて人間にしか分霊無いの Σ(゚д゚lll)ガーン
私のダーマ感ではニャンコも石も犬も杓子もダーマだったのに、勘違いだったようです。

(霊性についてはレスを分けさせていただきます。)

257 615期生 :2014/08/13(水) 14:16:59
分けて書くほど内容もないのですが…

霊性という言葉は一般的ではなかったのですね。日本的霊性は私も以前読みましたが鈴木大拙氏のオリジナル造語だったことは知りませんでした。
開祖もさらーと使ってますが、金剛禅独自の単語だったのですね。

自己という言葉は金剛禅ではとても大切なキーワードですから、確かにより明確な定義付けがあっても良いかもしれませんね。
日本的霊性ではないですが、確かに現在における金剛禅の自己は「宗教的意識」としては低いものかもしれません。
別に低いものがすべて悪いということではないと思いますが、自己に対する解釈はもっとしっかりしてあるべきですね。きっとそれのほうが拳法も生きるはず。


開祖はどこから魂魄という概念を入れようと思い立ったのでしょうね。
さらっと調べると、初版教範にはダーマという言葉は一度しか登場せず、それも鎮魂行の一文としてあるだけで解説はなし。
魂魄という言葉は初版にも第二版にも出てないようです。ということは昭和40年ごろに入っての教範あたりからの登場なんでしょうかね。
すでに大きくなりつつあった少林寺拳法の組織・構成員をみて、どうして魂魄という言葉を入れようと思ったんでしょうね。

258 250 :2014/08/14(木) 12:25:27
>金剛禅の魂魄論が二元論を指しているのか、正直わからないままであります

魂魄論は肉体と魂を分けて考えているからです、教義では仏教は身心一如であります、肉体と心は分けれないと考えます。
死後において、魂と魄が分裂し天に魂が登り地に魄が眠るというのは、まるでプラトン等の言う霊肉二元論ではないでしょうか?

>どうも多くの拳士は、漠然と少林寺拳法は完成されたすげー体系であると信じこむフシがありますが
そうですね、技術においてだけではなく、教義においても教範により完成されたものであると勘違いしていますね。

ダーマ論においても、呼び方からしてダルマ=法を達磨と混同しない為にダーマと呼んでいるなんて言わず、
サンスクリット語のダルマやダンマではなく、広く民衆に広められたパーリ語のダーマと言う語句を利用とすればいいと思います。

ダーマ=法をきちんと説明するのは大変ですが、法については天親菩薩の書かれた阿毘達磨倶舎論とかを本気で読むのもいいかもしれません
まあ、難しいですけど・・・
それと、少し前のあ・うんで横山鉱一氏と瑜伽行唯識学派の事について書かれていましたが、これはいいですね。
如来蔵思想と唯識思想の統合された教えは、達磨禅の根本教義ですからね。
いっその事、般若心経ではなく楞伽経を唱えればいいと思いますwww

259 250 :2014/08/14(木) 16:44:02
>開祖はどこから魂魄という概念を入れようと思い立ったのでしょうね。

全くわかりません、開祖の仏教理解力や儒教の考え、また教範の教学は何処から来たのか?
一切謎ですね、>>222は自分ですが開祖は後藤伊山師の元で臨在禅を学んだのか?

臨在禅が少林寺拳法の教義の基かな?と思っていましたがそうでもないようにも思えます。

秘伝少林寺拳法で後藤伊山師の法弟になるとありますが、出家得度していたのでしょうか?

260 615期生 :2014/08/15(金) 11:55:33
京都別院育ちの人が言うには、
「開祖は後藤伊山老師にもとにあししげく通って学んだ」
「開祖『わしはこれまで禅風に触れたことがなかった』とか言っとったーーー」
てな話は聞いたことがありますが、にその話の状況やらニュアンスはよくわかんないのでなんともですね。

昭和40年手前で力愛不二がようやく導入され、つまるところ行念一致の概念が「明確に」金剛禅にようやく投入されたことで、一応最低限の要素は
揃ったかなと私は思いますが、やはり後藤老師の影響が大きかったのではないでしょうか。

出家得度はどうなでしょう。(会ったことすら無いけど)開祖のキャラからすると山で修行というよりは里で走り回るような感じなので、してないのではないですか。
少林寺拳法は拳も禅もどちらかというと現代人、素人向きの人里や都向きのものであると考えていますし。深山幽谷で修行する道ではないと思います。

開祖的には臨在に学んだというよりは、老師に学んだという感じなのではないですかね。
法形演練はどちらかという公安みたいなものだと思います。
法形は初版教範からすでに大量にあったので、後藤老師とは関係ないですが、相性の良さは感じています。
まぁ現在の法形は、その問答に彼我の関係や術理以上に形式が求められ、とても組手主体になってるとは思えませんが。

開祖が遷化した時、戒名がついて線香にそれが印字されてるみたいな話も聞きましたが、本山の開祖廟の線香は無地でしたし、この話もまゆつばです。

禅宗師家として宗道臣の立ち位置はほぼ無いでしょう。
戦後新宗教禅宗的な本をいくつ見ても、金剛禅が載ってるの見たこと無いですし、会員数は結構いたはずなのにw
本人と高弟は結構まじめに、仏法まなぶ気概を持ってたように思うのですが、その気概は伝わらなかったようですし。

261 250 :2014/08/15(金) 14:03:39
やはり後藤老師の影響が大きかったのでですか
教範にも開祖の次に出てくるのが後藤老師ですもんね。

臨在禅との影響は少ないながらも、後藤老師から色々学んでいるという具合でしょうね。
>本人と高弟は結構まじめに、仏法まなぶ気概を持ってたように思うのですが、その気概は伝わらなかったようですし。

自分の古い先生に聞きましたが、京都別院では非常に座禅をやられたようすね。
今は座禅は、鎮魂行のオマケ程度になりもったいなく思います。

後藤伊山老師は山田無文老師門下で、山田無文老師は臨済宗の花園大学学長でもありました。
また、花園大学少林寺拳法部初代顧問は義弟の原田公臣先生です原田先生は京都別院の法輪寺の別院長代務ですね、義弟を小さな大学の顧問に据えたのには何か意味があったのかもしれません。

今も花園大学拳法部には山田老師が自ら書かれた部の看板があるそうです。


教範にある達磨大師の記述は中国の歴史文献より出展ですが、古い会報では花園大学の柳田聖山氏の説を取りますね、敦煌遺跡により実在としての達磨大師の存在が認められたのがセンセーショナルだったんでしょう。

昨年のあ・うんだったと思いますが新大乗の秋月龍眠師の名前が出ていましたが、この方も山田門下ですね秋月師はは鈴木大拙居士と西田幾多朗氏の研究家でもあります。
金剛禅が秋月師の目指した在家禅にどのように向かうか、教義の補完として唯識に挑戦するのか楽しみであります。

>615期生
楽しいお話ありがとうございました、自分は金剛禅に興味がありまして、また新たな発見や疑問がありましたら質問させてください。でわでわ

262 615期生 :2014/08/15(金) 17:04:57
こちらこそ、大変楽しく、またよい刺激となり勉強になりました。
ありがとうございました。(^人^)

284 坊主拳法 ◆he6/GQW19c :2017/12/07(木) 00:56:51
> 今も花園大学拳法部には山田老師が自ら書かれた部の看板があるそうです。
稽古やってる時は今でも出してます。
部員が少ないので‥‥‥


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