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ワイの遊び場

328名も無き@冒険者:2021/01/31(日) 13:22:06 ID:00bmpWA60
『外部の人間と北条姓について』

北条綱成の出自については旧来より『福島正成の子』という説が根強かったが、近年では北条家の武将として活動し、
1525年に戦死した『伊勢九郎(本姓:櫛間九郎)』こそ父親であるとする説が有力さを帯びつつある。
櫛間(くしま)は所領役帳に記載の福島(くしま)につうじ、小田原旧記にも記載の九嶋(くしま)ともつうじる。

櫛間九郎が伊勢九郎として1525年まで活動しているのは宗瑞または氏綱から伊勢姓の名乗りを許された(婚姻関係にあったか)からで、
氏綱自体は大永3年(1523年)には伊勢という名字を捨てて北条氏綱として活動していたことから、
「北条」という姓は後の「徳川姓」のように一部の人間だけが名乗ることができる名字だったのかもしれない、と戦国北条五代は記している。

綱成が北条為昌の養子となったのも、元々そういった下地があったから、というのは意外であった。

また、北条綱高については高橋家出身とする資料が多いが、(私見だが)あまり実在していたように感じられないのは気のせいだろうか。
サッと読める範囲の書籍の中で、あの小田原旧記を除いて北条綱高の名が出てくるものが見つけられなかったのである。
かろうじて真田三代記で蒲原城の攻防の中で「北条常陸介」という人物の名が出てくるが、これは当然、綱高の子・北条康種であろう。

戦国大名・伊勢宗瑞(黒田基樹著)では伊勢宗瑞が伊豆を平定する際に降ってきた諸将の一人として雲見の高橋家に触れていたが、
宗瑞から高橋家に出された書状の宛名の書き方からして、高橋家はそれほど身分の高い侍ではなかったと考察がなされている。
その一方で高橋家は、
「伊勢宗瑞の重臣である多目権兵衛尉からの再三にわたる招きを受け、伊勢宗瑞に従い、伊豆平定で戦功を挙げた(高橋文書)」
「この時の戦功で、伊勢宗瑞の養女(外山豊前守娘)を妻として北条一門としての扱いを受けている。」
と自家の武功を書き残している(WIKIPEDIAより)。

大身の身分でないにも関わらず重臣から再三にわたってスカウトされるあたり、話を盛っている感が特に強い。
また、養女を妻として貰っているあたり、話を盛っている感がさらに強い。
実の娘ならば同時代の資料との整合性・辻褄があるだろうから簡単には作れないのに比べ、
あくまで養女ならば他資料との整合性を無視してでも簡単に捏造できそうではある。

おって色々と書籍を見て、この綱高という人物についての扱いを知りたいところである。

329名も無き@冒険者:2021/02/03(水) 19:23:11 ID:00bmpWA60
御由緒家について

荒川氏
 荒川清兵衛(1569年の対武田の泉頭城の防衛に所属)
 荒川長宗(1569年に蒲原城で北条綱重とともに戦死。韮山町史では荒川豊前守国清と記載されている。荒川清兵衛と同一人物か。諱が国清というのは怪しい。ズレて記載されているかも)
 荒川豊前守(1580年の対武田の泉頭城の防衛に所属。小田原の役でも同名の武将が見られる)
(泉頭城の城主・多米氏が蒲原城で戦死しているため、泉頭城配備の援軍の諸将も蒲原城で戦死したということも想像に難くなく、清兵衛=長宗=豊前守の可能性も生じる)
 荒川豊後守(絵本真田三代記に登場する。上記清兵衛または豊前守と同一人物であろう)
 荒川善左衛門尉(足軽大将。氏康・氏政・氏直の三代に出仕)

荒木氏
 荒木某(淫乱無道にて逆心の企て有し故 氏康自身手にかけ殺戮せられた(徳川家康と氏康柱の逸話に繋がる))
 荒木越前(御由緒荒木の子孫という(聖徳山天洲寺案内板より…ほんまか?)。成田下総に属し70貫を領有(70貫は中々多い))
 荒木四郎兵衛尉長善(荒木越前の子。豊臣秀吉の小田原の役で小田原に籠城し戦死)
 荒木兵衛尉(小田原役で小田原城に籠城(北条五代記より。長善か?))

在竹氏
 在竹兵庫頭?(宗瑞に出仕)
 在竹摂津守(兵庫頭の子)
 在竹摂津守(摂津守の子。永禄7年(1564年)の国府台合戦で戦死か)
 在竹彦四郎(摂津守の子。四代目に相当。第二次国府台合戦後から小田原征伐による落城までの間、椎津城に所属とも)

330名も無き@冒険者:2021/02/04(木) 19:37:37 ID:00bmpWA60
今川氏親と北条早雲(黒田基樹著)を読んで気づいたこと

今川義忠が懸川庄・河匂庄の代官支配確立のため、遠江に出陣したとある。(文明6年8月)
その時、遠江守護代の狩野宮内少輔を攻め、自害に追い詰めたという。(文明6年11月)

一方、伊豆にも狩野氏があり、宗瑞の茶々丸討伐の際、宗瑞に抵抗したのが狩野介こと狩野道一である。
何故、他の連中と異なり宗瑞に敵対したのか?という点は、
別に関戸播磨守吉信だって宗瑞に敵対しているのだから気にする所ではないが、
狩野道一は大見三人衆のように早期に味方になることはなく、随分しぶといというレベルで抵抗したらしい。
(5年くらいらしい)

劣勢の中、何がそこまでそうさせたのかというと、今川義忠が滅ぼした遠江守護代も狩野宮内は狩野道一の同族で、
伊豆に侵攻した宗瑞は今川の一派(親今川の国衆・葛山備中守の兵も援軍として来ているし)
・・・として見られたが故に道一は今川糞喰らえと言わんばかりに抵抗の道を選んだのではないか?
という小説のネタにできそうな考察。実際の所は知らない。

なお狩野家は取り潰しとはならず、本家は松山衆の筆頭を務め、庶流には評定衆を務めた狩野泰光がいる。

331名も無き@冒険者:2021/02/04(木) 19:44:29 ID:00bmpWA60
戦国大名論集8を読んだメモ

・高橋将監
延徳3年、柿木の狩野介茂光の攻撃陣に参加。大功を挙げた。

・安藤源左衛門(清広とされる)
天正元年、欠落百姓に関する書状が出されている。
(もっとも百姓の逃亡は安藤源左衛門に限った話ではない)

・氏照の八王子支配の初期の奉行として、布施兵庫大夫(蔵人佑?)と横地監物丞吉信の両名。
 後には大石一族から大石左馬助を奉行として登用している。

・宇野藤右衛門尉(書籍上では藤左衛門尉)
 御用商人。今宿町の売薬商人。源十郎は1559年時点で馬廻衆をも務めている。
 天正4年、宇野家は日光町中之丸薬の独占販売権が与えられている。

332名も無き@冒険者:2021/02/07(日) 11:41:11 ID:00bmpWA60
成田下総に属した荒木越前(知行70貫)について

成田氏に属したということは成田分限帳にも載っているということで、ネット上で分限帳について解説しているPDFを参照した。
(参照:VOL13 第五章 第五節 成田系図及び分限帳)
(成田分限帳自体は天正10年(1582年成立の模様))

PDF内には「譜代侍」の項目があり、譜代侍の解説として以下のとおり
1175人あり。
譜代とは代々子孫が親の後を継いで仕える世臣のことであり、家門侍及び譜代侍は家禄を土地で貫った(もらった?)のである。
土地からの年貢の外に、農民の労役も必要に応じて課した。
(家門侍:御一門分とする文献もあり、言わば準一族衆ということか?)

この譜代侍の中に「永80貫」として、荒木越前が
北山四郎兵衛、間宮若狭、長谷部隼人、上原兵庫助、山谷茂兵衛とともに名を連ねているのが分かった。
(なお、譜代侍の最高禄は3000貫の豊島美作守、次いで1000貫の松岡豊前守、山田河内守)
(永は永楽通宝のこと)

荒木越前が譜代侍として名を連ね、かつ、その先祖が御由緒の荒木であるとすれば、
少なくとも荒木越前の父または祖父の段階で荒木氏が成田家に属していなければならない。
成田氏が北条家側に属したのは1545年(天文14年)のこととされている。
氏康活動期(1530年〜1570年)に荒木某が成敗されるが、
それ以前から忍城(埼玉北部)に荒木氏が支流とはいえ移住したとは考え難いし、
1545年以前からとするのも考え難い。
また氏康から氏政への家督継承は1559年に行われているため、謀反を企てたという理由で氏康自ら荒木某を誅殺するのであれば
荒木某の誅殺は1559年以前の出来事と考えるのが自然であるし、役帳にも荒木に関する記載がないので、そのとおりであると考えられる。

1582年の段階で荒木越前が当主であれば、荒木某が誅殺された時期に成田氏に仕えた荒木家当主は越前の父という事が考えられる。
少なくとも荒木某の子が越前ということは譜代侍という扱いから非常に考え難い。

つまり何が言いたいかと言うと
荒木越前が御由緒荒木の子孫というのは普通で考えるなら嘘っぽいが、まあ不可能でもないというかなんというか。

333名も無き@冒険者:2021/02/07(日) 11:56:48 ID:00bmpWA60
ただやはり、『新編武蔵風土記稿に記載される戦国時代の地侍たちとその子孫の動向(加藤光男作)』では
荒木越前の代になって成田下総に属したとなっているので、そこは尊重するべきであろう。

また、『「増補忍名所図会」探訪 平成23年度行田市民大学二期生「歴史・文化A」グループ研究 』では、
荒木四郎長善は北条家の家臣として1万石を領有していたが…と記載がある。私見だが、四郎長善は荒木越前の子であろう。
(長善は小田原役の際に成田氏長とともに小田原城に籠城したという)

1万石(江戸時代の藩主クラス)を領有という話はなんだろうか?

334名も無き@冒険者:2021/02/10(水) 18:57:21 ID:00bmpWA60
韮山町史に収載されている小田原旧記に記載の家臣団について、図書館のレファレンスサービスを用いて調査を行っていただいた。
1552年成立の小田原旧記であるが、一名ずつその整合性をつついてみる。

・當時駿州泉頭御城代:荒川豊前守
→城代の是非はここで初めて明瞭。荒川豊前は対武田戦略の一環で泉頭城に配属されているのは間違いない。
→ただしWEBサイト『城と古戦場』では泉頭城の築城は小田原旧記作成の後である1555年〜1558年とされる。
→築城年代について異説をとるWEBサイト『柿田川 名所 湧水の道』でも、泉頭城の築城は1554年である。

・當時武州青木御城代:山中主膳正
→WEBサイト『お城解説「日本全国」1000情報』によれば、青木城は横浜駅から近いところにある平山城であり、
→最初の築城は不明であるが、大永年間(1521年〜1527年)に、多米元興(多米周防守)が青木城に入城したとある。
→山中主膳の配属も同時期であろうか。山中主膳は1536年の難波田との逸話こそ知られるが、その正体は不明である。
→小田原旧記では山中主膳正を山中氏頼ではなく山中才四郎の家系として扱っていると考えられる。
→また、たしか北条五代記にもその名が出た記憶があるが、
→いずれにせよその活動のほぼ全てが不明な男であり、山中主膳正=山中修理亮とした方が辻褄が合う気がする。

・當時相州大山之御城預り:荒木右衛門尉及び有竹又太郎
→大山城が相模のどこのことを示しているのか分からない。
→神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高1,252mの山は『大山』と呼ばれている。この地に築かれた城だろうか。
→有竹は在竹である。有滝と表記する場合もある。正解は分からない。一般的には在竹。ちなワイは佐竹と読み間違えていた。
→さて、荒木は前述のとおり、荒木越前が成田家に属している。ただし氏康に誅殺された荒木某という人物もいる。
→この荒木某を荒木右衛門尉本人か、その息子と考えることは苦しい所もあろうが不可能ではないと思う。
→一方の在竹は、早雲に仕えた初代、二代目(摂津)、三代目(摂津)、四代目(彦四郎、小田原籠城に参加)がいるとされる。
→二代目・三代目のことを示していると考えられる…が…。

335名も無き@冒険者:2021/02/10(水) 19:27:19 ID:00bmpWA60
さて続いて二十将である。伊豆21家、相模14家の出身から織りなすとされる。

・當時上州平井御預り:福島伊賀守
→軍記物で有名な家臣。「福島伊賀守の武勲」では福島伊賀守の父を福島正成としている。すると福島勝広か?
→また、同書では居城を大庭城としている。
→「平井御預り」はよく分からないが、守備の持ち場として担当しているということだろうか。
→久嶋ではなく福島としているあたり、相模福島家出身として扱っているようにも見えるが何故そうしたのか…。

・當時三浦新井御城代:横井越前守
→横井越前守が1552年まで生きているとは考え難く、其の子である横井神助を示しているのだろうが、
→横井神助の動向も1550年を待たず見えなくなる。

・當時三崎御城代:清水上野介
→清水康英。三崎城代…になったことあるのか?城主じゃないのは間違いないとして…。

・當時駿州長久保御城代:南條左兵衛尉
→静岡県長泉町の城。左兵衛尉らしい人物はよくわからない。
→なお南条重長という重臣をはじめ、南条氏はちゃんと北条家に仕えている。

・當時浦賀之御陣代:山角四郎左衛門尉
→山角康定のことであろう。

・當時武州菖満之御城代:石巻勘ケ由及び佐藤左衛門尉及び板部岡右衛門尉
→石巻勘解由は石巻下野守家貞の子・石巻勘解由左衛門尉康保のこと。なお1552年時点で家貞は現役。
→康保は1579年に没している。
→佐藤左衛門尉についてはマジで分からない。大見三人衆の末裔という設定なのは間違いない。
→板部岡右衛門尉は康雄のこと。康雄は石巻家の出身。
→なお康雄の没後、板部岡家の家督を継承した有名な江雪斎は伊豆21家の田中家の出身。
→おそらく小田原旧記の作者の中で康雄と江雪斎がこんがらがっていると思われる。

・當時武州羽生御城代:中條出羽守及び伊丹右衛門尉
→中条出羽はともかく、伊丹は多少ヒントが散見される。
→伊丹右衛門尉の子か弟に新左衛門宗次というがおり、氏直に仕えている。右衛門大夫康信と同一人物か?

・當時相州橋本城御預り:行方彈正
→行方弾正直清。

・當時武州神奈川御城代:間宮豊前守
→間宮康俊(神奈川城とは初耳ではあるが)。

・當時上州西牧之御城代:朝倉右京亮
→朝倉右京進政元のことであろう。越前朝倉家滅亡に際し北条家に仕えたという説があるが、
→堀越公方成立時期に、足利政知や他の公方衆とともに伊豆に下向した朝倉氏であるという説を推したい。

・當時上州前橋之御城代:大藤式部丞
→金石斎の子・大藤秀信であろう。

・當時武州藤澤御預り:大谷帯刀及び安藤左近太夫
→前者は大谷帯刀嘉信。後者は不明。相模14家の安藤家というポジションか。

336名も無き@冒険者:2021/02/10(水) 19:29:56 ID:00bmpWA60
最後に、「中堅」どころと評される御旗本備四拾八番将衆を記載する。

 い 梶原備前守        ろ 秩父次郎左衛門
 は 岩本太郎左衛門      に 大橋山城守
 ほ 太田豊後守        へ 橋本治郎右衛門
 と 關 兵部丞        ち 井浪九郎次郎
 り 渡邊左衛門        ぬ 鈴木大学助
 る 長田但馬守        を 布施彈正左衛門
 わ 輕部豊前守        か 篠窪民部丞
 よ 横地監物丞        た 高橋平十郎
 れ 諏訪三河守        そ 神尾越中守
 つ 宮川左近将監       ね 越知彈正忠
 な 山中彦十郎        ら 大具源吾
 む 山下治部少輔       う 南條玄蕃助
 ゐ 藤巻民部丞        の 石上彌九郎
 於 西脇外記         く 富塚善八郎
 や 松田因幡守        ま 後藤備前守
 け 小西隼人助        ふ 中村又左衛門
 こ 山本太郎左衛門      え 池田民部
 て 朝比奈孫太郎       あ 田中五郎左衛門
 さ 蔭山刑部左衛門      き 多目新左衛門
 ゆ 川村三郎右衛門      み 朱書
 め 大草加賀守        し 松田兵部丞
(朱書)           (朱書)
 えし 藤田大蔵丞       ひえ 安藤源右衛門
(朱書) (桑原)        (朱書)
 もひ 松田兵部丞       せも 芳賀彦十郎
(朱書) (併カ)
 すせ 堺和左衛門       すす 葛山隼人
 京 富永善左衛門

337名も無き@冒険者:2021/02/10(水) 19:38:07 ID:00bmpWA60
一人ずつ、つついていく。

・い:梶原備前守…当然、水軍衆の梶原景宗であろう。小西行長のような商人武将的ポジションであったとする説もある。
・ろ:秩父次郎左衛門…子に孫四郎。役帳に記載があると思われる。
・は:岩本太郎左衛門…定次。氏康の側近の一人であると黒田基樹氏は著書で説明する時がある。
・に:大橋山城守…「北条記」曰く北条氏照に属した武将。(狩野泰光も氏康直臣から氏照配下に属したことがあり不審ではない)
・ほ:太田豊後守…泰昌。役帳の作成に関わった。
・へ:橋本治郎右衛門…不明。相模衆14家に橋本家があり、そちらの出身という設定も可能か。
・と:關兵部丞…関兵部丞為清であろう。
・ち:井浪九郎次郎…マジで不明。

338名も無き@冒険者:2021/02/11(木) 18:47:42 ID:00bmpWA60
・橋本治郎右衛門尉の橋本家について

北条家に仕える橋本姓の人物は多数みられ、橋本治郎右衛門尉の他の橋本一族は以下のとおり。
ただし当主らしき人物を断定することは能わなかった。

1.橋本伊賀守
氏綱・氏康に出仕した事が確認できる。1576年に和田山琴平神社を創建したと伝わる。

2.橋本九郎五郎
氏綱に出仕したことが確認できる。
1536年、太田正勝の差配により北条綱成の名代として寄子を率いて鶴岡八幡宮の外(仮宮)遷宮の警固を担当。
(橋本九郎五郎他、23人の寄親が警固を担ったが『鶴岡八幡宮年表』では他23名の名前は記載なし)

3.橋本越中守及び橋本備中守
厩郷儀について、年貢徴取運上の件で横井才四郎とともに名が見える(WEBサイト『松田家の歴史』より)。
出典が蜷川家文書なので、関東での出来事だと思われるが…。

5.橋本外記
1570年には氏政に、1584年に北条氏直に仕えているのが見られる(『裾野市史第2巻中世編』より)。

6.橋本某
不明だが、河越夜戦を記す資料に足軽大将として多米や荒川と同じく名字のみ登場する。

339名も無き@冒険者:2021/02/11(木) 19:42:07 ID:00bmpWA60
・川村三郎右衛門について

どうせ適当に名前なんだから検索しても出てこないだろ〜
とか思っていたが、思わぬ検索結果が得られた。
『中世後期の富士山表口村山と修験道(大高康正著)』の『表1:富士山中奉納物一覧表』にて、その名が出てくる。
すなわち、
『天正十九年(1591) 六月 大日懸鏡 表口八合大日尊奉納富士岩、駿州有度郡横田住人河村三郎右衛門、天正十九年辛卯六月吉日、大工家政』

まあ関係ないだろう。

340名も無き@冒険者:2021/02/12(金) 19:06:57 ID:00bmpWA60
姓氏家系大辞典と安藤氏

相模安藤家にからめて安藤豊前守(良整)の名の名を出している。

341名も無き@冒険者:2021/02/13(土) 08:37:12 ID:00bmpWA60
・ち:井浪九郎次郎について

名字のみで検索をかけた場合、下記の如く。
(「鎌倉街道Ⅰ 歴史編」(栗原仲道:有峰書店:1976年) 九、戦国の道 両上杉氏と鎌倉街道 河越合戦)
武州の国司上杉朝興度々の合戦に討負け、如何にしても氏綱を亡ぼさばやと骨髄に徹して暮らしけるが、
重病をうけて天文六年卯月下旬朝の露と消え給ふ。子息朝定生年十三歳にして家督を継て父の遺言に任せ、
仏事作善をなげうって、まず武州の神大寺(調布市深大寺)と云ふ処に要害を取立て城として氏綱を退治せんとす。
氏綱是を聞いて同七月十一日、河越の三木と云ふところまで打寄せたり。
先騎の兵には井浪・橋本・多目・荒川を足軽大将と定め、松田・志水・朝倉・石巻を五手に備えて待縣たり。

要訳すると、
天文6年(1537年)、武蔵の国司・上杉朝興(扇谷上杉家)が死んだ後、子・朝定が氏綱打倒の兵を挙げた。
氏綱は迎撃のため7月11日に河越の三木という土地まで進出。その先駆け(先鋒)に井浪がいた。

また、天文14年(1545年)、
山内上杉憲政が、扇谷上杉氏の居城であった河越城を奪回するため、
扇谷上杉朝定、古河公方の足利晴氏と結んで、8万余騎の連合軍を形成して河越城に押し寄せたその戦役の中で、
翌・天文15年(1546年)の北条氏康による奇襲部隊の中に井浪(印浪)が、大道寺・諏訪右馬・橋本・荒川とともに加わっている。

342名も無き@冒険者:2021/02/13(土) 09:13:47 ID:00bmpWA60
・り:渡邊左衛門
→上杉憲勝が七沢城の城主のとき北条氏康に降伏し【渡辺五郎佐衛門】という者が城代になったが廃城したという。
→元亀元年(1570年)に北条家(この頃は氏政が当主)から【渡辺蔵人佐】(葛山氏被官)へ給与を現金で出す旨の書状が出されている。
→天正10年(1582年)に【渡部左衛門尉】宛の北条家朱印状が出されている(戦北2482 渡辺綱寛氏所蔵文書)(甲斐の郡内地方の人?)

・ぬ:鈴木大学助
→鈴木大学助成脩(大学頭とも)の父の【鈴木大学助】と思われる。

・る:長田但馬守
→不明

・を:布施彈正左衛門
→布施康貞の子の【布施弾正左衛門康則】(佐渡守とも)。
(神奈川県立歴史博物館のサイトで公開されている天文23年(?)10月5日の氏康→真田弾正忠(幸隆)の北条氏康判物より)

・わ:輕部豊前守(輕部=軽部)
→北条氏康が河越夜戦で勝利した後、【軽部豊前守】を使者として総州関宿城主・桑田中務大輔に遣わし古河晴氏について恨み奉ったという。
→また【軽部豊前守】は、武田信玄が小田原に来襲した際には蒔田城の防衛に参加したという。
→なお、苅部豊前として検索すると、鉢形城代の家老として【苅部豊前守康則】の名が見られる。

・か:篠窪民部丞
→西郡篠窪などを所領としていた。
>>324でも同名の武将を。

343名も無き@冒険者:2021/02/13(土) 13:32:02 ID:00bmpWA60
・よ:横地監物丞
→横地監物丞吉信のこと。

・た:高橋平十郎
→不明

・れ:諏訪三河守
→寺尾城主。諏訪右馬助と同一人物と思われる。

・そ:神尾越中守
→御馬廻衆。
→関東古戦録には神尾治部右衛門という名も見られる。上杉龍若丸らの処断を執行したという。
→また、別人ではあるが、松山衆に属する神尾善四郎、半役被仰付衆の神尾新左衛門など。

・つ:宮川左近将監
→西郡中嶋30貫文を知行。
→役帳では御馬廻衆知行役之帳に名があり。1560年頃に葉山を領有しているとされるが。

・ね:越知彈正忠
→永正9年(1512年)に相模と甲州の境目であった愛甲郡散田郷を北条家より賜る。
→謙信の関東遠征時にも名が見られ、上記の子二代と思われる。
→『謙信自ら殿軍(しんがり)となり細心の退却である。
   北条氏康は武功の誉れ高い【越智彈正右衛門】、藤巻民部左衛門、安藤弥兵衛、田中五郎左衛門、
   服部与三等に大磯、小磯、梅澤辺りの敵の陣地を探らせた。』

344名も無き@冒険者:2021/02/13(土) 19:04:36 ID:00bmpWA60
・な:山中彦十郎
→永禄元年(1558年)、足利義晴と北条氏政が鶴岡八幡宮を参詣した際に、南条玄蕃とともに奉行として参道を警固したとある。
→御由緒家の山中家の末裔たる【山中康豊】が南条昌治・遠山綱景らとともにその任にあたっているので、【山中康豊】その人であろう。

・ら:大具源吾
→不明。

・む:山下治部少輔
→北条五代記では小田原の役で、小田原城に籠城した諸将の中に同姓の【山下兵庫助】と【山下源三】を挙げている。

・う:南條玄蕃助
→南条宗俊かその子の南条隆秀とされるが…
→ほぼ確定的なのは、南条玄蕃助=南条昌治=南条因幡守ということである。北条氏邦に属し館林城代を務めた。

345名も無き@冒険者:2021/02/14(日) 11:17:17 ID:00bmpWA60
富永家の富永直勝について

土肥に所領を持つ富永家は『北条記』など諸文献において、
伊勢宗瑞に従った武士として、江梨の鈴木や三津の松下等とともにその姓が挙げられる。
なお『異本小田原記』では江梨に所領を持つ勢力として、鈴木・井田とともに富永と記載されている。
(この井田は井田郷の高田氏を指していると、『戦国大名・伊勢宗瑞』では指摘されている)
(『北条氏康の家臣団』の99頁ではこの時の富永氏を富永彦四郎(四郎左衛門尉)としている)

『韮山町史』によらば宗瑞による三浦攻めの際には、先陣の荒川又次郎及び大道寺太郎の他、
土肥の【富永三郎左衛門】、田子の山本太郎左衛門、妻良の村田市之助が北条方として寄せ手に加わっている。

1559年に作成した『所領役帳』によれば、
江戸衆に【富永四郎左衛門尉政辰】が遠山綱景・太田資高らとともに寄親として名を連ねている。
(『北条氏康の家臣団』27頁より)

また『ウィキペディア』では【富永直勝】が、役帳に記載の【富永弥四郎】と同一人物であると指摘がされている。
そして直勝は第二次国府台で戦死し、子は政辰であると記載がある。
(残念ながら『集註小田原衆所領役帳』が閲覧不可になったため、富永弥四郎に関する記載を確認することができない)

天文期の終わり頃から富永家で代替わりがあったと『北条氏康の家臣団』の99頁から紹介がなされ、
本書籍では伊勢宗瑞に従ったのは前述の富永彦四郎(四郎左衛門尉)で、その子が【四郎左衛門尉政辰】と推測している。
そして政辰は1524年、江戸城陥落後に遠山直景とともに配属されたものとして見られている。
ただしこの政辰は1556年には死去しており、嫡子亀千代が後に元服、【弥四郎康景】となった。
(弥四郎康景は1540年生まれ)

ここでウィキペディアでの富永直勝の項目を改めて見てみたい。
>生誕 永正6年(1509年)
>死没 永禄7年正月7日(1564年2月19日)
>子: 政辰、政家
>弘治2年(1556年)、相模三浦(現神奈川県三浦市)三崎沖で里見氏との海戦に従軍した。

『北条氏康の家臣団』では、この時の常陸海老島・大島台合戦に参加したのが、当時元服直前だった【亀千代】だったとしている。
だが、【亀千代(弥四郎康景)】の生年は1540年と考えられている。
162頁より、【康景】はこの後、第二次国府台合戦(1564年)で遠山綱景・隼人佑親子とともに戦死したとある。
【康景】の戦死後、家督は嫡子の【孫四郎政家(11歳、幼名・亀千代)】が継承した。後々には山城守を称するようになる。

よって、『ウィキペディア』に記載の富永直勝の項目は、
宗瑞時代に北条家に属した初代富永の子である富永四郎左衛門尉政辰と、
政辰の子である富永弥四郎康景の二人の事跡が混合されていることがわかった。

346名も無き@冒険者:2021/02/14(日) 15:39:19 ID:00bmpWA60
鶴岡八幡宮年表に記載の配下武将達抜粋

〜1533年〜
・【大道寺盛昌】、【太田正勝】、【後藤左京亮】以下、氏綱より奉行として普請を仰せ付けられる。
・【大庭良能】が勧進のため里見義豊の許へ派遣される。
  仮殿地下が終わり【大道寺盛昌】、【太田又三郎】、【太田正勝】、【蔭山某】以下歓盃す。
・【大道寺盛昌】、侍衆に命じて百八十間廊跡を挿築地とし、源平池を掃除する。
・【窪田豊前入道】、【北条為昌】、築地十二間を請負う。
・北条為昌が請負う回廊築地普請のため家中の宿老【山中彦次郎】、【窪田豊前守】等、数日間土を運ぶ。
  (続き)【清水】【笠原】等の人足も社頭に来る。【大道寺盛昌】【狩野左衛門】、所領高に応じて普請役を負担する。
・【蔭山図書助】【仙波肥前入道】【後藤繁能】が木屋奉行になる。【大道寺盛昌】【太田正勝】が総奉行に定められる。
・【吉良頼康】が番匠を鎌倉に下し材木等を負担すべき旨を伝える。
・鎌倉小代官【後藤繁能】の差合により【後藤忠成】【後藤孫次郎】が鶴岡八幡宮内の諸事に当たる。
・仮殿拝殿竣工。【仙波肥前入道】、若宮拝殿で勧盃。

〜1534年〜
・【後藤繁能】が造営作業を巡見。後、【大道寺盛昌】も巡見し、奈良大工に質疑応答。
・鎌倉番匠、【大藤信基】請負いの木屋の道具を運び終える。
・【橋本九郎五郎】が【亡父・橋本宮内丞】の例により鶴岡八幡宮の赤橋修造を発願。

〜1535年〜
・伊豆国鍛冶国安、奉行【後藤金五郎】のほか木屋衆の合力を得て家を再建す。
・相模金子郷の【安藤清広】より、代物一万疋到来する。
・小田原在住の奈良塗師【七郎左衛門】、鎌倉に到着。【北条綱成】の代理として【太田又三郎】が奉行となる
・氏綱が京都奉行衆の【伊勢某】を連れ、社頭を巡見する。
・氏綱が甲斐に出兵するが、【窪田豊前入道】【関時長】【神尾入道】は留守を守り、造営作業を続行。

〜1536年〜
・奈良大工奉行の【神尾治部入道】が巡見。
【太田正勝】の差配により、【北条綱成】の代理の【橋本九郎五郎】等奉行24名、寄子を率い外遷宮を警固する。
・相承院快元、北条氏綱の館において氏綱・氏康・【為昌】と対面。 また、【大道寺盛昌】【桑原弥九郎】【遠山綱景】等の宿所に礼に赴く。
・氏綱、神殿造営奉行・【後藤左京亮】【大道寺帯刀】等10人を五番編成とする。
・氏綱、【後藤左京亮】を鶴岡八幡宮に遣わし、職人の勤務時間の厳守を監督させる。

〜1537年〜
・上総武田家で家督争いがあり、氏綱は【大藤金石斎栄永】を遣わし信隆を救援させる。
・戦勝祈願の験がなかったことを氏綱より批難された快元が【桑原弥九郎】に回答のスケジュールを伝える。

〜1538年〜
・【神保了珊】【関時長】、檜皮等を運上。
・【葛山氏広】の祈祷が行われる。

〜1539年〜
・【大草丹後守】【太田正勝】【蔭山図書助】が鶴岡八幡宮に参集。銀師・須田正蓮入道をして銀懸魚(?)を磨かせる。
・江戸城代【遠山綱景】の祈念により鶴岡八幡宮、般若経を真読する。

〜1540年〜
【山中頼元】【小幡源太郎】が神馬・太刀を奉納。

〜1542年〜
・【神保了珊】が奉行として鶴岡八幡反橋の鍛冶作業を監督。

〜1544年〜
・【太田又八】【蔭山藤太郎】【後藤忠成】が奉行として屋根の葺きを担当。
・氏綱が鶴岡社中法度を定め【大道寺盛昌】【蔭山家広】【太田正勝】を奉行として監督させる。

〜1552年〜
・由比浜大鳥居竣功の祝儀執行。氏康代の【大道寺周勝】【蔭山長門入道】【後藤繁能】【太田正勝】等の奉行6人が出仕。

〜1558年〜
・【蔭山家広】【後藤宗涿】、足利義氏の鶴岡八幡宮参詣について御経供養等の執行を院家・神主・小別当と打ち合わせ。
・足利義氏が参詣のため宿入り。【遠山綱景】が先駆けを務め、佐々木近江守、一色直朝、梶原、二階堂等、千人余り供奉。
・足利義氏、由比浜へ下りる。【遠山綱景】【遠山隼人佑】佐々木近江守、一色直朝が供奉。
・参詣を【山中彦十郎】【南条玄蕃】が奉行として警固する。
・足利義氏が北条氏康の屋敷を訪問、一門他、【松田盛秀】【松田憲秀】【遠山綱景】【遠山隼人佑】等の重臣も陪席。

〜1570年〜
・【板部岡融成】【安藤良整】が円覚寺仏日庵の鶴隠周音に氏康の病気平癒を祈願させる。

〜1587年〜
【大道寺政繁】の代理の者が、神主・大伴時孝に放生会神馬銭三貫文を渡す。

347名も無き@冒険者:2021/02/14(日) 18:28:03 ID:00bmpWA60
蔭山尾張守広親→蔭山播磨守広忠→蔭山長門守家広→
蔭山刑部左衛門尉忠広→蔭山長門守氏広→蔭山因幡守貞広という流れであるらしい。河津城主の家柄。

蔭山家広は氏康に出仕し、箕輪の代官を務めていた他、前述のとおり足利義氏の鶴岡八幡宮参詣に関わっている。氏綱にも仕えたか。
蔭山氏広の妻は北条氏堯の娘。氏広は氏政と氏直に出仕し、小田原役で豊臣軍に降ったという。

348名も無き@冒険者:2021/02/15(月) 06:22:53 ID:00bmpWA60
外山豊前守について

誰だよこいつっておもったら案外出てきた。
『韮山町史』によれば、足利政知に外山豊前守と秋山蔵人の二名が家老として仕えていたが、
足利茶々丸の代になって佞人の讒言により切腹したという。

『高橋文書』では、この故・外山豊前守の娘を養女とし、高橋将監に娶らせたという。

349名も無き@冒険者:2021/02/15(月) 18:21:28 ID:00bmpWA60
清水家について

『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男(伊東潤著)』によれば、備中国人であるらしく、
私見だが、そうであれば伊勢家にとって笠原家と同じく古参の重臣の家柄といえるだろう。

清水孫三郎綱吉(宗瑞に出仕)→清水吉政(氏康の傅役に)→
上野介康秀(康英のこと)→新七郎(1569年武田家との戦で戦没)→
太郎左衛門尉政勝(新七郎の弟。武田の西上作戦に大藤秀信とともに援軍に)

350名も無き@冒険者:2021/02/19(金) 16:21:04 ID:00bmpWA60
小田原旧記に記載の馬廻衆

會田中務、赤澤左門、朝倉右馬介、朝倉弥左衛門、畔田半四郎、安宅七郎次郎、
石川源十郎、石原内蔵助、石巻彦十郎、石巻彦六、井上兵部、上田左近、牛久新次郎、
宇野藤五郎、江間藤左衛門、遠藤藤六、遠藤孫六、遠藤弥九郎、大谷十左衛門、岡田修理、
岡上主水助、小野與三郎、小野田善太郎、海保新左衛門、笠原弥十郎、粕屋兵部丞、
勝田八右衛門、加藤大内蔵、金井源十郎、神尾新左衛門、川上藤兵衛、川尻右近、川清左市郎、
川田大膳亮、川村鐵千代、神田小八郎、神田次郎右衛門、菊池郷右衛門、清田又五郎、窪田又五郎、
粂玄蕃、黒根左源太、桑原五郎左衛門、桑原弥七郎、後藤惣衛門、後藤兵衛西郷善右衛門、
坂口喜六郎、相良善四郎、座間新左衛門、篠窪修理、澁善又三郎(名字あってる?)、清水弥左衛門、
神保弥三郎、鈴木次郎三郎、諏訪部惣右衛門、関新次郎、関弥次郎、曾根采女介、大藤源七郎、
大道寺弥三郎、高田左衛門、田中甚五郎、玉井平六郎、戸田新右衛門、中村幸千代、中村宗甫斎、
中村平十郎、奈良弥七郎、西右衛門尉、西原弥七郎、仁杉五郎三郎、新田又七郎、蜷川九郎次郎、
二ノ宮兵庫、萩野右京、長谷川弥五郎、服部小三郎、花木新四郎、原小三郎、肥田助八郎、
平塚藤右衛門、福島左衛門、福島四郎右衛門、布施善十郎、松田新次郎、松田助六郎、間宮勝太郎、
御宿隼人佐、皆川監物、宮川弥九郎、三宅傳八郎(傳は伝の旧字体)、村島半左衛門、
村田市十郎、森新三郎、安田大内蔵、吉田勘解由、吉原小八郎、吉村助五郎、矢部弥四郎、
山岡左京亮、山角刑部左衛門、山角弥十郎、山上十右衛門、山口傳蔵(傳は伝の旧字体)、
山下刑部、山中弥七郎、横地図書介、龍崎源四郎、龍崎駒千代、渡邉太郎次郎、渡邉弥八郎
(※岡上主水助は二度名前が登場する。)

351名も無き@冒険者:2021/02/19(金) 16:21:55 ID:00bmpWA60
ちなみに極力あいうえお順で書いている。小田原旧記に記載の順ではなく、小田原旧記記載順は法則性が今ひとつ分からない。

352名も無き@冒険者:2021/02/19(金) 16:35:42 ID:00bmpWA60
小田原旧記に記載の当時浮役寄合衆
(浮役=浮役衆または浮勢(うきぜい),浮備(うきそなえ)ともいわれて予備軍を指す)
(寄合衆=ある一定の家格の侍のこと。要するに予備軍の名簿であろう。)

高麓越前守、宇部左京亮、松下三郎左衛門、閼伽井坊、奈良加賀守、庄式部少輔、金山図書助、大熊修理亮、
大森土佐守、西郷右京亮、仙波弥七郎、布施蔵人、菊池右近丞、花木主水、愛淵兵部少輔、高尾修理、
小野兵庫助、桑原修理、大胡民部、小管摂津守、小管大炊助、遠山左衛門尉、平川左衛門尉、奥津加賀守、
窪寺大蔵丞、木内宮内少輔、飯倉弾正忠、毛呂将監、仁杉伊賀守、江川兵衛太郎、笠原佐渡守、笠原平左衛門、
宇多川和泉守、横須賀安芸守、大坪初千代丸、酒井右京亮、小笠原右近、内藤大和守、内藤兵部少輔、
井上加賀守、井上雅楽助、岩本石見守、岩本和泉守、岩本右近、玉井帯刀、太田源六郎、太田新七郎、
太田大膳亮、太田四郎兵衛、太田弥三郎、太田十郎兵衛、島津孫四郎、島津又七郎、島津弥七郎、狩野右近
狩野介、狩野藤八郎、諸岡弾正忠、板倉主膳、大草左近

353名も無き@冒険者:2021/02/20(土) 14:15:15 ID:00bmpWA60
なお浮役名簿から途中で12枚ほど資料が失われているらしい
韮山町史では大草左近の次に、大貝寄子らの紹介にいきなり入っているので、
その12枚の中には大勢の寄子の紹介もあったのだろう

354名も無き@冒険者:2021/02/20(土) 15:21:10 ID:00bmpWA60
元亀元年1570年
山角康定から上杉謙信宛に北条高広を経由して戦況報告と出馬要請の書状(前田家文書)

岩本太郎左衛門尉が山角四郎左衛門尉・氏邦とともに活動(上杉家文書)

大藤式部丞信興が夫丸(馬二疋、人夫二人)を伊豆郷村から徴発することが許可される(大藤文書)
(大藤式部は後に長門守と称したともされるが、秀信との関連が不明。信興=秀信で、長門はまた別人(子?)か?)
(戦国大名家臣団事典 東国編を見れば分かりそう)

天正8年2月廿四日、
氏政から清水康英に韮山城を堅守するよう書状を以て指令(宮崎文書)。
(笠原新六郎政尭の武田勝頼方への寝返りなどの雑説に惑わされないでというメッセージ)

大永4年10月12日
梅原入道が多田山の茅菜取権を認められる。
(大見三人衆梅原家との関連は不明。多田の神主とされるが…)

天文14年3月21日
評定衆の評定の結果、伊豆太夫が伊豆諸芸人の総元締に任ぜられる。
(この時に関与した評定衆というのは笠原美作守(綱信)、清水太郎左衛門尉(康英)の二人だけ)

江川酒について
永禄12年11月10日:謙信宛
天正8年5月7日:長尾左衛門入道憲景宛
天正10年3月11日:織田信長(滝川一益経由)
年代不詳:安中五郎兵衛
年代不詳:北条氏邦

南条因幡守昌治は後に民部に改名した?

天正18年正月20日
北条氏規から雲見の高橋左近将監に対し、鯨を送られた礼状(高橋文書)。

天正10年10月13日
北条氏規から吉田新左衛門にあてて、信濃の斥候が駿河に侵入したことを知らせている(諸州古文書武州)。
(夜襲に気をつけろという)

天正16年2月25日
多米全宗(周防守?)から氏規へ、上洛に関する書状が出される。
(文中には笠原越前守(康明?)の名があり)

天正16年6月10日
北条氏規から秩父孫二郎へ、家康の取り持ちで氏規が上洛することになったが、銭2万貫が入用となり、定めて賦課されるであろう旨の書状。
また、この頃の家康→氏規の際の北条家側窓口は朝比奈泰勝で、名が頻出する。

355名も無き@冒険者:2021/02/21(日) 13:28:21 ID:00bmpWA60
>>252の2行目の愛淵兵部は愛洲兵部が正しい。
ただ韮山町史をもう一度見てみたが、そちらにはやはり愛淵兵部少輔と書かれている。

356名も無き@冒険者:2021/02/21(日) 16:17:41 ID:00bmpWA60
所領役帳に記載の横浜市を領有した武将達(横浜市史より)

星川氏、間宮藤太郎、岡崎修理亮、菊池郷右衛門、朝倉又四郎(寄子?)、宗甫(中村宗甫斎?)、左衛門大夫殿(北条綱成)、
間宮豊前守(康俊であろう)、萩野某、森新三郎、上原出羽守(元:太田資時家臣。資正が北条に反旗を翻した時、自らは北条家に属した)、
太田大膳亮、小幡勘解由左衛門(市史は諱を政勝としている。伊賀守泰久の子)、諏訪三河守、太田新六郎(康資のこと)、
多米新左衛門(青木城の多米との関係は分からないと書いている)、向山(入野氏のことで、入野将監光興)、北条氏照、葛西様(古河公方義氏)
肥田中務(おそらく宅間上杉寄子)、矢野彦六、
(かつて橋本伊賀守も50貫を知行していたが、役帳作成時点ではこの50貫を失い綱成親子に支配が移行している)
(50貫文、本牧の内橋本跡とはそういうことらしい)

萩野について、萩野の領主:松田助六郎康長の一族かもしれないと横浜市史は書いている。
なお、小田原旧記には馬廻衆に萩野右京という人物の名を記している。

小幡伊賀守泰久は永禄9年5月16日の伊豆土倉野の合戦で戦死(享年67歳)。

入野将監光興は子に潮田左馬助光永がいる。光興自身は永禄11年正月23日に、光永は天正12年3月18日に逝去。

357名も無き@冒険者:2021/02/21(日) 16:32:05 ID:00bmpWA60
多米主膳正良宗について(横浜市史(コマ番号115)より)。

天正11年2月、氏政が上野金山城の由良国繁と館林・足利城の長尾顕長の兄弟を招いた。
氏政は【山上郷右衛門】と【多米主膳正良宗】の二人を遣わし、佐野討伐の時等の様々な疑念を詰問した上で城中に幽閉した。
両名の家臣が金山・館林に籠城したので、北条方は【成田左馬介氏長】の兄弟を案内とし、【氏照】【氏邦】【伊勢大和守】【多米主膳正良宗】らで金山を攻めさせ、また館林には【氏規】【太田氏房】【橋本遠江守】【花房内膳正】等が派遣された。
この戦で多米主膳正良宗は城将:金谷因幡守により、太ももを弓で射抜かれたという。(関八州古戦録・野史)

358名も無き@冒険者:2021/02/21(日) 17:38:00 ID:00bmpWA60
横浜市史(コマ番号115)より

多米権兵衛尉について
天正18年。
小田原城に関八州の兵がことごとく籠もったが、その中に多米権兵衛尉と多米彦八郎がいた。(北条記・九代後記・野史)

平尾大膳について
神奈川町耕地に小字名として平尾谷等、青木町には小字名として平尾坂等があり。北条家には平尾大膳という者が仕えていた。
平尾大膳は秀吉の小田原征伐の際に戦死したという。また、元は平尾武蔵と名乗ったらしい。

359名も無き@冒険者:2021/02/21(日) 17:47:51 ID:00bmpWA60
横浜市史稿 政治編一116コマより。
多米主膳正(良宗)は武蔵青木城主である。周防守長定とも記し、周防守長宗の子である。天正18年、小田原籠城の時、大谷帯刀左衛門嘉信(藤澤城主だと記している)とともに400余りの兵を以て上州西牧城を守っていたが、4月中旬、依田康国が攻めてきたので、多米・大谷二人禦戦(ぎょせん。抵抗するという意味か)して戦死し、城は陥落した。

横浜市史稿 政治編一119コマより。
多米権兵衛は、上野西牧城に戦死した周防守長定の子だろうか。そして彦八郎は権兵衛の弟か。青木町の枝郷なる三ツ澤の豊顕寺(?)過去帳に周防守慈父日欽、弥七郎、彦四郎の名は見られるが、権兵衛・彦八郎の名はない。

360名も無き@冒険者:2021/02/21(日) 17:55:02 ID:00bmpWA60
個人的に多米全宗=多米良宗であり、多米良宗=多米長定であると思う。
長定が出家して晩年には良宗または全宗と号したのではなかろうか、と。

361名も無き@冒険者:2021/02/21(日) 18:12:17 ID:00bmpWA60
しかし安藤良整正季の子が安藤清広というのはやはりおかしい。逆なら納得がいく。

362名も無き@冒険者:2021/02/28(日) 14:28:25 ID:00bmpWA60
2019年8月30日16時 東京新聞

豊臣秀次について、死の約三カ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が(29日までに)見つかった。
書状を精査した東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授は「秀次の切腹に至る経緯の解明につながる貴重な発見だ」と話している。
史料は同編纂所が保管していた文書群から見つかった。秀吉の側近が有力大名の毛利輝元に宛て、政治情勢などを伝えた文禄四年(1595年)の書状とみられ、「殿下様(秀次)の若君を大和の国主にする」と秀吉が述べていたとする記載があった。秀次は、書状が書かれた約三カ月後に謹慎を命じられて切腹し、妻や子どもも処刑された。

通説では、1593年に生まれた秀頼を跡継ぎにしたい秀吉の思惑が、秀次の切腹につながったとされてきた。
ただ村井准教授によると、切腹の理由を直接的に裏付ける一次史料は見つかっておらず、近年は通説を疑問視する研究もあるという。
村井准教授は「大和は京都と大坂に接する重要な土地。秀吉は豊臣政権の安定を考え、少なくとも書状が書かれた時点では、秀次一家をつぶすつもりはなかったのではないか。切腹までの約三カ月に決定的な出来事があった可能性がある」と話している。

363名も無き@冒険者:2021/02/28(日) 14:30:59 ID:00bmpWA60
2021年2月2日08時49分 東京新聞より

韮山地域(現伊豆の国市)の代官を務めた江川家で造られ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にも贈られた「江川酒(えがわしゅ)」を復活させる作業が進んでいる。昨年確認された江戸時代の製法書を基に醸造に取り組む伊豆市の万大醸造で一日、三段仕込みの最終段階となるかい入れが行われた。

江川酒は江戸中期の元禄十一(一六九八)年に製造が中止され、「幻の酒」とされてきた。復活すれば約三百二十年ぶり。

一日は江川家四十二代当主の江川洋さん(50)、製法書を確認した江川文庫学芸員の橋本敬之さん(68)が見守る中、杜氏(とうじ)の伊奈静夫さん(73)が、かいを使いタンク内のもろみを丁寧にかきまぜた。今後は温度を調整しながら発酵させる。
仕込みは一月六日に始まり、可能な限り製法書に従っている。現代の日本酒より使う水の量が少なく、通常はどろどろのタンク内もこの日は乾いていた。伊奈さんは「初めて見た。これからどんな酒になるか。ドキドキだ」。江川さんは「復活に意義を感じた取り組みがうれしい。酒を通じて江川家の歴史にも注目が集まれば」と話した。

364名も無き@冒険者:2021/03/06(土) 18:54:10 ID:00bmpWA60
2021年3月6日 16時34分 (共同通信)
信長の小牧山城に最古級庭園か 玉石出土「軍事空間にわび」
織田信長が築いた愛知県小牧市の小牧山城(国指定史跡)で、丸い「玉石」を敷き詰めた遺構が出土した。同市教育委員会が6日までに発表した。枯山水のような庭園と推測され、市教委は「庭を設ける信長の城造りの源流」としている。
 城郭庭園は、信長が小牧山城から移った岐阜城(岐阜市)に造ったのが最古とされており、定説を覆す可能性がある。
 市教委によると、遺構は小牧山の山頂東側で発見。直径5〜15cmの玉石が幅2〜3m、長さ約9・2mにわたって敷き詰められていた。
 滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)は「城郭という軍事空間に相反するわびの空間を作り出している」と指摘する。

365名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 18:00:44 ID:00bmpWA60


366名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 18:03:03 ID:00bmpWA60
橋本外記について
松田尾張守憲秀の部下的(と言っても寄騎に近い)ポジションであったらしい

367名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 21:33:01 ID:00bmpWA60
港区/デジタル版 港区のあゆみ
港区史 通史編 原始・古代・中世
中世 第二章 中世後期の港区域
第三節 小田原衆所領役帳

>早雲が最後に拠点として選んだ小田原城主時代に、相模衆一四家を加え、四六家が初代早雲時代以来の譜代衆である。「小田原衆所領役帳」を調えた早雲の孫氏康は、この四六家から、三家老・五家老・二〇将の合計二八家を制定した。この二八家は後北条氏の軍事編成に対応している。後北条氏の家臣団の頂点に立つ三家老は、駿河国興国寺城代松田尾張守・上野国松井田城代大道寺駿河守・武蔵国江戸城代遠山丹波守である。それぞれ後北条氏にとって東西と北方の戦略的に大切な城であるが、北条領の東の備えとしての江戸城の意味がいかに重要であったかがよくわかる。次に位置するのが五家老で、武蔵国川越城代北条綱成・相模国甘縄城代北条綱高・武蔵国栗橋城代富永右衛門尉(えもんのじょう)・伊豆国下田城代笠原能登守・上野国平井城代多目周防守の五人。この五家老は、戦国大名後北条氏の軍制の中心となっており、北条綱成は黄備(そなえ)、同綱高は赤備、富永は青備、笠原が白備、多目が黒備とされ、後北条氏の軍勢の多くが五色の旗指物で五つの軍団に編成されていたのである。二〇将もまた、この五色の旗指物に分けられて当時備(そなえ)と呼ばれた部隊を編成して軍勢の最前面に配置されていた。また、最後方に布陣する大将の周囲を固める旗本衆は、「い・ろ・は・に・ほ・へ・と」「ち・り・ぬ・る・を・わ・か」「よ・た・れ・そ・つ・ね・な」「ら・む・う・ゐ・の・お・く」「や・ま・け・ふ・こ・え・て」「あ・さ・き・ゆ・め・京」「み・し・ゑ・ひ・も・せ・す」の四八組で七つの部隊に編成されていた。

この最後の方、ひらがなの分類だけど、
数グループに分かれているってのは全くもって初見の情報で驚くばかり(小田原旧記にすらそんなことなかったと思うが)
しかも

>各々旗指物に、かな文字一字を記していたのである。旗本勢と五色の主力部隊の中間に配置されていたのが、三家老とその軍勢であった。他国衆や一門衆は、浮役寄合衆あるいは浮勢と呼ばれた予備軍で、合戦の状況次第で随時に持ち場を指定されて行動する軍勢である。それぞれの軍勢の集団を備(そなえ)と呼ぶが、最前列に鉄砲と弓を装備した徒歩兵が配置され、次段には鑓、その後方に騎兵が控えて備ごとの指揮官が存在した。当時の戦国大名は大体同じような兵種であったが、近年の研究では東国と西国の合戦には相違があったと指摘されている。「日本の武士は馬に乗って移動するが、合戦の場では馬から降りて戦うのが、西洋と異なる」というルイス・フロイスの記述から、一時は、「武田の騎馬隊などというものは存在しない」「戦国大名の軍勢というのは、在地小領主ごとの小部隊の寄せ集めであるから、兵種ごとの部隊編成だったはずがない」という主張が一般書で行われるに至った。

この前・中・後の布陣の作法についても未知のことだったので驚くばかり

368名も無き@冒険者:2022/08/06(土) 21:38:26 ID:00bmpWA60
>367
どうも通常の町史や市史のような文献羅列形式ではないので、
その根拠は参考文献に挙げられた書籍を当たるしかないようである

369名も無き@冒険者:2022/08/11(木) 21:04:18 ID:00bmpWA60
諏訪三河守まとめ

北条家臣。
諏訪氏当主(恐らく。可能性大)。鎌倉公方次いで室町時代には古河公方に仕えた小堤諏訪氏の出身とも。
先祖は古河公方か扇谷上杉家に寺尾を本拠地として与えられた。
寺尾城主。江戸衆に属す。
初名は右馬助(介とも)。永禄二年に三河守となった。(三河守は諏訪当主の名乗り)

河越合戦の折、城中の人間の助命を条件に城を明け渡す交渉を連合軍側としてくるよう氏康から命じられる。
これは関東に根を張る諏訪一族のツテがあったとされる。

寺尾城には、馬術訓練のための馬場を設けたという伝承がある。

天正三年に没。戦死とも。


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