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ワイの遊び場

328名も無き@冒険者:2021/01/31(日) 13:22:06 ID:00bmpWA60
『外部の人間と北条姓について』

北条綱成の出自については旧来より『福島正成の子』という説が根強かったが、近年では北条家の武将として活動し、
1525年に戦死した『伊勢九郎(本姓:櫛間九郎)』こそ父親であるとする説が有力さを帯びつつある。
櫛間(くしま)は所領役帳に記載の福島(くしま)につうじ、小田原旧記にも記載の九嶋(くしま)ともつうじる。

櫛間九郎が伊勢九郎として1525年まで活動しているのは宗瑞または氏綱から伊勢姓の名乗りを許された(婚姻関係にあったか)からで、
氏綱自体は大永3年(1523年)には伊勢という名字を捨てて北条氏綱として活動していたことから、
「北条」という姓は後の「徳川姓」のように一部の人間だけが名乗ることができる名字だったのかもしれない、と戦国北条五代は記している。

綱成が北条為昌の養子となったのも、元々そういった下地があったから、というのは意外であった。

また、北条綱高については高橋家出身とする資料が多いが、(私見だが)あまり実在していたように感じられないのは気のせいだろうか。
サッと読める範囲の書籍の中で、あの小田原旧記を除いて北条綱高の名が出てくるものが見つけられなかったのである。
かろうじて真田三代記で蒲原城の攻防の中で「北条常陸介」という人物の名が出てくるが、これは当然、綱高の子・北条康種であろう。

戦国大名・伊勢宗瑞(黒田基樹著)では伊勢宗瑞が伊豆を平定する際に降ってきた諸将の一人として雲見の高橋家に触れていたが、
宗瑞から高橋家に出された書状の宛名の書き方からして、高橋家はそれほど身分の高い侍ではなかったと考察がなされている。
その一方で高橋家は、
「伊勢宗瑞の重臣である多目権兵衛尉からの再三にわたる招きを受け、伊勢宗瑞に従い、伊豆平定で戦功を挙げた(高橋文書)」
「この時の戦功で、伊勢宗瑞の養女(外山豊前守娘)を妻として北条一門としての扱いを受けている。」
と自家の武功を書き残している(WIKIPEDIAより)。

大身の身分でないにも関わらず重臣から再三にわたってスカウトされるあたり、話を盛っている感が特に強い。
また、養女を妻として貰っているあたり、話を盛っている感がさらに強い。
実の娘ならば同時代の資料との整合性・辻褄があるだろうから簡単には作れないのに比べ、
あくまで養女ならば他資料との整合性を無視してでも簡単に捏造できそうではある。

おって色々と書籍を見て、この綱高という人物についての扱いを知りたいところである。


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