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倉工ファン Part 4

492名無しさん:2021/12/19(日) 11:07:02
☆ 闘将が必要とした 仁村徹の闘志    【越智正典 ネット裏】



明日は中日の遠征チームがドジャータウンにやってくる。
1988年2月15日、陸送トラックがマイナーリーグのクラブハウスの前でエンジンを止めた。

同行の日本通運名古屋の2人の社員が梱包をほどいた。
夏用の野球帽が300、ボール230ダース、麦茶が段ボール30箱、耳かき20本、
耳かきの保険料は4000円。保険金だけでもしめて659万5299円。


キャンプの成果の第一はPL学園から入団した新人立浪和義の2番でショート定着である。
ドジャースがグレープフルーツリーグの日程にドジャース対中日を組んでくれたのは特別であった。

彼らにとってオープン戦は調整試合ではない。もう戦いなのだ。3月3日、中日は猛打に叩きのめされた。
0―14。その試合の6回、立浪はゴンザレスの強烈なゴロにグラブをはじき飛ばされた。

7回、立浪は守備位置をずっと前に決めて、さあー来い!とグラブを叩いていた。ひるまなかった。
声はボーイソプラノ。ホルマンスタジアムに広がっていった。


中日がこの遠征に使ったおカネだけでも莫大である。
前年の87年、傘下のセントピーターズバーグの教育リーグにコーチ高橋三千丈、山崎武司、
荒川哲男を送ったが、3人の委託料、ドジャース職員の付き添い料…など、諸経費も巨額である。 


3人はよく奮闘し、88年遠征の下地となった。殊勲者である。山崎武司はのちに開花し、中日の優勝弾を決める。
これも加藤巳一郎オーナーの慈しみあってこそである。加藤オーナーはときどき二軍の話をしていた。
「監督の岡田英津也さんはええのおー。田舎の村長さんみたいで…」




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