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「客観的事実」とは?
1
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:12:49
わめのブログの記事『客観的事実と信仰 03』で、Libra師匠より”「客観的事実」とは?”のコメントを頂きましたが、わめの要望・Libra師匠の快諾により、スレを建てと転載を致します。
『客観的事実と信仰 03』
http://blog.goo.ne.jp/enjoylife_wame/e/56c0f0d3021ae9ea29fcc31c98a5f751
2
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:13:38
「客観的事実」とは? (Libra)
2005-09-24 18:23:02
少しだけこっちにも参加させて頂きます。よろしくお願いします。
まず、わめさんがいわれている「客観的事実」というのがどういう意味なの
か、教えて頂けないでしょうか。「客観的事実」の具体例を示して頂ければわ
かりやすいのでありがたいです。
3
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:14:17
Libra師匠キター━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━> (わめ)
2005-09-24 19:54:36
> 少しだけこっちにも参加させて頂きます。よろしくお願いします。
こちらこそよろしくです。m(_ _"m)ペコリ
> まず、わめさんがいわれている「客観的事実」というのがどういう意味なの
> か、教えて頂けないでしょうか。「客観的事実」の具体例を示して頂ければわ
> かりやすいのでありがたいです。
具体例ですかw
わめの言う「客観的事実」ってごく当たり前な言葉の使い方なのですが、誰もが認められる事実・常識というのか・・・
具体例としては、地球は24時間で一回りするとか、光は重力で曲がるとか、そういった類のことを指します。
この記事のタイトルのネタ的な今後の使い方としては、信仰する対象の中にも客観的事実があるかもしれない、また客観的事実と思われているものの中にも、そうでないもの(客観的事実じゃない常識とか)が含まれていることもあるかもしれないと思い、今後思索していく中で、そのようなことが書ければいいなと思っているのです。^^
それと掲示板で書いた、このようなことも仏教であっても、客観的事実ではないかと思ったりします。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1109570758/28
・・・でも師匠に突っ込まれると怖いわwドキドキ
4
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:15:07
客観的事実の意味 (Libra)
2005-09-24 21:33:49
挙げられた具体例から推測すると、わめさんが言われる「客観的事実」とい
うのは、《いまのところ反証の試みが底をついており、暫定的に受け容れられ
ている理論》[*1]ということなのかなと思いました。ちがってたらご指摘くだ
さい。
「客観的事実」という表現からは、もう一つ、「真である言明」というよう
な意味も思い浮かびます。「真である言明」(まぎらわしいので、以下、「真
理」と書きます)というのは、「実在と一致(対応)する言明」というような
意味です。ある言明が真であるか否か(実在と一致するか否か)を有限の手続
きで判定することはできません。そういう意味では、われわれは真理を所有す
ることはできません。しかし、われわれは、真理を推測することができます。
推測に含まれる誤りを除去していくことによって、真理に接近することが可能
です[*2]。
[*1] ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
http://freett.com/Libra0000/114.html
[*2] 「仏教の源流から」スレッド 主な発言 その1〜8、付録1〜3
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_001.html
5
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:15:42
師匠、ありがとうございます。 (わめ)
2005-09-25 01:15:00
わめは簡単に客観的事実と書いておりましたが、なるほど言われるとおりです。^^
また、偽と帰結する言明そのものを、すべて偽とするのではなく、偽が含まれる言明との認識はわめに欠ける部分だったようにも思います。
この点は今後慎重に、自身をみてあれば見直していきたいと思います。
んで、突然自己主張に入ることをお許しください。(と言いながら尻切れトンボですw汗)
ただ、わめは、「実在と一致(対応)する言明」が、言明として一人歩きするのが怖いのです。
知的探求心の強い方には当てはまらないのかもしれませんが、人はよく理解不能(ある時点で思考停止?)な言明に出会うと、適当に推測でその言明を判断してしまうようにも思います。
誠しやかな言明ほど、その傾向に陥りやすいように思います。
それは個々の価値観による有限な時間配分の適正化とも言えるのかもしれません。
そのようなことから、また言葉の持つ神秘性・想像力等により、人ぞれぞれ個々の中では、短絡的にその言明を「実在と一致(対応)する言明」から離れ、実在しないことの言明となって、そして実在しないにもかかわらず、その言明は真(実在)であると結論付けてしまうこともあるように思います。
かく言うわめもそうなのかもしれません。汗
そこでわめ流な考え方&すべてに適用は不能なのですが、実在からの観点とはどうなのかを考え、実在そのものをより適確に捉えながら、言葉の持つ神秘性を徹底的に排除し、実在そのものを”ほらっ”て指差し、指差す方向に実在を誰もが適確に捉えることができないのだろうかと思索しています。
もちろん指差すこと自体が言明ではあるわけですが、指差す言明などは実在をただ指すものでしかない、子供の落書き程度にまで徹底的に落としたい(表現が下手w)のです。
子供が鉛筆で太陽を書いた=言明、太陽=実在
と言ったらいいのでしょうか・・・
すいません、もう少し煮詰めないとなに言ってるのか、分かってもらえそうにもありませんね。涙
6
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:16:24
言葉の持つ神秘性? (Libra)
2005-09-25 05:09:00
1.「実在と一致(対応)する言明」(Libra)について
まず、「実在と一致(対応)する言明」ということについて補足説明してお
きたいと思います。
「実在と一致(対応)する言明」が「真である言明」であるという考えは
「対応説」とよばれています。わたしはこの説を支持しています。
ここでいう「実在」というのは、言明が記述しようとしている対象のことで、
いってみれば、わたしたちが住んでいる現実のこの世界のことです。
要するに、《ある言明が現実の世界と対応するとき、その言明は真である》
と考えるのが対応説です(ものすごく素朴な考えかたです)。たとえば、今、
ある言明Aがあるとします。もし、わたしたちが住んでいるこの現実の世界が、
無数にありえる可能世界のうち、たまたま、言明Aに対応するものであったと
きには、言明Aは真となります。逆に、この現実の世界が言明Aに対応するも
のでないときには言明Aは偽となります。このように考えると、この現実の世
界が、無数にありえる可能世界のうちのある特定のただ一つのものである限り、
言明の真偽は客観的にきまるといえます。
しかしながら、「言明の真偽は客観的にきまる」ということと「言明の真偽
を判定しうる」ということは異なります。わたしたちは、ある言明が与えられ
たときに、その言明が真であるか否かを有限の手続きで確かめることはできま
せん。われわれは、われわれが所有するいかなる言明についても、それがたし
かに「実在と一致する言明」であると確認する手段をもっていません。われわ
れは真理を所有することはできないのです。
わたしたちにできるのは、批判的検討の結果、批判に耐えているとして、真
理であるかもしれないものとして、暫定的に言明を受け容れる(あるいはその
逆)という営みです。批判に耐えることのできた命題が当面生き残っていきま
すが、それもまた、新しい批判によって淘汰されていきます。
2.「言葉の持つ神秘性」(わめさん)について
わたしは、「合理性とは、自分の信念を批判的に論じ、ほかの人との批判的
討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができていること」[*1]だと考えて
います。「自分の信念を批判的に論じ」るためには言葉が必要です。
わめさんは「言葉の持つ神秘性」をあやぶまれているようですが、わたしは
正反対の考えを持っています。言葉を軽んじる「体験主義」[*2]の「知的な反
省や議論に対してそれをあまり重んじないという傾向」[*3]がいろんな問題を
ひきおこしているように思います。
[*1] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
http://freett.com/Libra0000/112.html
[*2] 「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
http://freett.com/Libra0000/003.html
[*3] 「自立」を抑制する要素(島薗進)
http://freett.com/Libra0000/043.htm
7
:
<font color=#FF0000>わめ★</font>[TRACKBACK]
:2005/09/26(月) 00:17:08
とりあえず (わめ)
2005-09-25 05:34:25
師匠、こんな時間まで起きてられるのですかw(わめも人のことは言えませんねw汗)
浅はかなわめには、師匠のコメントは噛み締めないとその真意が掴み取れませんので、少し時間を頂いて改めてお返事させてください。
でも起きて、師匠のコメントを読ませて頂いているのに、お返事をしない非礼もしたくなく、一部分だけお返事させていただきます。
> わたしは、「合理性とは、自分の信念を批判的に論じ、ほかの人との批判的
> 討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができていること」[*1]だと考えて
> います。
このことには感動を覚えました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1105189880/r35
> 「自分の信念を批判的に論じ」るためには言葉が必要です。
はい、言葉は必要ですね。^^
ただ批判を受けやすくするため、誰にでも理解しやすい言葉を選び、読み手の時間的制約や集中力を考慮に入れながら、なるべく簡素な言明にしたいなって思っております。
> わめさんは「言葉の持つ神秘性」をあやぶまれているようですが、わたしは
> 正反対の考えを持っています。言葉を軽んじる「体験主義」[*2]の「知的な反
> 省や議論に対してそれをあまり重んじないという傾向」[*3]がいろんな問題を
「体験主義」や「知的な反省や議論に対してそれをあまり重んじないという傾向」と言うものは、わめも嫌悪感があります。
http://blog.goo.ne.jp/enjoylife_wame/e/50a43b7d3c0280b23e0673281b6e4036
ではまた時間を空けさせて貰ってお返事します。
それと、こうして師匠とお話させていただけることは、わめの喜びでもあります。
8
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:17:47
やっぱりこれもとりあえずだ。(・_・、) (わめ)
2005-09-25 14:56:51
Libra師匠のサイトを一年以上も愛読させて頂いているからか、Libra師匠のコメントをある程度理解できるのが自分でもびっくりです。(^^;;
> 「実在と一致(対応)する言明」が「真である言明」であるという考えは
> 「対応説」とよばれています。わたしはこの説を支持しています。
...ψ(。。)メモメモ...
> ここでいう「実在」というのは、言明が記述しようとしている対象のことで、
> いってみれば、わたしたちが住んでいる現実のこの世界のことです。
ある限られた範囲での「実在」ですよね。^^
そしてその「実在と一致(対応)する言明」が「真である言明」=「対応説」なのですね。
またその範囲において「言明の真偽は客観的にきまる」と言えると。
わめの言う客観的事実は、このことかもしれません。
> わたしたちにできるのは、批判的検討の結果、批判に耐えているとして、真
> 理であるかもしれないものとして、暫定的に言明を受け容れる(あるいはその
> 逆)という営みです。批判に耐えることのできた命題が当面生き残っていきま
> すが、それもまた、新しい批判によって淘汰されていきます。
何事も真偽の断定はできないことを大前提に、わめは人にとって、多くの客観的事実を知ることが重要であると主張したいと思います。
(また知るだけでいいとは思っておりませんが、思索中につき言明は控えます。)
> 2.「言葉の持つ神秘性」(わめさん)について
この「言葉の持つ神秘性」なのですが、わめのようなと言えば一般の方に大変失礼なので例えを変えて、Libra師匠のような方は稀で、世間一般の方(そんな方はいませんので仮に)は、現実での生活に埋没して、知的な作業はそれほど重視されていない、または重視しているが時間的制約・個人の優先度等により、知的な作業をついつい疎かにしてしまう方が、大半を占めているように思います。
そのような方達にとって、物事を深く考えず、生活する上で支障をきたさない程度とか、活用できる程度の理解で事足りていると言ったことがあると思います。
そこに、今まで知り得なかった仏教用語や哲学的な用語、また論法を持って語りかけるのは、のっけから自らが理解し得ない言明に思えてしまう。というか、自らと違う人種・違う言語で語られているように感じてしまうと言ったこともあろうかと思います。
ここまでならそれほど問題は感じませんが、ここに”ある意図”を持って、そのような言明を行なおうとする者がいた場合、その言明の真偽を考察するところまで至らず、何かすごい話に接したとか、帰結のみが心に残り、それを真と受け止めるといった方が少なくないと思うのです。
このような言明は”ある意図を持って”の意図が、自らの主張・帰結に他者を従属・指示させよう等の意図を指しますが、これは即時的な結果として”意図”を満たすことができても、主張者・非主張者共、誤謬の発見が遅れ、遅れることが我執・固執を生んでしまうのではないかと、わめの恐れるところです。
言葉足らず・わけわかめは、わめの得意とするところです。涙
また考えがまとまらずと言うこともあります。
でもとりあえずお返事とさせていただきます。m(_ _"m)ペコリ
9
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:18:22
Libra師匠お願い! (わめ)
2005-09-25 15:08:35
師匠の了解がいただけましたら、わめの掲示板に『客観的事実とは?』として、転載&お話の続きを移させていただきたいと思いますが、いかがでしょう?
10
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:20:57
「合理性の放棄」の問題 (Libra)
2005-09-25 18:24:22
1.「客観的事実」(わめさん)の2つの意味
わめさんが言われる「客観的事実」の意味がまたわかんなくなってきちゃっ
たので、もう一度、話を整理したいとおもいます。
これまでの議論からわたしが思い浮かべる「客観的事実」の意味は、いまの
ところ、以下の2つです。
A.批判に耐えているとして、暫定的に受け容れられている言明。
B.客観的に真である言明(実在と対応する言明)。真理。
AとBは異なります。われわれは、Bは所有できませんが、Aは所有できま
す。
AがBであると確かめられることは永遠にありません。いかに批判に耐えて
いようとも《AがBではない可能性》はいつまでも残ります。「われわれの知
識は永遠に可謬的」[*1]なのです。
ちなみに、よくいわれる「学会員の対話能力の欠落」の原因は、《自らの理
論の可謬性に絶望的に無自覚である》ということにあるとわたしは思っていま
す[*2]。
2.「言葉の持つ神秘性」(わめさん)について
わめさんは Libra のような人間は稀だといわれますが、わたしはそんなこ
とは決してないとおもうのです。すでに時代は「信仰的模倣時代から理性の時
代」[*3]へ移っているとおもいます。
わめさんが「言葉の持つ神秘性」という表現を使って問題にされようとして
いる事というのは、言葉じたいに内在する問題というよりは、むしろ、言葉を
使ったり受けとめたりする側の問題なのかなという印象をもちます。すなわち、
「合理性の放棄」の問題なのかなと。
たとえば、我説は、アートマンは「差異の体系である言葉によっては表すこ
とはできない」[*4]というようなことをいいます。言葉によって表すことがで
きないということは、すなわち、《批判をうけつけない》ということです。こ
れは、さきに書いた意味での「合理性」の放棄です。このような「思想的態度
表明を神秘主義と呼ぶ」[*5]という袴谷先生の主張をわたしは支持します。
このような神秘主義とは反対に、仏教では、言葉を重視します[*6]。
ポパーは「誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とす
る(また彼らはわれわれを必要とする)ということ、とりわけ、異なった環境
のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されね
ばならない」[*7]といいます。ポパーのこの発言は、釈尊が「善き仲間のなか
にあるということが、聖なる道のすべてである」[*8]というのとかなり通じる
ところがあるとおもいます。
以上で、書いておくべきことはわたしなりにだいたい書いたつもりです。
さて、わたしは、明日からまたふだんの生活にもどって別のことに集中しな
ければなりません。残念ですが、ここにお邪魔するのは今日の深夜までにさせ
て頂きたいとおもっています。その時点で一応の区切りがつくかどうか(汗)。
文字数超過で
>>11
に続く
11
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:21:35
>>10
よりの続き
[*1] ポパーの倫理思想(小河原誠)
http://freett.com/Libra0000/083.htm
[*2] 「学会員の対話能力 」スレッド
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_002.html
[*3] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
http://freett.com/Libra0000/024.htm
[*4] …現時点の私の仏教理解の総括…(曽我逸郎)
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html
[*5] ヤージュニャヴァルキャの「我説」(袴谷憲昭)
http://freett.com/Libra0000/049.htm
[*6] 釈尊と龍樹はそれぞれ以下のように言っています。
───────────────────────────────
ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱
心であれ。このわたくしの口から出る声を聞いて、自己のやすらぎを
学べ。
(スッタニパータ 1062〔中村元訳〕)
───────────────────────────────
───────────────────────────────
二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の
説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理
(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。
(龍樹『根本中論偈』第二四章第八偈、三枝充悳訳『中論(下)』
〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 639)
───────────────────────────────
───────────────────────────────
およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びと
も、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。
(同上第九偈、同上、p. 639)
───────────────────────────────
───────────────────────────────
〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されな
い。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得さ
れない。
(同上第十偈、同上、p. 641)
───────────────────────────────
[*7] ポパーの倫理思想(小河原誠)
http://page.freett.com/Libra0000/083.htm
[*8] 「われを善き友として」(増谷文雄)
http://freett.com/Libra0000/012.html
12
:
<font color=#FF0000>わめ★</font>[TRACKBACK]
:2005/09/26(月) 00:22:07
Re: 「合理性の放棄」の問題 (わめ)
2005-09-25 20:02:06
Libra師匠がわかんなくなってくるのは、わめがしっかり師匠のコメントを理解できないままに、お返事をしてしまっているのが原因ですねw汗
> A.批判に耐えているとして、暫定的に受け容れられている言明。
ある限られた範囲=暫定的のつもりでしたので、もちろんAです。^^
また自他共に可謬性を認め合っていきたいと思っています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/r1
(わめの掲示板での議論のルール)
> ちなみに、よくいわれる「学会員の対話能力の欠落」の原因は、《自らの理
> 論の可謬性に絶望的に無自覚である》ということにあるとわたしは思っていま
> す[*2]。
これは学会員に限らず、何かに盲信状態の方の特徴のように思います。
> わめさんは Libra のような人間は稀だといわれますが、わたしはそんなこ
> とは決してないとおもうのです。すでに時代は「信仰的模倣時代から理性の時
> 代」[*3]へ移っているとおもいます。
たしかに実感としてもその傾向はあるように思います。
そう考えると、わめがリアルでもネットでも、学会員や他の宗教を盲信する方と接する機会が多過ぎることが、素直にそう受け取れない原因なのかもしれませんね。(^^;;
> わめさんが「言葉の持つ神秘性」という表現を使って問題にされようとして
> いる事というのは、言葉じたいに内在する問題というよりは、むしろ、言葉を
> 使ったり受けとめたりする側の問題なのかなという印象をもちます。すなわち、
> 「合理性の放棄」の問題なのかなと。
「合理性の放棄」とまでいかなくとも、「合理性」を軽視している方を多く見かけることからそのように感じてしまっているのかもしれません。
よくよく考えてみると、Libra師匠が言われる「自らの理論の可謬性に絶望的に無自覚」な方を対象として、「言葉の持つ神秘性」に恐れを抱いていたのかもしれません。
これはわめも長くそうだったから、そのことの原因と考えられることに、強く拒否反応を示しているだけに過ぎないのかもしれません。
仏教を学会教学により学ぶことにより、初めて仏教用語に触れ、そのそれぞれの語句の意味を知ることが、そのまま”真実”として頭にインプットされてしまったように思うし、盲信に至る方の落とし穴ではないかとの思いがあるようです。
> 以上で、書いておくべきことはわたしなりにだいたい書いたつもりです。
ありがとうございました。^^
お示しくださったリンク先(曽我さんサイト含む)は、何度か読んでおりますが、Libra師匠とのお話の中で、また少し理解できたことがありましたので、改めて読み返してみようと思います。
> さて、わたしは、明日からまたふだんの生活にもどって別のことに集中しな
> ければなりません。残念ですが、ここにお邪魔するのは今日の深夜までにさせ
> て頂きたいとおもっています。その時点で一応の区切りがつくかどうか(汗)。
(´・ω・`)ショボーン
タイムリミットまでにお返事いただけるか分かりませんが、わめは「合理性の放棄、あるいは軽視」の方と話し合う機会が多く、わめはそのような方を対象としての思索に、重きを置いているようです(今まで自覚していなかったのかもw汗)。
この「合理性の放棄、あるいは軽視」の方の意識改革の手立ては、如何にしていけばよいか、何かアドバイスが頂けましたらありがたいです。
13
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:23:14
「合理性の放棄」(Libra)と「盲信」(わめさん) (Libra)
2005-09-25 23:40:29
まず、「合理性の放棄」ということの意味について補足説明しておきたいと
思います。
繰り返しになりますが、わたしは、「合理性とは、自分の信念を批判的に論
じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができてい
ること」だと考えています。ですから、わたしがいうところの「合理性の放棄」
とは、《批判的討論に照らして自分の信念を訂正することの拒否》という程の
意味です。
おそらく、わめさんがいわれている「盲信」というのは、わたしがいうとこ
ろの「合理性の放棄」とほとんど同じことをさしているのではないでしょうか。
ちがってたらご指摘ください。
「盲信」とか「合理性の放棄」というのは、言明じたいの性質についての話
ではなく、言明を受け入れている側の態度の問題だろうとおもいます。将来的
には訂正される可能性があるものとして暫定的に言明を受け入れているのか、
それとも、訂正される可能性がまったくないもの(=真理)として受け入れて
いるのか、その態度の違いによって、「盲信」かそうでないかが分かれるので
はないでしょうか。
たとえば、ある言明を受け入れている人が2人いたとします。ひとりは、そ
の言明を暫定的に(将来的には訂正される可能性があるものとして)受け入れ
ており(この人をAさんとします)、もうひとりは真理として受け入れている
としましょう(この人をBさんとします)。この場合、「盲信」しているのは
Bさんだけということになるでしょう。全くおなじ言明を受け入れているにも
かかわらず、Aさんの態度は「盲信」ではないでしょう。わたしが、「言明じ
たいの性質についての話ではなく、言明を受け入れている側の態度の問題だ」
というのはそういう意味です。
つまり、ある人が盲信者であるか否かというのは、その人が《何を》信じて
いるかによって決まるのではなくて、《どのように》信じているかによって決
まるものであるとわたしはおもいます。
わたしの友人である Leo さんも、かつては学会教学を信じておられました。
では、学会教学を信じておられた時には、Leo さんは盲信者だったのかという
とそうではありません。学会教学を信じておられたその時に、「批判的討論に
照らして自分の信念を訂正」されたわけですから、Leo さんは一貫して盲信者
ではなかったということです。
>>14
に続く
14
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:23:49
>>13
の続き
あと、「合理性を自ら積極的に放棄する人の意識を改革する手立て」につい
てですが、もしそのような手立てがあるのなら、わたしのほうが教えてほしい
です(笑)。
対話がもたらすものについて過度に楽観的な期待をすると、裏切られること
がほとんどでしょう。ポパーのように、「問題をほんのわずか明晰にすること
ですら──自分自身の立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けて
なされたほんの些細な貢献ですら──大きな成功」であり、対話の結果、「わ
れわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、真理に
少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分」だと考えておくのがよ
いとおもいます。
─────────────────────────────────
真剣で批判的な討論というのはいつにあっても困難なものである。…合理
的な、つまり批判的な討論の参加者の多くがとくに困難に感じるのは、本
能が命じているように見えること、(そして、論争的な社会ではどこでも
結果的に教えられること)つまり勝利することを忘れねばならないという
ことである。学ばねばならないことは、論争における勝利にはなんの価値
もなく、他方、問題をほんのわずか明晰にすることですら──自分自身の
立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けてなされたほんの些
細な貢献ですら──大きな成功だということである。ある討論において勝
利を得ても、みずからの精神が変化したり明晰になったりすることがどう
みてもほとんどないのであれば、その討論はまったくの無駄とみなすべき
なのである。まさにこの理由のゆえに、みずからの立場の変更は内密にな
されてはならず、その変更がつねに強調され、その帰結が探求されるべき
なのである。
この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、
われわれはそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗など
を目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものであ
る。われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったと
か、真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのであ
る。
(カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編
『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究
会訳〕、未來社、1998年、pp. 88-89)
─────────────────────────────────
追伸 わたし自身は参加できないとおもいますが、これまでの議論を掲示板に
転載して、みなさんで議論して頂ければ幸いです。
15
:
わめ★
:2005/09/26(月) 00:24:24
目からウロコがまた落ちたw (わめ)
2005-09-26 00:04:57
> 繰り返しになりますが、わたしは、「合理性とは、自分の信念を批判的に論
> じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができてい
> ること」だと考えています。ですから、わたしがいうところの「合理性の放棄」
> とは、《批判的討論に照らして自分の信念を訂正することの拒否》という程の
> 意味です。
(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 何度も目に触れた言葉なのにやっと分かったかもw
> おそらく、わめさんがいわれている「盲信」というのは、わたしがいうとこ
> ろの「合理性の放棄」とほとんど同じことをさしているのではないでしょうか。
> ちがってたらご指摘ください。
その通りです。^^
そしてAさんBさんの話も、師匠が以前、さかなこさんのブログのコメント欄で話されていたことと、表現は違っても同じことを言われていたように今は感じます。(読解力不足反省w)
> あと、「合理性を自ら積極的に放棄する人の意識を改革する手立て」につい
> てですが、もしそのような手立てがあるのなら、わたしのほうが教えてほしい
> です(笑)。
やっぱしw汗 躓くところは師匠でも同じなのですね。涙
今回の師匠との対話で、わめはまた少し学べたと言うことも、ポパーの言を借りれば「大きな成功」と言えるのかもしれません。感謝です。^^
> 追伸 わたし自身は参加できないとおもいますが、これまでの議論を掲示板に
> 転載して、みなさんで議論して頂ければ幸いです。
ありがとうございます。そのようにさせていただきます。m(_ _"m)ペコリ
17
:
わめ★
:2005/09/26(月) 01:13:41
とりあえず以上です。^^
どなた様もコメント等ありましたら、書き込みをお願いいたします。<(_ _)>
※行数が多い投稿は通常省略されておりますが、トップのスレッドメニューから希望のスレットタイトルをクリックして、右上のAllをクリックで全表示されると思います。^^
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