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提督たちの憂鬱 支援SS その2

6名無しモドキ:2011/03/06(日) 21:31:46
 この女学校でも、サヨンは忘れ得ぬ恩師に出会った。ロシア系と中国系のハーフである、美術の若い男性教師で
あった。自分の外見から、からかわれたり、仲間外れにされたこと、それが悔しかったこと、勉強をすることで次第
に一目置かれるようになったこと。そして、自分のことを知ってもらうために努力したことを彼女に伝えた。
 やがて、サヨンは、学校を説得して、許可を貰い母親からもらったタイヤル族伝統の髪飾りをするようになった。
そして、サヨンはタイヤル族のことを知ってもらいたいと思い、文化祭でタイヤル族の文化について展示をすること
にした。サヨンが一人で、展示のための作業をしていると、クラスでも目立たない無口な生徒が、手伝いたいと言っ
てきた。彼女は、東北地方の学校から途中で編入してきた生徒で、時々なまりが出るため、からかわれている生徒だ
った。
「サヨンさんのような標準語がうらやましいです。でも、あなただけは、わたしのことを笑ったりしません。どうか、
友達になってくれませんか。」彼女はそういうと熱心に、サヨンにタイヤル族のことを聞いては展示品の説明文など
を書いてくれた。

 これが、切っ掛けになり、サヨンには何人かの友達ができた。1938年のある夏の日、放課後、サヨンたちは帰り道に
遠回りをして多摩川の土手を歩いていた。前日の大雨で川は増水していた。その川岸で、大勢の小学生が騒いでいた。
彼らの指さす方には、小学校低学年の男の子が川に流される姿が見えた。
 サヨンは、それを見るなり、制服のまま川に飛び込んだ。サヨンは浮かんだり、沈んだりしながら男の子に近づいて
抱きかかえたが、一緒に流されて行く。やがて、近所で作業していた大工たちが、急を聞いて駆けつけてロープを投げ
てくれた。サヨンは、男の子をロープに結わえたが、そこで力尽きて流されていった。官民あげての捜索の結果、サヨン
の死体は翌日収容された。

 このニュースは、ラジオ新聞などが大々的に取り上げた。これは、日本中の感動を呼び、サヨンの両親のもとには多額
の義援金が寄せられた。サヨンの両親は、サヨンの兄弟のための教育資金だけを受け取ると、残りの義援金は、高砂族の
教育資金のために寄付した。この資金は、サヨン奨学金として、毎年、更に寄付を集めて内地留学を志す、高砂族子弟の
ために使われている。
 サヨンの通っていた女学校では、生徒父兄が募金を集めてサヨンのために慰霊の碑と、サヨンを記念した一対の鐘を、
女学校と彼女の生まれ故郷であるリヘヨン村に贈った。この鐘が「サヨンの鐘」と後に呼ばれるようになる。

 日米開戦直前、アメリカのハースト系新聞が、「日本人とは」という特集記事の中で「日本では、女子学生が水兵服
のおさがりを着ている。しかし、泳ぎは、日本の水兵と同じく上手ではない。」とキャプションをつけた戯画を掲載した。
猿顔のほほに、サヨンと刺青をした女学生が流されていくその戯画が伝えられると、人種偏見的な記事と相まって日本で
は大きな怒りの声があがり、アメリカでも心ある人々の顰蹙をかった。
 開戦後、「アメリカの水兵さんは、泳ぎが上手いから撃沈されても泳いで帰れるよな。」と思いを込めた幾多の必撃の
砲弾爆弾がアメリカの軍艦の襲った。
 
 あまりにも扇情的な戯画は、日本の特務機関が、アメリカ人画家に手を回して描かしたことは、別な所でも、絶対に出
ない話である。
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