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「客観的事実」とは?
14
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:23:49
>>13
の続き
あと、「合理性を自ら積極的に放棄する人の意識を改革する手立て」につい
てですが、もしそのような手立てがあるのなら、わたしのほうが教えてほしい
です(笑)。
対話がもたらすものについて過度に楽観的な期待をすると、裏切られること
がほとんどでしょう。ポパーのように、「問題をほんのわずか明晰にすること
ですら──自分自身の立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けて
なされたほんの些細な貢献ですら──大きな成功」であり、対話の結果、「わ
れわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、真理に
少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分」だと考えておくのがよ
いとおもいます。
─────────────────────────────────
真剣で批判的な討論というのはいつにあっても困難なものである。…合理
的な、つまり批判的な討論の参加者の多くがとくに困難に感じるのは、本
能が命じているように見えること、(そして、論争的な社会ではどこでも
結果的に教えられること)つまり勝利することを忘れねばならないという
ことである。学ばねばならないことは、論争における勝利にはなんの価値
もなく、他方、問題をほんのわずか明晰にすることですら──自分自身の
立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けてなされたほんの些
細な貢献ですら──大きな成功だということである。ある討論において勝
利を得ても、みずからの精神が変化したり明晰になったりすることがどう
みてもほとんどないのであれば、その討論はまったくの無駄とみなすべき
なのである。まさにこの理由のゆえに、みずからの立場の変更は内密にな
されてはならず、その変更がつねに強調され、その帰結が探求されるべき
なのである。
この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、
われわれはそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗など
を目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものであ
る。われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったと
か、真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのであ
る。
(カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
会訳〕、未來社、1998年、pp. 88-89)
─────────────────────────────────
追伸 わたし自身は参加できないとおもいますが、これまでの議論を掲示板に
転載して、みなさんで議論して頂ければ幸いです。
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