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日本大陸を考察・ネタスレ その148

333名無しさん:2018/11/06(火) 21:35:25 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
4 五胡十六国時代

後漢の滅亡後に三国時代の戦乱を終わらせ中華を統一した西晋だが、当初有能であった初代皇帝の司馬炎は統一しただけで満足してしまい、
急速に政治への興味を失うと同時に女遊びに耽るなど統一までの頃の姿が嘘のように堕落していき、国家基盤の整備を怠った。
その子司馬衷も暗愚であり、皇后である賈南風はそれを利用し国政を自分たちの一族が握るため、各地の皇族たちによる八王の乱と呼ばれる内乱を引き起こした。
それと同時に各地の諸侯は傭兵として異民族を国内に引き入れたため、内乱と合わせて西晋は大混乱に見舞われた。
これを期に隋統一までの300年あまりにわたり、中華は再び動乱の時代を迎えた。

この頃中華へと侵入、胎動した異民族は主に匈奴・鮮卑・羯・・羌の5つであり、これらは五胡と呼ばれた。
このうち氐と羌はチベット系の民族であったとされている。
しかし羌に関しては当時印欧語族であったという説が存在したり、
羌の構成種族であった小月氏(大月氏と違い中華に留まった者たち)はコーカソイド系だという話が存在する。
だが現在の四川省で羌の子孫と言われる少数民族のチャン族はモンゴロイド系の外見で
チベット・ビルマ語派のチャン語を話しており、正確な所は不明である。

匈奴は分裂し漢に臣従することで生き延びていた南匈奴のことであり、この世界においてはコーカソイド系の集団であった。
羯は匈奴や小月氏から派生した集団であるとされており、漢民族からは「白羯」と言われ印欧語族に分類されるコーカソイド系であったと見られている。
鮮卑は後漢までの歴史書ではモンゴル系の集団であったとされているが、西晋時代に流入してきた鮮卑族は「白虜」、
要するに肌が白かったと言われており「赤髯碧眼」など明らかにコーカソイド的な容貌をしていたという。

また南朝時代の宋で編纂された説話集「異苑」において、東晋の二代目皇帝である司馬紹の政敵だった軍人の王敦は、司馬紹のことを「黄頭鮮卑奴(金髪の鮮卑野郎)」と呼んでいたと記されている。
司馬紹の母親であった荀氏は北方の燕(現在の遼寧省付近)に居住していた鮮卑族の出身であったとされており、司馬紹の金髪は母親からの遺伝と見られる。
このように、少なくとも西晋時代以降の鮮卑は北方系コーカソイドの集団であった。
つまるところ五胡と呼ばれた異民族のうち3つがコーカソイド系異民族であったということになる。

八王の乱によって中央が乱れると、各地への威令が届かなくなると同時に不運にも毎年のように飢饉が続き西晋は急速に弱体化していった。
この情勢にまずは中華西方の奥地にいた氐族と羌族が反乱を起こし、氐族の李特が成都を占領した後その息子李雄が皇帝を称し成漢(後蜀)の建国を宣言する。
それに乗じ匈奴の酋長であった劉淵が漢王を名乗り、漢を建国した。
劉淵は聡明であると同時に非常に寛容な英傑であり、漢族や白羯を傘下に加え瞬く間に勢力を拡大。
これら異民族の反乱「永嘉の乱」が五胡十六国時代の本格的な幕開けとなった。

もはや西晋の衰退ぶりは目を覆わんばかりの惨状であり、遂に漢国五代目の劉聡が西晋の首都洛陽を陥落させる。
この際洛陽は焼き払われ皇族・貴族・市民らの多くが殺戮、当時の皇帝であった司馬熾も連行され2年後に毒殺される。
これによって西晋は完全に滅亡し残党も華北から撤退、甥の司馬睿を擁立し江南の地で東晋を建国する。
西晋を滅亡させた劉聡は皇帝に即位し国号を漢から趙(前趙)に改めたが、その子劉曜の時代に
白羯出身で奴隷から将軍に成り上がった石勒と対立し反乱を起こされる。
劉曜は投降後の振舞いが原因で暗殺され、その子劉煕も将校や王、公卿もろとも皆殺しの目に遭い、
前趙は漢の時代も含めてわずか25年で滅亡し後趙が建国された。




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