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倉工ファン Part2

223名無しさん:2020/11/21(土) 16:01:01
☆  同上 


当時のカープは投手王国である。 水本は北別府学(63)や大野豊(65)に、時に怒鳴りつけられ、
時に可愛がられながら、主力投手の個性を把握し、気分良く投げてもらうことに腐心した。

「ミットがいい音を立てない」と北別府に叱られると、密かに打撃マシンの球を受けて、
ミットをはめた左手の指の関節が外れるまでキャッチングの練習を重ねた。


そんな水本の熱心さを買った三村は、彼がまだ裏方だったにもかかわらず、コーチ会議に出席させて指導者修行をさせる。
そして、2007年にブルペンコーチ補佐に抜擢され、11年に三軍統括コーチ、13年に二軍バッテリーコーチ、
16年に二軍監督へと昇格。
一軍が2連覇した17年、二軍を26年ぶりの優勝に導くと、ファーム日本選手権でも巨人をくだして球団初の日本一を達成した。

つまり、水本はファームの指導者の最高のお手本であり、表から裏まで知り尽くした生き字引のような存在だったのである。
これほどの人材の流出が、カープにとって痛くないわけがない。


一方で、一軍には心強い人物が参謀として復帰する。
外野守備走塁コーチ兼三塁コーチとして、2016、17年の2連覇に貢献した河田雄祐(52)だ。
18年から今年までコーチを務めたヤクルトを退団し、ヘッドコーチ格で3年ぶりに古巣に戻ることになった。

河田が在籍していた2年間、「逆転のカープ」と呼ばれたように、後半に引っ繰り返すのを勝ちパターンにしていた。
その最大の原動力となったのはもちろんリーグ一の打線だが、それとともに足を使って相手バッテリーを揺さぶり、
プレッシャーを与えていたことを見逃してはならない。


当時、河田はよくこう強調していた。
「僕が選手としてプレーしていた頃のカープのように、とにかく積極的に走る野球を取り戻したい。
何でもかんでもゴー! とは言わないが、ランナー三塁で内野ゴロだったら、少々際どいタイミングでも突っ込ませます。
カープは何をやってくるかわからないと、敵にそう思わせたいですからね」

河田がコーチに就任して25年ぶりに優勝した16年、チーム盗塁数が前年リーグ4位だった80個から、
リーグ1位で唯一の3ケタに乗せる118個へと飛躍的にアップ。 2連覇した17年も112個で2年連続リーグ1位をキープ。
あの2連覇は、河田が積極的な走塁を推進した成果でもあったのだ。


しかし、河田がヤクルトに去ると、チーム盗塁数も18年95個(リーグ1位)、19年81個(同3位)、20年64個(同4位)と
年を追って減少。 19年からは優勝争いに絡めず、2年連続Bクラスと低迷している。

河田は、いまのカープにとって得難いムードメーカーになるだろう。 彼がコーチを務めていたころのカープは、
試合前練習の時間から、若手にゲキを飛ばす声がグラウンドに響き渡っていた。


まだ4番に定着する前の鈴木、控えでくすぶっている野間(27)にノックしながら、「前へ出ろ、前へ!」
「怖がるな、怖がるな!」「後ろに逸らしてもいいから思い切って突っ込め!」と声を嗄らしていたものだ。

16年にはCS直前の決起集会でサザンの『涙のキッス』を熱唱し、鈴木と野間がバックダンサーをやったこともある。
選手と一緒にここまで盛り上がれるコーチはなかなかいない。


河田が戻ってくれば、調子を落としている野間も復活するのではないか。 3連覇中にレギュラーをつかみかけながら、
そこで壁にぶつかり、19年には緒方前監督(51)に行き過ぎた体罰も受けて低迷。
今季は70試合出場に終わり、後輩の台頭もあって尻に火がついている。

しかし、河田は以前から、野間の足の速さと外野の守備力を高く評価していた。 実際、こう話していたこともある。
「守備力だけなら 誠也よりも野間のほうが上ですよ。 足はプロに入ってから速くなったし、守備範囲も広い。
彼をセンターに固定できれば理想的なんですけどね」


佐々岡監督の同期生だった水本二軍監督が去ったあと、河田ヘッドコーチがどのようにカープを建て直していくのか。
地味なようでいて、なかなか興味深い見どころだ。




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