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中編以上のネタの書き込み【架空戦記版】 その10

981ひゅうが:2014/09/27(土) 15:57:30

騒動を知った空軍の現場教育部隊からも「アドーア」ではなく、エンジンをYJ-101かYJ-102へ換装してほしいという要望が続出。
結果、「アドーア」エンジン搭載型の製造はわずか21機で打ち切られる。
急きょ石川島播磨においてノックダウン生産されたYJ-101が審査の末にIHI-901エンジンとして採用、きわめて良好な運動性と上昇性・加速性を示したのは1970年8月のことだった。
ただちにライセンス生産に移行し、すでに製造されたT-2初期型のエンジンの換装を行うことを国防空軍が決定し、新聞報道に流れた時点でロールスロイス社には、ライセンス生産品の「アドーア」改良型とともに丁重な感謝の文言が送られていたという。

この騒動は、当時日本国内の航空会社が選定していた次期旅客機としてロッキードL1011「トライスター」を、破格の売り込みにも関わらず完全拒否することまでに発展。
さらには同機エンジンの開発失敗もあって、ロールスロイス社は1971年に経営破綻。
当時の英国企業としては極めて珍しい「国有化」と、1973年にRB211エンジンのIHIへのライセンス生産許可という屈辱を味わうことになるのである。




【戦闘機型の完成】


T-2の最初の教育部隊への配備後となる1972年、公式にはT-2改と呼ばれる戦闘機型が初飛行を迎えた。
エンジンの変更による航続力の低下は大容量のドロップタンク装着によって補ったものの、それでも当時開発されたばかりのASM-1対艦ミサイルを最大4発搭載しての低空侵攻能力を実現したT-2改は、のちのF-2戦闘攻撃機よりは劣るとはいえ良好な性能を発揮。
ただちにF-1戦闘攻撃機として制式採用された。
設計を担当したのが、大戦後期に紫電シリーズを設計した倉崎技師であることもあって、

「シデンカイ再び」

あるいは、零戦を開発した三菱が製造メーカーであることから

「ゼロから1へ」

と称されるに至る。
さらには胴体側面と内翼ハードポイントに待望の「山桜」を搭載できるという余裕のある搭載量にも関わらず、当時の英国の主力戦闘機であった「ライトニング」に匹敵する推力重量比を持っていたことから「極東最強の戦闘攻撃機」の名をほしいままにした。

頑丈な機体構成から重量が増加したものの、エンジンはそれを補って余りある力を持っていたのだ。

1974年4月、初の配備部隊が三沢基地に編成されるとともに配備は進行。
当時の好景気もあって、最終的には158機が導入された。
本機の製造にあたって設置された製造設備は、のちに発展型となるF-404エンジンを装備したF/A-18の採用の決め手となったといわれている。

本機は、ソ連崩壊時の――




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