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日本大陸を考察・ネタスレ その148

332名無しさん:2018/11/06(火) 21:31:36 HOST:FL1-221-171-200-254.tky.mesh.ad.jp
しかし大陸世界においては史実と少し異なる展開を見せる。
日本東部に住んでいるスキタイ系の民族と匈奴は同じ北方系コーカソイド集団であり、
かつて日本へ移り住んだ集団が通っていた経路を通じ活発ではないものの最低限の交流は維持されていた。
そして大飢饉により本来死すべきであった匈奴の民たちは、餓死するくらいならばと日本への移動を開始する。
本国での飢餓や日本への移動の最中に10万人あまりが死亡したものの、実に120万人もの人々が間宮海峡を渡り樺太、北海道、東日本へと移民した。
秦の統一による西日本へのコーカソイド移民には及ばないものの、空前の規模の民族大移動が再び行われたことになる。
当地にいたスキタイ人たちは、同じ系統の民族であったことや
広大という言葉すら不足するほど土地が有り余っていたなどの要因から彼らを同朋として迎え入れ、自らの勢力へと組み込んでいった。
匈奴の君主であった単于蒲奴も、領域内の民の移動を黙認していた。
というより、重荷になるとむしろ積極的に口減らしとばかりに送り出してすらいた。

大飢饉から2年後の48年、匈奴は分裂し南匈奴が建国された。
南匈奴は北匈奴を攻撃し、本拠地をも陥落させ北匈奴は更に北方へと後退していった。
その後南匈奴は漢に臣従し、長城の内側に住むことを許されたり大飢饉の際に食料の援助を受けるなど厚遇された。
北匈奴も勢力を盛り返し辺境の地を荒らし回っていたものの、史実では南匈奴が漢に厚遇されていると聞くと年間数千人の投降者が出たとされている。
しかし大陸世界においては、裏切り者の南匈奴や宿敵の漢に降ることをよしとせず、史実の投降者たちは日本大陸へ移動していった。
このため小規模ではあるものの東日本への移民が断続的に到来することとなった。

しかし87年に北匈奴へ東の鮮卑族が侵入し当時の単于が殺害され、更に蝗害による飢饉まで発生し北匈奴は大混乱に見舞われた。
このため北匈奴の民は鮮卑を避けて大きく北を迂回し日本へと逃れる動きを加速させた。
これに乗じて南匈奴と漢は連合軍を結成し、89年に北匈奴への攻撃を開始する。
史実ではこの攻撃に北匈奴は敗北し、20万人もの投降者を出したと言われているがこれらも大陸世界では鮮卑を避ける北方迂回ルートで日本へと逃げ延びていった。

そして91年、遂に北匈奴は漢の攻撃により決定的な打撃を受けた。
北匈奴の単于は日本へと逃げようとしていたが、漢に臣従していた東の鮮卑が今まで領域を北周りに通って日本へ逃げる一般の民は放っておいたものの、今回ばかりは逃がさないと南の漢や南匈奴と包囲網を張っていたため、単于に率いられた北匈奴は西への逃走を開始する。

これにより北匈奴は中華圏から完全に姿を消し、悦般やエフタルとして活動を続け、現代ではパキスタン北部やイラン北部、アフガニスタンの一部などで僅かにその痕跡が見られるのみとなっている。

しかし大陸日本においては数十年に及ぶ移動で実に150万人あまりもの匈奴の民がスキタイ勢力下の東日本へと流入した。
これにより当時100万人ほどであった人口が一気に250万人にまで増加し、数的には西の大和朝廷に劣勢であるものの大幅な国力増進を成し遂げることとなった。




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