したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

380六太の悩み(5/E):2010/12/25(土) 11:57:34
「主上はご自分の愛撫で台輔が乱れるさまをごらんになりたいのですから、気
持ちよいと感じたら素直に快楽に身をお任せなさいませ。普段なら恥ずかしく
て口にできないこと、やれないことも、それを知るのは主上おひとりですから、
いくらでも言ったりやったりなさいませ。それらもすべて愛の行為なのです。
そしてもしお嫌でなかったら、たまに主上にも同じようなことをして差し上げ
ると主上はお喜びになると存じます」
「俺が、あいつのすることと同じことを――」
 閨でのあれこれを具体的に思い出しているのだろう、いっそう顔を赤くした
六太だったが、それでも何とかうなずいた。そして朱衡が「頼むからこれ以上
聞かないでくれ」と内心で願いつつ返答を待っていると、六太はようやく納得
した顔になった。
「ありがと、助かった」照れた笑みを向けて礼を言う。「変なこと聞いてごめ
んな。俺、こんなこと初めてで何かと判断がつかなくて……。でも内容が内容
だから滅多な相手には相談できなかったんだ。尚隆にも悪いし。でも朱衡なら
昔から俺らのこと知ってるし、忌憚のないところを言ってくれると思って」
 どうやら彼なりに考えてのことだったらしい。自国の麒麟に頼りにされるこ
と自体は純粋に喜ばしいことではあるし、朱衡は素直に六太の感謝を受け取っ
ておいた。それでも彼がほっとした様子で帰っていくと、不意に疲労を覚えて
椅子に座り込んだのだった。

 翌日、六太が大司寇府の執務室に顔を出した。室内を見回して余人がいない
ことを確かめた彼は、昨日のような照れた笑みを見せて朱衡に駆け寄った。
「昨日はありがとな。朱衡の言うとおりにしたら尚隆はすごく喜んでくれた
よ」
 嬉しそうに報告してくる。こんなときばかり律儀にならずとも――と再々度
頭を抱えた朱衡は、何も言わず曖昧にうなずくだけにとどめておいた。
「不思議なんだけど、そうしたら俺もいつもよりずっと良かったんだ。尚隆も
何回もしてくれて、途中で俺があいつのをこすってやったらめちゃくちゃ喜ん
でさ。もう激しくって、今朝方まで寝かせてもらえなかった」
 もはや既にのろけでしかない。
 ひとしきり報告すると六太は「俺、あいつが変態でも別にいいや」と開き
直ったように言い、意気揚々と引きあげていった。残された朱衡は言葉もなく、
ふたたび疲労を覚えて溜息とともに座り込むしかなかった。

381名無しさん:2011/04/20(水) 21:19:22
姐さんの安否が心配…震災からかれこれ一ヶ月以上経ったけど、何事も無ければ良いが

3821:2011/04/23(土) 10:14:39
こちらは大丈夫ですので、ご安心ください。
長らく中断してしまっているのは、書くのが難しい章であるのが大きな理由です。

まだ次の投下の見通しが立たないのですが、
せっかくなので書き逃げスレに尚六の掌編を置いていきますね。

383永遠の行方「王と麒麟(46)」:2011/05/14(土) 23:06:24

 延王尚隆が宮城に戻ってきたとき、既に三月も半ばを過ぎていた。首都関弓
はまだ雪に埋もれていたが、慶国と接する南部の地域なら穏やかな春の息吹を
感じられる頃だ。往路と異なり、経路となった街々にたっぷりと壮麗な行列を
見せて華やぎを与え、人々をお祭気分にさせて彼らに一時の享楽をもたらした
末の還御だった。
 玄英宮ではさっそく朝議が招集され、まずは行幸につきしたがった官から光
州での出来事が報告された。
 二月は例の病は発生せず、謀反に連なると思われる不穏な動きも認められな
かった。そのため残党もおらず一連の事件は終わりを告げたというのが大方の
見方だった。これ自体は明るい報せではあるものの、六太にかけられた呪に関
する手がかりはなかった。いや、術そのものについては既知の呪であったため
詳細までわかっているが、だからと言って簡単に解けるかと言えばそうでない
ことは周知のとおり。
 ついで宮城で留守を預かっていた高官らが、これまでにわかった事柄を相次
いで奏上した。暁紅の邸を捜索した結果や、蓬山に遣わした勅使の持ち帰った
返答、王が不在の間の朝議や内議で検討されたり報告された内容、等々である。
 もちろん六太にかけられた術に解除条件が設定されたことは伏せられていた
ため、それに関係する表現は注意深く取り除かれていた。いずれにしても膨大
な量ではあり、それでいて報告の中にこれといった決め手はなく、現状のとこ
ろ打つ手がないのは認めざるを得ない。何しろ六太は、弱点である角のある額
に触れられてさえまったく反応しないのだ。
 黄医からはさらに詳細な報告がなされたが、やはり現段階で打つ手がないこ
とを再確認しただけに終わった。ただし幸いなことに、昏々と眠り続けている
とはいえ健康上の問題はないし、しかも碧霞玄君から数十年程度飲まず食わず
でいたくらいではなんら差し障りはないとの返答も得ている。それが長年この
王と麒麟に仕えてきた官らの胸中を晴らすことにはならないまでも、何らかの
期限に迫られているわけではないことは大きな救いだった。

384永遠の行方「王と麒麟(47)」:2011/05/18(水) 19:53:22
 そもそも王が失道したわけでもなく、いやしくも天意を享けた王朝なのだ、
このまま謀反人の思惑どおりに終わっていいはずがない。
 長い朝議を終えた尚隆は滞っていた通常の政務をこなし、夕刻近くになって
から内議に冢宰と六官を招集した。高官らは仁重殿の女官を中心に行なってい
るさりげない聴取の成果を始め、これまでの試行錯誤の詳細を事細かに告げた。
尚隆は黙ってそれらに耳を傾けていたが、いったん報告の区切りがついたとこ
ろで冢宰が尋ねた。
「ところで主上。景王からの親書の内容はいかがでしたか」
「六太宛に来たというあれか。非常時ゆえ、開封してはみたが」
「して、内容は」
 すると尚隆は困ったような笑みを浮かべた。
「よくわからん」
「……は?」
「蓬莱の文字で書かれていたからな。それも俺が向こうにいた頃と、かなり変
わったようだ。あるいは陽子が使っているくらいだから女文字のたぐいかも知
れぬ。それでも『陽子』という文末の署名は読めたし、おぼろに意味をつかめ
ぬでもないが、果たして解釈が合っているかどうか。最近の蓬莱文字に詳しい
者に読み解いてもらう必要がある」
「詳しい者とおおせられましても……」
 これまで蓬莱関係については六太に任せておけば良かったので、向こうの文
字を尚隆より読みこなせる者などそうはいない。
「禁軍にいたろう。軍吏に取り立ててやった海客の男が」
「なるほど。確かにおりますな」引き取ったのは大司馬である。「その者は国
府におりますから、宮城に配置換えした上で、親書を渡して翻訳させましょう。
流されてきて数十年経っておりますが、それくらいなら蓬莱文字もそう変化は
しておらぬでしょう」
「しかし宮城内でさえ、不用意に話が漏れないよういろいろ気をつけていると
いうのに、海客などに関わらせるのはいかがなものかと思われますが」

385永遠の行方「王と麒麟(48)」:2011/05/18(水) 21:00:47
 大宗伯が眉をひそめて言う。大司馬とて、これまで海客に良い印象を抱いて
いるとは思えない男だったので、彼が王の提案にすんなり同調したのも他の官
には意外だった。だが、
「海客は軟弱な上に上位の者に対する当たり前の礼儀や敬意を持ち合わせぬ不
遜な輩が多い。そんな者に任せられぬのは道理だが、海客にもきちんとした者
はいる。特に件の軍吏は蓬莱でも軍にいたことから、雁と王朝に対する敬意を
きちんとわきまえており、真面目で口も堅いことがわかっている。拙官も何度
か実際に話をしており、信頼にたる男だと思う」
 大司馬にそう説明され、大宗伯は他の官とうなずきあいながら「そういうこ
となら」と同意した。
「今回の事件を景王にお知らせしたほうが良いのでしょうか?」
 朱衡が尚隆の意を尋ね、他の者も主君の顔を見た。むろん普通ならば他国に
知られることは避けたい。しかしもし返信を要する書簡だった場合、放置すれ
ば逆に疑念を抱かれかねない。卑しくも王である以上、大っぴらに騒ぐことは
なかろうし、むしろ何らかのもめごとを察して気遣いを示してくれるとしても、
事情を知らぬ者によって他国の宮城で話が広まる事態は避けたかった。
 尚隆は事も無げに肩をすくめた。
「まあ、陽子と――景麒には経緯を知らせてやったほうが良かろうな」
「しかし、主上。このような事態を安易に漏らすわけには」
「六太とはひんぱんにやりとりをしていたようだから、音沙汰がなければ陽子
も心配するだろう。それに慶もまだ安定には程遠いが、もう少し歳を取ってこ
なれればともかく、陽子のことだから不審に思えば早々に鸞でも送ってこよう。
書簡の封蝋が玉璽ではなく陽子の私印であったこと、署名が『陽子』のみだっ
たことを考えると、あくまで私的で気楽なやりとりとしか思えぬから、むしろ
話が漏れぬうちに言い含めたほうが安全だ」
「それはそうですが」
「六太と親しかった者を順次聴取して、あれの望みが何であるかをつきとめる
という作業もある。帷湍は他の麒麟にも尋ねたほうがよいと言っていたが、雁
が後援している陽子や景麒なら行き来しても不思議には思われぬ」

386名無しさん:2011/05/19(木) 11:51:28
更新キテタ━━━ヽ(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)人(∀゚ )人(゚∀゚)人( ゚∀)ノ━━━!!!!

387永遠の行方「王と麒麟(49)」:2011/05/21(土) 00:16:37
「そういうことでしたら、台輔と日常的に書簡をやりとりしておられた景王な
ら、確かに一番適当ではありますな……」
「解決の糸口が見えぬ以上、早め早めに手を打つに越したことはない。むろん
海客に親書を読み解かせてからになるが――陽子には開封を詫びねばならぬ―
―小さな紙片に記された短い文面だ、すぐに翻訳できるだろう」
 一同は考えこんだ。蓬山には勅使が「この呪の解法に心当たりがあればご連
絡を」とも伝えてあり、本日の朝議でもいずれ時期を見て再度勅使を立てるこ
とになった。それとは別に、他国の麒麟に尋ねてみるというのも確かに良い手
であると思われた。
「手段を尽くすという意味では、別の手立てもありますな」
 ふと大司馬が言った。他の者が注視すると、彼はしれっとこう続けた。
「冬官府で実験は可能ですからな。安全で確実に解ける条件を設定した上で昏
睡の呪をかけ、他のやり方でも目覚めさせることができないか試せばよい」
「それは……」
 大司空は口ごもった。それは王が不在時の内議で出た素人の思いつきに過ぎ
ず、しかもあの場で大司馬がすぐ引っ込めた案のため奏上には含まれてはいな
かった。そのため主君の前で持ち出されるとは思わず、不意打ちを食らった形
だった。
「いかがでしょう、主上」
「ふむ。危険がないなら、やっても損はあるまい」
 あっさりと応じた主君に、大司空はうろたえた。だが他の官からも異を唱え
る声は出ず、大司空が何を言うよりも早く、大司馬は「ところで朝議にて仁重
殿の女官から出された奏上ですが」と話を変えて彼の言葉を封じた。

 その日の夜になってから大司空は長楽殿に伺候した。大司馬の提案が危険な
ものであることは王に説明しなければならなかったが、このまま六太の昏睡が
続けば、いずれは実験せねばならぬかもしれないと覚悟は決めていた。
 夕餉を摂っていた主君の元に招き入れられた大司空が、懸念もあらわに食事
の邪魔を詫びると、尚隆は彼が何も言わずとも人払いをして女官たちを下がら
せた。

388永遠の行方「王と麒麟(50)」:2011/05/21(土) 00:18:39
「主上。内議でおおせられた実験についてですが、お伝えしておかねばならな
いことがあります」
「言ってみろ」
 大司空は主君の不在時における内々のやりとりを繰り返し、危険な術である
こと、それでいておそらく得るものは何もないだろうことを説明した。
 尚隆は静かに聞いていたが、やがて「それでも呪を解く可能性を見つけられ
ぬわけではないということだな」と念を押した。
「御意」
「そして素人ゆえの安易な思いつきということは、別の誰かが考えついても不
思議のない案ということでもある。実際、既に同じことを思いついた者もいる
だろう」
「はあ」
「ということは、呪を解けるかもしれない可能性があるのに試さないなら、冬
官府に有形無形の非難が集まりかねないということだ。何より使命感に燃えた
冬官自身がこっそり試しかねない。梁興に仕えていた冬官助手のように、動機
さえあれば危険を冒す者はいくらでもいよう。それが雁のためとなればなおさ
らだ」
 大司空はしばらく考えたのち、ためらいながらも「そうかもしれません」と
応えた。尚隆は彼をじっと見つめてから溜息をついた。
「この際はっきり言っておくが、いまだ呪の有効な解法がない以上、長丁場に
なることは覚悟せねばならんぞ」
「主上」
「その間、官府の間で責任のなすりあいが起きるのを極力防がねばならん。こ
れは不信が噴出してからでは遅い。いったん生じた不満は容易には収まらぬも
のだし、しぶしぶ試したあげく有用な結果を得られなかったとなると、その失
望感も上乗せされてしまう。逆に早めに手立てを講じて『こういう方法を試し
たがだめだった』と明らかにしておけば、できるかぎりのことをしていると他
の者は納得するし、無駄な作業に心を残さず、別の有用かもしれない手段に意
識を移しやすくなる。むろん実験で思いがけず解法がわかればもうけものだ
が」

389永遠の行方「王と麒麟(51)」:2011/05/21(土) 00:20:41
 不意に大司空は悟った。先の内議において主君は、既にそのことを考えて許
可を下したに相違ないのだ。さらにはこうして大司空がやってくることも予想
していたろう。
「では……」
「術者に極力危険のないように、そして冬官自身を含めた諸官が、冬官府が手
を尽くしていると納得できるように計らっておくことだ。大司馬はある種単純
な男で、今回のことも悪意があるわけではない。そして彼の提案が多少の危険
を伴うとしても、しこりを残してまで強硬に抵抗する性質のものでもなかろう。
ただでさえ光州の心証が悪くなっているところへ、内朝六官の中でさえ感情の
行き違いが起きるのは避けたい。平時ならささいなことであっても、非常時に
はゆがみが大きくなる」
 大司空はいったん考えこみ、しばらくしてから口を開いた。
「そうしますと……むしろ冬官の中から自発的に出た案という形にしたほうが
いいですな。実際に考えつくかぎりの案を部下に出させ、すべて試してみるこ
とにしましょう。それなら外部からの圧力に因ったことにはならないため外聞
もいいし、内部の者の不満もたまりません。大司馬が提案した以上のことを行
うことで、彼への牽制にもなります」
「任せる」
 尚隆はそう言ってから、ふと何かを探すように一瞬視線を傍らにさまよわせ
た。そうしてからにやりとする。
「くれぐれも気をつけることだ。実験で術者にもしものことがあれば、六太が
目覚めたあと、あれに罵倒されるのは俺なのだからな」
 大司空は緊張の残る表情に何とか微笑を浮かべて応え、主君のもとを退出し
た。

 翌日、尚隆は昼餉を済ませてから仁重殿を訪れた。彼は前日の朝議で、女官
らが文書による奏上で求めた六太への褒美を認め、目録を提出するように指示
していた。そして仁重殿を訪れてから、直接女官らをねぎらった。それから六
太が眠っている臥室に赴き、ずっと詰めている黄医に容態を確認したが、依然
変化なしとの答えだった。

390永遠の行方「王と麒麟(52)」:2011/05/21(土) 00:23:04
「下界においても、頭を打つなどして長期の昏睡に陥る者はおります。むろん
只人の場合は数日のうちに意識が戻らねば生命に関わるわけですが、症状の程
度はさまざまで、石のように動かない者がいる反面、外部からの刺激に反応こ
そしないものの、目を開けるなどの自立的な動きを見せる者もおります」
 黄医はそう言って、さまざまな症例の中に六太を目覚めさせる手がかりがな
いか調べさせていると告げた。
「ところで六太は、身じろいだりぼんやりと目を開けたりすることもあるわけ
だが、たとえば粥のようなものを食べさせることはできぬのか?」
 尚隆の問いに黄医は驚いた顔で首を振った。
「それは……試してはおりません。市井の者が昏睡に陥ったときは、何とか水
分を取らせるために唇を湿らせたりもするようですが、ご承知のようにもとも
と神仙は飲食をせずとも簡単には死なない存在です。特に麒麟は角を通じて天
地の気脈から力を得られます。碧霞玄君のお墨付きもありますし……」
「だが飢えや乾きはつらいものだ。既にふた月近く経っていることだし、死な
ないからといっても肉体は悲鳴を上げているだろう」
 尚隆は牀榻の奥に足を踏み入れた。帳は巻き上げられて、臥牀の様子がよく
見えるようになっている。女官らは今では朝は帳を開けて光を入れ、夜は帳を
おろすようにしていた。そうやってささやかながらも生活にめりはりをつけれ
ば、六太に良い作用があるように思えたからだ。
 尚隆は枕元に腰をおろすと、しばらく半身の様子を窺った。
「今はうっすらと目を開けているな」
「はい。一日のうち何度かこのように目をお開けになりますし、たまに身じろ
いだりもなさいます。しかしながら意識のないことは確かです」
「ふむ」
 尚隆は少し考えてから、六太の背に左腕を差しこんで上体を起こした。そう
してさらに考えたのち、水で湿らせた綿を女官に持ってこさせた。主君の意図
を察した黄医は「下手なことをすれば台輔を窒息させてしまいます」とあわて
たが、尚隆は六太の顎を支えて慎重に角度をつけた上で唇に綿を押しつけ、ほ
んのわずか喉に水滴をたらしてみた。

391永遠の行方「王と麒麟(53)」:2011/05/21(土) 00:25:27
 すると唇の端から水をしたたらせながらも、六太は反射のようにごくりと喉
を動かした。手元を覗きこんでいた黄医は感極まったように「おお」と声を上
げた。
「よし。飲めるようだな」
 尚隆は今度は果汁を満たした杯を持ってこさせた。先ほどよりしっかり六太
の上体を支えてから果汁を口に含み、右手で六太の顎をつかむと、口移しの要
領で少しずつ喉に果汁を流しこむ。すると顎を伝ってかなり臥牀にこぼれはし
たものの、六太はささやかな一杯を飲むことができた。
 尚隆は顔を輝かせている黄医にうなずきながら内心で、意識のあるときにこ
んな口づけまがいの真似をされたら、尚隆を殴りはしないまでも全身で抵抗す
るだろうなと、ほんの少しおもしろく思った。
「いくら神仙でも、断食が続けば意識が戻ったとき食物を摂ること自体が難し
くなる。目覚めたあとの回復を早めるためにも、少しでも摂取させておくに越
したことはない」
「確かに水や果汁を少しずつお飲ませすることはできましょうが……」
 黄医が安堵の中にも困ったような顔をしたので、尚隆は「なんだ」と尋ねた。
「畏れながら、拙官どもが尊き台輔に口移しをするわけにはまいりません」
「そうか」尚隆は苦笑した。「ならば俺が暇を見て見舞い、その都度飲ませる
ことにしよう。それ以外は先ほどのように湿らせた綿などで試せばよかろう。
むろん無理は禁物だが」
「かしこまりまして」
 綿や果汁を持ってきた女官たちは牀榻の外で成り行きを見守っていたが、今
は安堵のあまり泣きそうな顔をしていた。尚隆がそれへうなずくと、彼女らは
深々と拝礼した。

392永遠の行方「王と麒麟(54)」:2011/05/21(土) 00:27:34

 王が還御して数日も経つと、宮城は表面上は普段の装いを完全に取り戻した
ように見えた。今打てる手はすべて打ってしまったので、あとは良い結果の訪
れを待つしかなかったし、王が宮城にいる以上、政務の滞りもなかったからだ。
靖州侯の政務については令尹が代行している。首都州侯という麒麟の地位は名
目上のものに過ぎず、実務の大半はもともと令尹と州宰によって執り行われて
いただけに、これまた特に問題は起きていなかった。
 新たに深刻な事態が持ちあがることもなく、六太のことさえ意識から追い
払ってしまえば以前と同じように日々を送れてしまうことに、朱衡は複雑な思
いに駆られた。朝議の際も、ふと壇上の玉座の傍らに宰輔の姿を探してしまう。
日頃は何かと困らせられてきたとはいえ、六太の元気の良い声を聞けないのも、
威儀などどうでもよいとばかりにばたばたと宮城を走るさまを見られないのも、
正直なところ淋しかった。
 内殿の王の執務室に赴いた際も、つい主君の傍らに目を泳がせると、目ざと
く見つけた尚隆が「なんだ?」と問うた。
「いえ……」何となく気後れしながらも、朱衡は答えた。「何だか奇妙な感じ
がしまして」わずかに眉をひそめた尚隆に説明する。「主上も台輔も宮城にお
られる場合、台輔はよく主上とご一緒でしたから。しかしながら今は朝議の際
もお姿はなく、違和感と申しますか、どことなくおさまりが悪い気がします」
「そうか?」尚隆は意外そうに言った。「俺などは、いちいちうるさく口を出
されなくて静かでいいがな」
「はあ」
「まあ、そのうち気にならなくなるだろう。何にでも慣れるものだ」
 平然とした顔で書類をめくる主君に、朱衡は一抹の淋しさを覚えた。もちろ
ん王にあわてふためかれても困るのだが。
「……確かにそうだな」
 やがていくつかの書面を吟味し、朱衡に遠慮なく一部の書類を突き返した尚
隆がつぶやいた。朱衡が黙って首をかしげると、尚隆は困ったように「視界の
端でうろちょろする六太がいないと、静かすぎて調子が狂う」と答えた。

393書き手:2011/05/21(土) 00:30:39
次の投下まで、またしばらく間が開きますが、前回よりは短くて済むかと。
以下、予定や書き手の事情を知りたくないかたはスルーでお願いします。







前回かなり長く中断してしまったこともあって、見通しについて触れておきます。
全体の章立てはこうなっています。

 ・序
 ・予兆
 ・呪
 ・王と麒麟(尚六的「起」)← ★今ここ★
 ・絆(仮題。尚六的「承転」。基本はメロドラマ)
 ・終(エピローグ&尚六的「結」。たぶん短い)

そのため現在は、章立て的には折り返し点を過ぎたあたりとなります。

ただ、もともと「予兆」章と「呪」章はひとつの章だったのを
長すぎるため公開に当たって分けただけで、構想的にはふたつで一章。
(それでも予想以上に「呪」章が長くなってしまいましたが)
したがって実際の折り返し点は今の「王と麒麟」章の半ばとなり、
これまたそれなりに長くなる予定の章とあってまだ先の話です。
つまり完結まで、少なくとも今まで費やしたのと同じくらいのレス数を消費するかもしれず、
まあ、その……気長にお付き合いいただけると嬉しいです、という話だったりw

なお前回の長期中断は、実は入院&通院してた影響が大きく、
別に十二国記の二次創作への熱が醒めたということではないのでご安心を。
中断中も、ここに出していないだけで小品は書いていたし、
そうやって気分転換しつつ、要はマイペースでやってます。

ところで原作で進展があったとしても、残念ながら取り入れられないと思うので
その場合は完全にパラレルということになります。
実際、当作品の投下開始後に出たyomyomの短編の設定も入れていません。
無意識のうちに影響は受けているかもしれませんが。

もっとも現時点でこれだけ捏造過多だと、その手のものが苦手なかたは
既にご覧になっていないとは思いますが、いちおうご注意まで。

394aya:2011/05/21(土) 23:09:46
割と頻繁にこっそり覗きに来ています。
最近更新されてて嬉しいです^^
また楽しみにしてますv

395永遠の行方「王と麒麟(55)」:2011/06/04(土) 07:13:08

 空が暗くなったと思うと、にらんだとおりやがて雨が降りだした。鳴賢は筆
を置いて立ち上がった。玻璃の窓の傍らに立って流れ落ちる雨粒を眺めると、
途端に思考がさまよいだし、災難が六太を襲ってからどれくらい経ったのだろ
うかと考えた。まだ二ヶ月――いや、もう二ヶ月だと陰鬱な思いで認める。
 いまだに何の音沙汰もない。国府から何か言ってくることはないにしても、
意識さえ戻ったなら、六太のことだから顔を出してくれるに違いないのに。
 しばらくの間ぼんやりと外を眺めていた彼は、やがて書卓の上を照らすべく
燭台の灯りをつけ、ふたたび腰をおろして勉強を続けた。そうして固くなった
饅頭をちょっと口にしただけで夕餉も摂らずに熱心に書卓に向かっていると、
夜も遅くなってから扉をたたく音がした。
「文張か? 開いてるから勝手に入れよ」
 机にかじりついたまま声を張りあげる。だが室内にすべりこんだ気配が発し
た「俺だ」という声は別人のものだった。驚いた鳴賢は振り向くなり、「風
漢」と立ち上がっていた。風漢は片手で酒壷を掲げて見せながら、親しげな笑
顔で「元気か」と言った。
「どうして、ここへ」
 六太は「閹人(もんばん)と知り合いになってさ」「俺、楽俊の身内みたい
なもんだし」と言い訳してほいほいやってきていたが、大学寮は凌雲山の中に
ある。出入りの際は普通、閹人の誰何(すいか)を受けるはずだし、外部の者
は夜間、基本的に雉門を通れないはずだ。
 だが――そう、意外にも風漢は官吏だったのだと思い直す。六太は「小間使
い」などと表現していたが、同じ場所で働いているとも言っていた気がする。
ということは実際は宮城に仕える高官ではなかろうか。ならば下界からではな
く、雲海上からやってきたということか。鳴賢の房間の場所も、もともと知り
合いだったらしい楽俊に尋ねればすぐわかることだろう。
 相手は、一瞬の間にそんなことを考えた彼をよそに眉根を寄せた。
「少しやせたのではないか? ちゃんと食っているか?」

396永遠の行方「王と麒麟(56)」:2011/06/04(土) 12:35:55
「大丈夫だ」
 口ごもりながら言葉を返した鳴賢は、どんな態度を取るべきか迷った。相手
自身が身分を明かしたわけではないにしろ、官吏だとわかった以上、丁寧に応
対したほうがいいのだろうか。それに風漢の外見こそ鳴賢より年下だが、仙籍
に入っているなら、はるかに年長ということもありうる。
「あの。風漢、さん――」
 すると風漢は驚いた顔になり、ついで苦笑した。
「おまえに『さん』付けされるとは思わなかったぞ」
「だって、その。ええと、官吏なんだろう……?」
「俺が? 誰に聞いた?」
 反射的に「台輔に」と言おうとしてかろうじて思いとどまり、「六太に」と
答える。もしかしたら、実は六太の正体を知らないかもしれない。何よりいく
ら宮城に勤めていても今回の事件の詳細を知らされているとは限らず、不用意
なことは言えないと遅まきながら気がついた。
「いつだったか、六太があんたと一緒に府第みたいなところで働いているって
言ってたんだ」
「そうか」
 風漢はうなずくと、しまいこまれていた床机を引き出して座り、卓子の上に
酒壷と懐から出した包みを載せた。包みの中は手づかみで食べられる軽食のた
ぐいだった。
「差し入れだ。最近、顔を見なかったから、どうしているかと思ってな」
 鳴賢は物入れから杯をふたつ取り出すと卓子に置き、向かいに座った。とり
あえず相手の出方を見るしかない。風漢は杯に酒をそそぎ、軽食とともに勧め
た。
「勉強も大事だが、身体を壊しては何にもならんぞ。たまには息を抜いたほう
がいい」
 鳴賢はあいまいにうなずきながら杯を受け取った。そうしてしばらく勧めら
れるままに飲んで食べていると。

397永遠の行方「王と麒麟(57)」:2011/06/07(火) 20:03:23
「心配をかけてすまんな」
「え?」
「六太のことだ」
 彼を凝視した鳴賢は、それでも慎重に口をつぐんでいた。
「相変わらず意識はない。だが幸いなことに体は健康と言える」
「風漢さんは――」
「風漢、でいい。今までと同じでかまわん」
 鳴賢はいったん言葉を飲み込んでから言うべきことを探し、ふたたび口を開
いた。
「その、風漢は……最初から六太の正体を知っていたのか?」
「いや。最初はただの餓鬼だと思った。麒麟だと知ったのは少し後だな」
 あっさり答えた相手に、ごくりと唾を飲みこむ。彼は明らかに六太の身分も
今回の事件も知っている。ということはどこかの殿閣の下働きなどではなく、
下吏でさえなく、やはりそれなりの官位に違いない。
「つまりあんたは、玄英宮に出仕している官吏だってことだよな……?」
「そんなところだ」
「まさかあんたが国府の高官とは思わなかった。台輔から」と言いかけて「六
太から役人だと聞いたときも驚いたけど」と言いなおす。だが風漢は咎めるで
もなく、おかしそうに眉を上げた。
「それほどたいそうなものではないぞ。雑用ばかりやらされている小間使いだ
からな」
「もしかして六太のいる仁重殿にでも仕えているのか?」
「いや、あちこちで用をこなしている。要は何でも屋だ。だが、だいたい内殿
や正寝にいることが多いかな」
「正寝……」鳴賢は絶句した。内殿が王が政務を執る場所であり、正寝が王の
私室だということは知っていた。「じゃあ――まさか、主上にお目にかかった
こともあるのか?」

398永遠の行方「王と麒麟(58)」:2011/06/07(火) 22:11:51
「おう。あるぞ」
「その、どんなかたなんだろう? やっぱり名君だと思っていいのか?」
「ふむ」風漢はおもしろそうに顎をさすった。「どうだろうな。普段はあまり
良い話は聞かんが。側近に小言をくらったり、たまに罵倒されてもいるよう
だ」
「罵倒?」
「昔、朝議にすら、混ぜっ返すくらいなら出てこなくていいとまで官に言われ
たこともあるほどだからな」
 そう言って気楽に笑う。だが相手の受けた衝撃と混乱に気づいたのだろう、
すぐこう続けた。
「王のひととなりなど、俺が言うことではない。それに人間の評価などという
ものは、見る者によって変わるものだ。そんなものはいずれ実際に王に会った
とき、おまえが自分の目で判断すればいい」
 言葉面こそそっけないが、まなざしは穏やかで声音も温かかった。これまで
抱いていた彼の印象にはそぐわない。こんなふうに話すこともできるのかと、
鳴賢は意外に思った。
「だが、いずれにしろ六太のことは王なりに大事に思っているのは確かだ。幸
いにも呪者の残党はおらず、謀反のくわだては終わったと考えられる。六太が
目覚める完全な解決はまだ先になりそうだが、王が六太を見捨てることだけは
ありえない。それは信じてくれていい」
「そのう……ありがとう、それを聞いて安心した」
 鳴賢は気づいた。六太と同じように、風漢が「主上」ではなく「王」と表現
していることに。その意味するところまではわからず一抹の不安を覚えたもの
の、気遣ってくれているのは明らかで、その思いやりは素直に嬉しく思った。
「ところでこうして訪ねてきてくれたのはありがたいけど、ちょっとまずいん
じゃないか」
「うん? なぜだ?」

399名無しさん:2011/06/09(木) 22:24:41
うおお来てたマジお疲れ様です
ドキドキしつつまったり待ってます!

400永遠の行方「王と麒麟(59)」:2011/06/11(土) 09:48:56
「六太の身に起きたことは、少なくとも下界じゃ秘密にしとかないといけない
だろう? なのにこうして俺のところに来ると、いらぬ詮索をされかねない。
それに俺にもあまり詳しいことは教えないほうが安全だと思う」
「俺のような風来坊がこんなところに来たとて、悪い遊び仲間におまえが誘わ
れていると思われる程度のことだ。まあ、おまえの損にはなるか」
「俺は気にしない」
「それにおまえは信頼できる」
 思いがけない言葉だった。
「おまえ、最初に国府で尋問されたとき、王が昏睡状態に陥っていることを伏
せていたろう? あくまで六太が、王に危害を加えられなければ言うことを聞
けと脅されたことにしたな? そして大司寇の前に引き出されてから、やっと
すべてを語った」
「……なぜ、それを」
 茫然となりながらも、鳴賢はようやくそれだけ言った。王の意識がないこと
を知っているのは雲海の下では謀反人だけという六太の言葉を思い出し、低い
位の官もいる国府では迷いながらもとっさにぼかしたのだ。
「国府では酷い扱いを受けたようだが、その原因のひとつが、おまえが事件の
内容を一部伏せたため、供述の印象に不自然さを与えたことにあるのだ。だが
おまえは王の身に降りかかった災難、六太が身代わりになったことで本当に解
消したかどうかわからない深刻な事態について、しかるべき官が相手でなけれ
ば明かしても意味がないどころか混乱を招くだけと判断したようだな。我が身
の安全を図るより国を守ることを優先したおまえ自身も、おまえの判断も信頼
できる」
「あ、ありが、とう……」つっかえながらも礼を口にする。それからじわじわ
と、思いがけず自分の誠心を認めてもらったことの嬉しさが湧いてきた。

401永遠の行方「王と麒麟(60)」:2011/06/11(土) 12:34:37
「で、六太のことだが、今回のことでは皆一様に衝撃を受け、何とか六太を救
おうと奔走している。王は蓬山に使いを出して、呪の解法を相談しているそう
だ。また先日は景王から、自分にできることがあれば何でも遠慮なく言ってく
れとの申し出があったと聞く。六太は景王とも親交が深く、何度も私的に金波
宮を訪問しているくらいだから、景王も本気で心配している。今回の事件に関
してはむろん箝口令が敷かれているものの、景王には既に事件のあらましが伝
えられたくらいでな」
 蓬山。景王。箝口令。風漢の口から当たり前のように飛び出す言葉は、恐ろ
しいほど日常からかけ離れていた。
「それに知っての通り、六太はああいう気さくな性格で面倒見も良い。だから
友達が多いし、政務を怠けて頻繁に王宮を抜け出す割には官の受けも悪くない。
皆、苦笑いをしながら結局は見逃しているからな。六太を直接見知る官で、好
意を持っておらぬ者などまずいないだろう。
 というより皆、六太には甘いのだ。何しろ見た目は年端もいかぬ少年だし、
本人もしばしばそれを利用して、無邪気なふりで官に菓子をねだったり、あど
けない様子を見せて叱責を免れたりする。あれでけっこう策士だぞ」
 にやりとした相手に、鳴賢も調子を合わせて何とか笑みを浮かべた。
「ただ、あの呪というやつは厄介だ。それでも六太は麒麟だから今のところ健
康上の問題はないし、したがって何かの期限に督促されているわけではない。
解決まで多少時間はかかろうが、玄英宮は六太を救うべく手を尽くしている。
おまえも心配だろうが、しばらく見守っていてくれ」
「ああ……わかった」
 鳴賢はうなずいた。そのことを伝えるために、自分を安心させるためにいろ
いろ教えてくれたのか。一介の大学生にこんなことまで明かしたら、それなり
の地位にいても、ばれたら風漢はまずい立場に追い込まれるのではと心配に
なったが、それでも気遣いはありがたかった。
「あの。六太のことで気になってたことがあるんだけど」
「言ってみろ」

402書き手:2011/06/11(土) 12:36:50
こんな感じで、今月いっぱいくらいは
ちまちま投下していくと思います。

403永遠の行方「王と麒麟(61)」:2011/06/14(火) 23:08:37
「俺、六太をおぶって国府に連れて行ったんだけど、六太の身体がすごく軽く
て恐かったんだ。もしかしてあれも呪のせいなんだろうか」
「いや。麒麟はもともと体重が軽いそうだ。騎獣でも空を飛ぶものは体が軽い
傾向があるから、同じことかもしれん。人型では無理だが、六太も麒麟の姿に
なれば飛行できるからな」
「そうか。良かった」
「他に何か聞きたいことは?」
「じゃあ――そうだな、この際だから。もしかして風漢は大司寇府か秋官府で
俺のことを聞いたのか?」
「そんなところだが、実を言えば俺もあの場にいたのだ。おまえが大司寇の前
に引き出されたとき、衝立の後ろで控えていた」
「えっ……」
 驚愕のあまり、思わず腰を浮かせる。
 だが考えてみれば、あのとき大司寇は鳴賢を連れてきた国府の下官らを退出
させただけだ。六官ほどの高官なら、もともと見えない場所で邪魔にならない
よう部下が侍っていても不思議はないし、彼らまで下がらせたわけではない。
「それって、あんたが大司寇の側近ってことだよな? 要するにかなりの高
官ってことで……」
 まさか大司寇の次官である小司寇ではあるまいな。そう考えて顔をこわばら
せた彼を、風漢は「阿呆」と笑い飛ばした。
「小間使いだと言ったろう。俺はあの嫌味な大司寇にいつもこき使われている
のだぞ」
「嫌味って……」
「おまえは知らんだろうが、あの大司寇はな、今の王の登極時に『雁を興す興
王か、滅ぼす滅王か、どちらの諡がいいか選べ』と迫った剛の者だ。穏やかそ
うに見えて気が短いから、俺もいろいろ苦労している」
 風漢はそう言うと、何と返していいかわからず途方にくれた鳴賢を前に心底
おかしそうに笑った。

404永遠の行方「王と麒麟(62)」:2011/06/15(水) 22:20:40

 その後に交わされた会話は謀反と関係なく、他愛もない内容ばかりだった。
風漢は宮城で流れている害のない噂、下働きの間で交わされたちょっとした笑
い話といったあれこれをおもしろおかしく語った。六太の近況がわかったこと、
何より酔いが回りはじめていたこともあって、鳴賢は徐々に気分がほぐれ、雲
海上での出来事とあって興味深く聞いた。
 やがて鳴賢の元に本を借りに来た楽俊や敬之が加わり、彼らがさらに酒と食
べものを持ち込んで、男同士の気楽な小宴会となった。だが最後は結局酔いつ
ぶれてしまったようで、鳴賢が気づいたときは既に朝。楽俊と敬之は狭い臥牀
の上で同じようにつぶれていたが、風漢の姿はなかった。
 そのときになって遅まきながら新たな疑問が湧いてきた鳴賢は、せっかくだ
からもっといろいろ尋ねれば良かったと後悔した。
 しかし思いのほか早く次の機会がやってきた。数日後、午後も遅くなってか
ら、ふたたび風漢が寮に姿を見せたのだ。学生の大半はまだ授業を受けている
時間帯だが、必要な允許の残りが少ない鳴賢は、受けねばならない授業自体も
限られる。したがって自室での勉強が主体になっていることを知っているのだ
ろう。
 今日の風漢は手ぶらだった。彼は「屋内にこもっているばかりでは気が滅入
るぞ。つきあえ」と言い、鳴賢を強引に街に連れ出した。凌雲山を出たのは久
しぶりで、関弓の街を歩いて気持ちの良い風にさらされると確かに気晴らしに
なった。
 伴われた先は、学生らがよく行く安酒場のたぐいではなかった。途を歩きな
がら、門構えからして至極立派な高級な菜館のひとつを見上げた風漢は、「こ
こにするか」とさっさと大門をくぐった。出てきた主人と一言二言話をした彼
は、一階にある広い飯堂ではなく、三階の奥まったところにある立派な房室に
通された。おっかなびっくり後に続いた鳴賢は、案内してきた店の者が下がっ
てから「ここの常連なのか?」と尋ねた。
「いや、初めてだ」無造作な答え。

405永遠の行方「王と麒麟(63)」:2011/06/18(土) 10:19:22
 室内の豪華な調度類を見回した鳴賢は、少々居心地の悪い思いをした。しか
し安酒場で語らうのと違い、誰かに聞かれることもあるまいと気が楽になる。
街に連れ出されたとき、人目のある場所で六太のことなど話題にできないと思
い、どうやっていろいろ尋ねようと考えたが、ここなら心配はなさそうだ。
 店の者はまず酒と簡単な肴を運び、ふたりがそれに手をつけている間に豪華
な料理の皿をいくつも運びこんだ。彼らは風漢が人払いをすると、丁寧に礼を
してから退出した。
 ふと鳴賢は手元の料理の皿を見下ろした。
「……六太の体は健康だって言ってたけど、意識がないってことは、水も食べ
ものも摂れないってことだよな?」
「基本的にはそうだ。だが幸いなことに、水や果汁なら何とか飲ませることが
できるようになった」
 風漢は、湿らせた綿で少しずつ喉に水を流しこむと六太が反射のように飲み
こむこと、ごく薄い粥のようなさらさらとしたものなら、さじですくって口の
奥に入れてやれば、これまた反射のように飲みこませることができるとわかっ
たと告げた。
 宮城ではちゃんと世話をされているだろうと想像していたものの、具体的に
説明されて鳴賢は安堵した。
「良かった……。六太自身は飲まず食わずでも大丈夫って言ってたけど、蓬莱
では貧しくて飢えたとも言ってたんだ。そのせいで親に捨てられたって。なの
に、いくら意識がなくても、また飢えと乾きにさらされるのは、って思ってさ」
「大丈夫だ」風漢は安心させるようにうなずいてから「ところで」と話を変え
た。
「おまえ、これまで六太とどんな話をした?」
「……なぜ?」
「呪を解くためには、六太の一番の願いとやらを突き止めねばならんことはわ
かっているだろう?」

406永遠の行方「王と麒麟(64)」:2011/06/18(土) 23:03:04
「うん」
「その手がかりを得るためには、六太の心情を理解せねばならん。心情を理解
するためには、六太が語った言葉をいろいろと知らねばならんのでな」
 鳴賢は首をかしげた。
「でもあのとき起きたことは全部大司寇に申しあげたし、今さら俺に聞くこと
なんか。第一、宮城に勤めているあんたのほうがずっと詳しいはずだろう?」
「そうでもないぞ。確かに俺はこれでけっこう長く宮城にいるゆえ、六太のこ
とをよく知っているつもりでいた。政務を怠けてひんぱんに抜けだす六太は、
これまた怠け癖のある俺と利害が一致したこともあって、一緒に見張りを出し
抜いて逐電することも多かったしな。しかし大司寇とともにおまえの話を聞い
ていて、実際は何も知らなかったことを思い知った。そもそも六太が蓬莱で親
に捨てられただの飢えただのという話は、俺は初耳だったのだ」
「へえ。意外だな」
 日頃から親しく言葉を交わしていたようだから、たまに会ってちょっとやり
とりする程度の鳴賢らよりずっと六太のことを知っていると思っていたのに。
実際、ふたりの遠慮ないやりとりを聞いたかぎりでは、身分の差があるとはい
え相当に親しそうに見えた。
「俺に比べれば、むしろほとんど行動をともにしなかった他の官のほうが詳し
いかもしれん。たとえば光州に六太と親交のある官がいて、昔、その細君が薬
狩りに六太を伴ったそうだ。そのとき、薬草を見分ける際に蓬莱にいた頃の話
をし、草の根をかじって飢えをしのいだことがあると言ったらしい。だが俺は
それほど悲惨な生活を送っていたとは思わなかった。最近になって別の官も
言っていたが、六太は『王という存在は民を苦しめるだけ』と言ったこともあ
るそうだ。もっとも似たようなことは俺も耳にしたことがあるが、適当に聞き
流したので理由までは聞かなかった。だがその官によると六太は、蓬莱で庶民
として生まれ、戦乱に明け暮れるその土地の為政者に相当苦しめられたらしい。
要は呪にかけられる前におまえが聞いた内容と似たようなものだが――蓬莱が
長く戦乱の時代であることは俺も知っていたが、六太の言動は自身の経験に由
来するのではなく、市井の民人の貧苦に心を痛めたがゆえだと思っていた」

407永遠の行方「王と麒麟(65)」:2011/06/22(水) 00:10:14
 淡々と語る風漢を見ながら、ふと鳴賢はどこか淋しげだと感じた。相手の表
情は平静だったし、語調も穏やかだったから、そう考えるのは不思議なこと
だったが。
「むろん、そういったことを六太から聞いていた官はごく一部だ。おそらく片
手で足りようし、今挙げた者たちも、少なくとも六太の過去についてはそれ以
上のことは知らないようだ。あれで六太は擬態がうまいからな、容易に本心を
悟らせん。些細なこと、他愛もないことならむしろ開けっぴろげにうるさいく
らい語るというのに、こうと決めたことはとことん口をつぐんで気取らせない。
誰に似たのか、けっこう頑固だ」
「ああ――言われてみればそうかも知れない」
「だから六太の心情を理解しようにも、おそらく玄英宮では、いや、どこであ
ろうと王や官に対しては、あまり突っこんだ話はしなかったと思われるのだ。
だが知ってのとおり六太は下界にも知己が多い。ということは彼らを聴取すれ
ば手がかりを得られる可能性があるのだが、理由を伏せたまま、誰にどうやっ
て聴取すればいいのかという問題がある。それでまずは今回の事件のことを
知っているおまえに、これまで六太と交わした話を細部まで思い出してもらい
たいのだ」
「そういうことか」
「もちろん上にいる連中も、俺がおまえの聴取に当たっていることは承知して
いるし、何を言っても咎められることはない。すべては六太のため、雁のため
だと思って、細大漏らさず教えてくれ」
「わかった」
 納得した鳴賢は記憶の糸をたどった。宮城の高官たちも承知だと聞かされれ
ばまったく緊張しないはずもないが、酒もある飲食の場で、見知った男が相手
というのは非常に話しやすかった。それに友人にさえ相談できず、ひとりで抱
えこむ日々は精神的に多大な負担を強いていたから、すべてを承知している相
手と遠慮なく話せるのはありがたかった。

408永遠の行方「王と麒麟(66)」:2011/06/22(水) 00:28:20
「そう言われてみると――うん、思ったよりいろいろなことを聞いた気がする。
確かに官には話せないと言ってたこともあった。というより、俺らが官吏に
なったらもうそういう話題は出せないって言いかただったように思う。そのと
きの話題は王は人柱だなんて内容だったから、当然と言えば当然だけど」
「人柱?」
「うん……」
 得々と語るような内容ではないため、自然と声を落として説明することに
なった。
(雁も永遠じゃない)
(王は――人柱、みたいなものじゃないかって。だから雁が安泰でいられるの
は、王が人柱であることに甘んじている間だけだって)
(王だって人間なんだ。時には弱音を吐きたいときもあるだろうし、泣きたい
ときもあるだろう。そういうのを全部ひっくるめて王を認めてほしい)
 風漢は黙って耳を傾けていた。
「俺にとって主上は文字通り神だ。だからそのときは正直むっとした。でも六
太は日頃から主上のおそばにいたわけだから、今にして思えば主上が悩んでお
られるのを見たとか何とか――とにかく根拠はあったんだろうな。でもいくら
六太でも、主上に成り代われるわけじゃないから、それで思い詰めていたのか
もしれない」
「思い詰めていた、か」
「でなかったら、人柱だの何だのって発想はできないだろ」
 力なく笑ってみせると、風漢は「なるほどな」とうなずいた。
「あんたはこの手の話を六太から聞いたことはなかったのか?」
「ああ」
「そうか。そうだよなあ。ただでさえ相手を選ぶ話題だし、おまけに六太は宰
輔だ。そんな立場にある臣下が堂々と官に話したら、それだけで不穏な空気が
流れるだろう。当然、主上にも申しあげていないだろうな。不敬な内容なのは
確かなんだから、いくら主上が寛大なおかたでも不快になられるはずだ」

409永遠の行方「王と麒麟(67)」:2011/06/25(土) 07:39:42
 そこまで話すと鳴賢は黙りこんだ。風漢もあえて先をうながさずに杯を重ね、
気詰まりではないが真摯な沈黙の中で、鳴賢はもう一度あのときの会話を思い
返していた。
「……六太は言っていたっけ。人間としての悩みや苦しみと無縁でいられるわ
けじゃないのに、王には王としての振る舞いしか許されないって。崇めたてま
つることが逆に王を孤独にすることもあるって。俺、今になってようやくその
ことを想像できるようになった。なんて哀しいんだろうって思うようになった。
だって冷静になって考えれば六太の言ったとおりなんだ。大半の民にとって、
王なんてものは失政をせずに暮らしの安寧を保ってくれさえすればそれでいい
んだよ。王が何を思い、何を悩み、何を喜ぼうと、どうでもいい。つまり誰も
王個人の感情なんて気にしないし、そういう存在だとも思わないんだ」
「ではおまえ自身は、延王にどういうふうでいてほしいのだ?」
 不意に尋ねられ、鳴賢は言葉に窮した。「う、ん――そうだな……」あれこ
れ考えた末に、ようやくおぼろな答えを引っ張り出す。
「そう――俺たち民が幸せになるだけではなく、主上にも幸せでいてほしいな。
だって人柱だなんて悲しいじゃないか。いったん王になったら王として以外に
生きられないなら、せめて王であることで幸せだと思っていただけることがあ
ればと思う。だからと言って、どうすれば主上がそう感じてくださるかはわか
らないけど」
 風漢はしばらく黙っていた。何となく鳴賢が答えを待っていると、やがてこ
う言った。「王には自分で自分を救えるだけの強さが必要なのだ」と。
「あまり思い詰めることはない。民や自身の苦悩をすべて引き受けて救う者が
王なのだから」
「……ずいぶん突き放した考えだな」
「そうか」
「――いや。それほど主上を信頼しているってことか」
 すると風漢は低く笑ったが、どこか困ったような響きを帯びていた。

410永遠の行方「王と麒麟(68)」:2011/06/25(土) 10:45:10
「おまえももうわかったろうが、麒麟は――というより六太は心配性だ。まだ
起きていないこと、起きるかどうかもわからないことをあれこれ考えては悩む。
確かにいずれ王は失道するのかもしれない。いや、禅譲にしろ事故にしろ、遅
かれ早かれ王朝は終わるのだろう。だがな、五百年以上の命脈を保っている今
の王朝が、人の寿命の何歳に当たるのかはわからんが、百年後もまだ健在かも
しれんのだぞ。なのにその百年をくよくよ考えて過ごす気か?」
「いや、まさか。でも……」
「おまえは折山の荒廃を知っているな。妖魔さえ飢えたと言われるあの荒廃だ。
見渡すかぎり一片の緑とてなく、国としての終わりを待つばかりと思われた。
だが雁はそこから蘇ったのだ。この世界の国々はそうやって興亡を繰り返しな
がら、長い歴史を歩んできた。これまでもそうだったし、これからもそうだろ
う。人が生まれては死ぬように、王朝も立っては斃れるものだ。ならば、いず
れ訪れるだろう終焉を恐れるな。永遠に続く王朝がないということは、きっと
終焉にも意味があるのだ。苦悩にさいなまれたことのない者が真の歓喜を味わ
えぬように、病に伏さねば健康のありがたみもわからぬように、陽に対する陰、
明に対する暗は必要なのかもしれん。だが終焉は真の終焉ではない。人が老い
て消えていく一方で、新しく生まれてくる命がある。同じように必ずや国も再
生する。たとえ王朝の末期において、どれほど荒廃し辛酸をなめようとな。お
まえがなすべきことは王を哀れむことではなく、ましてやいたずらに終焉を恐
れることでもない。重要なのはただ、きたるべき『そのとき』を見誤らぬよう
にすることだ。そうしておのれの信念に従ってなすべきことをなせば、結果な
ど後からついてくる」
 思いがけない話に、鳴賢はまじまじと相手を見つめた。
「むろん六太の懸念はわからんでもないし、そうやって心配する者も必要なの
かもしれん。だが恐れてばかりいると、却って災いを引き寄せるものだぞ」
「う、ん……」

411永遠の行方「王と麒麟(69)」:2011/06/26(日) 08:55:39
 手の中の杯を見つめながら、彼は言われたことの意味を考えた。端的に言え
ば六太の悩みなど捨て置けと言われたも同然だったが、穏やかな確信を持って
語られる言葉と声音には力強さがあり、その旋律に浸るのは不思議と不快では
なかった。
 杯を干すと、風漢はその都度、酒をついでくれた。そうして六太が語ったこ
とを記憶から掘り起こしつつ、鳴賢がそれにまつわる自分の思いを訴えている
うちに夜が更けていった。話題はしばしば六太のことから離れたというのに、
風漢は話を元に戻すでもなく自由に喋らせてくれたので、自然その流れはさま
ざまな事柄に及んだ。それは友人たちとたまに夜を徹して熱中する哲学論議に
似ていて、彼は風漢とそんな話ができることを驚きながらも楽しんだ。
 そうして心にかかっていたことの多くを吐き出せたおかげで、鳴賢は最後に
は予想外に良い気分で店を後にすることができた。六太のことは心配だったが、
宮城で手が尽くされていることを納得し、自分も心を強く持とうと思った。
 風漢は、またそのうち寮を訪ねると約束し、何か用があれば大司寇宛に文を
出せばいいと告げて去っていった。

 深夜の小途で指笛を吹くと、すぐに騶虞が飛来した。たまは尚隆を乗せると
ふわりと舞いあがった。禁門に向かう途中で、尚隆はふと手綱を引いて向きを
変え、しばし中空にたたずんだ。はるか足下に広がる関弓の街を見おろす。
 ――そう。自分で自分を救えるだけの強さが王には必要なのだ。その強さを
失ったとき、おそらく道も失う。
 六太は王が人柱だと言ったという。要は国に捧げられた贄だと。そうして彼
は王を憐れんでいる。ただ善政を享受し、失道の罪を王ひとりに負わせて失政
を責めるのは違うと、麒麟らしい憐れみのもとに訴えている。
「そうではない」ほのかな笑みを浮かべ、慈愛とも嘲りともつかない口調でつ
ぶやく。「そのときは誰もが王をなじっていい。結果をすべて引き受けるのも
王の役目なのだから」
 やがて彼は騶虞の向きを変えると、夜に溶けるように飛び去っていった。

4121:2011/06/26(日) 08:57:44
次の投下まで、しばらく間が開きます。

413名無しさん:2011/06/27(月) 03:34:26
素晴らしいです、姐さん。
初めて来て、寝ずにノンストップでここまで来ました。
途中、泣 き な が ら。
いつまでも待ってるので無理しないで下せぇ。

4141:2011/06/28(火) 00:01:08
お気遣いありがとうございます。

というか、この長さをノンストップですか。
それはすごい。

415永遠の行方「王と麒麟(70)」:2011/07/16(土) 09:05:00

 六太を昏睡に陥れるのに用いたと思われる術を用い、さまざまな実験が冬官
府で行なわれた。その後の内議で大司空によって結果が報告されたが、彼はま
ずきっかけを作った大司馬への謝意を謙虚に口にした。
「専門家というものはともすると、自分の都合でものを見てしまいます。そし
て詳しく知っているがためにわかりきったことを見落とすこともあります。そ
の意味で、このような試みを提案してくださった大司馬に感謝いたします」
 彼が実験に否定的だったことを知っている大司馬は、怪訝な顔をしながらも
うなずいた。大司空は続けて、大司馬の提案とは別の、考えうるかぎりの組み
合わせの実験について述べた。それは現場の冬官たちに諮って出させた案を元
にしたもので、術が不完全だった場合を含め、ささいな違いも併せると六十以
上の組み合わせがあった。万全を期したとの大司空の言葉を、一同は認めざる
をえなかった。
 大司空は手元の書面に目を落としたまま、淡々と実験の結果を読みあげた。
「これらを逐一検証したため日数はかかりましたが、昨日、すべての試みを終
えました。詳細は数日のうちに書類を整えてご報告するとして、ひとまず結果
だけ簡単に申します。正しく術をかけた場合は定められた条件以外に破ること
はできませんでした。翻って術が不完全だった場合は、特に条件を満たさずと
も破ることができましたが、むろんこれは呪の一般的な性質でありますので、
結果を待つまでもなく、初期の段階で台輔に試みております」
「つまり――結局のところ成果はなかった、と」
 白沢の問いに、大司空は沈んだ顔で「申しわけありません」と詫びた。
「考えうるかぎりの可能性を網羅したつもりですが、先ほども申したように、
専門家ゆえの見落としがあるかもしれません。いかがでしょう、大司馬」
 彼は神妙な面持ちで書類の束を大司馬に渡した。大司馬は考え込みながら慎
重に書面を繰ったが、やがて書類を差し戻すと言った。
「いや……。これ以上は拙官にも考えつかぬ。冬官府はよくやっていると思う。
しかし――そうか……」

416永遠の行方「王と麒麟(71)」:2011/07/16(土) 09:33:42
 内心ではかなり期待していたのだろう、彼は他の六官に比べてかなり落胆し
た様子だった。大司空も沈痛な面持ちではあったが、決然とした口調でこう続
けた。
「せっかくご助言をいただきながら力及ばず、まことに遺憾です。しかしなが
ら見方を変えれば、素人の暁紅でも『正しく』術をかけられたことを検証でき
たとも言えます。となれば台輔の第一の願いなるものを探し当てられれば、必
ずや術は解けるでしょう」
「しかし暁紅が口にした解呪条件が出まかせという可能性も……」
「もちろんそうです。しかし暁紅は、台輔が術にかかれば主上がお目覚めにな
るという約束を守りました。それに台輔を陥れられて満足だったらしいことを
考えあわせると、やはり真実を語ったと考えて良いと思います。何しろ今回の
事件でわかった彼女の人となりから判断するかぎり、感情的な満足を優先させ
たろうと推測できますし、条件を達成できないと思っていたのであれば、まや
かしの手がかりを与えて惑わすより、真の手がかりを与えておいて右往左往す
るさまを想像するほうがずっと快感を覚えたはずですから。
 したがって拙官は、台輔のお望みを知るべく、もはや本格的に聞き取りを開
始すべきと進言いたします。そしてそれにはぜひとも夏官府のお力添えをお願
いしたいところです。関係者の足取りを追ったり聴取を行なったりという作業
に慣れているのは夏官ですから。口の固い者を選抜して情報収集に当たらせ、
これはという内容があれば、ぜひ解呪に当たっている冬官にお知らせください。
いくら台輔のご健康に悪影響がないとはいえ、一刻も早くお救いしたいのです
が、しかしながらもはや冬官だけでは如何ともしがたいのです」
「まあ――そうだな……」大司馬はつぶやいた。「とりあえずは宮城内の者が
対象か。いずれにしろ何か表向きの理由を付けたほうがよかろうな。――そう、
大司寇が仁重殿の女官を焚きつけたわけだが、さらに一歩押しすすめて、彼女
らが『台輔のお望みがかなえばお目覚めになるかも知れない』と考えたことに
するというのはどうだろう」

417永遠の行方「王と麒麟(72)」:2011/07/17(日) 08:50:34
 朱衡はうなずいた。「少々の後押しで、そういう方向に考えを向けさせるこ
とはできるでしょう。伝説でもありがちな展開ですし、そもそも何か良い予兆
があれば問題が解決すると期待するのは自然な心情です」
「ただ大司寇は既に一度似たような話をしているわけですから、今回は別の者
に水を向けさせたほうが安全ではありませんか?」
 気遣わしげな大司徒の言葉に、朱衡はこれまで黙って耳を傾けていた主君を
見やった。「現在のところ、仁重殿に頻繁に出入りしているのは拙官のほかは
主上ですが……」
「ふむ。ならば適当に水を向けてみよう。女官たちの様子を見ると、確かに
ちょっとした後押しで良さそうだ」
「おそれいります」
「とはいえ実際に彼女らが言い出さずとも、仁重殿から話が出たことにしてお
けば良かろう。話の変遷としては不自然ではない以上、出所を仁重殿としてお
きさえすれば、女官らも自分たちの誰かが言い出したと納得するはずだ。今日
のうちに種は蒔いておくから、折を見て刈り取れ」
「御意」
「では」と白沢が話を引き取った。「仁重殿の女官たちが『台輔のお望みがか
なえばお目覚めになるかも知れない』と考えて訴えたため、他に手がかりがな
い以上、万策を尽くすという意味で、まずは宮城において聴取を行なうことに
した、と。出所はあくまで仁重殿の女官であり、根拠はないとして。他の官は
彼女らを哀れに思うでしょうが」
「それは仕方あるまい」と大司馬。
「夏官府による聴取の試みはそれとして、われわれも身近な次官以下にさりげ
なく尋ねたほうがいいしょうね」朱衡が言った。「台輔は奄奚にも気安く声を
かけておられましたが、仁重殿の者を除けば、やはり親しいのは日頃から一緒
にいることの多い、ある程度以上の官位の者が大半のはず。それに違った者が
尋ねれば、異なる答えが得られるかもしれません」
 それで益がなければ市井の者にも聴取範囲を拡大しなければならないが、こ
ちらはどこに六太の知己がいるかを調べるところから始めねばならない。した
がって彼らとしては、宮城内での調査で成果が上がるよう祈るしかなかった。

418永遠の行方「王と麒麟(73)」:2011/07/17(日) 10:17:39
 とはいえ尚隆が鳴賢から聞き出した内容は、今のところ六太の願いごとに直
結する話ではないものの目新しく興味深いものだった。そのため彼らは、六太
の望みがごく個人的な事柄であるなら、宮城とは無関係の場所で語られた可能
性のほうが高いかもしれないと、厄介に思いながらもおぼろに感じてはいた。
 やがて内議を終えて退出する主君を見送った六官は、そのあとで自身も房室
を出ながら溜息まじりにざわめいた。その中でふと朱衡と目が合った大司徒が
微笑した。
「何か?」
 朱衡も微笑しながら尋ねると、相手は少し考えるように小首をかしげた。
「いえ、何と申しますか……相変わらず主上がどっしりと構えておいでなので、
わたくしどもも安心して事に当たれるな、と」
「そうですね」
「どうも大司空は焦っておられるようですが、ここは間違いのないようにじっ
くりやることが重要ではないでしょうか。時間はあるのですから、むしろ拙速
にならないように注意しないと」
 そう言って大司徒はふたたび微笑むと、会釈をしてから自分の官府に戻って
いった。

 尚隆は政務の合間に仁重殿を訪れた。六太の臥室では相変わらず花が咲き乱
れており、常春の桃源郷さながらだった。卓には六太の好きな菓子類が甘い香
りを放っていたほか、女官たちが主君に頼んで得たさまざまな褒美が所狭しと
並んでいた。中でもわざわざ範国から急ぎ取り寄せた、太鼓を叩く童子を始め
とする一連のからくり人形は見事だった。尚隆は裳裾や披巾を翻して優雅に踊
る舞姫人形を手に取ると「ほう」と声を上げた。
「範の品だな。意匠といい細やかな動きといい、さすがに見事だ」
「こちらの童女は、ねじを巻くと料紙に字をしたためますのよ。筆を取りあげ
て墨を付けて」女官のひとりが別の人形を示してほほえんだ。「台輔はよく、
祭りの屋台で粗末なからくり細工をお求めになっては遊んでいらっしゃいまし
たから、こういったものをごらんになればお喜びになるでしょう」

419永遠の行方「王と麒麟(74)」:2011/07/17(日) 20:56:43
「なるほど」
 尚隆はうなずいたが、内心では違うだろうなと感じていた。六太はからくり
細工そのものが好きなのではない、市井の祭りが好きなのだ。祭りでさまざま
な人とふれあい、彼らをからくり細工で驚かしたり一緒に遊ぶのが好きなのだ。
いつも粗末な細工を仁重殿に持ち帰っていたのも、女官に見せてささやかな驚
きを与えたり、話の種にするためだったに違いない。
 尚隆は舞姫を元の場所に戻すと、牀榻の開いている扉に一瞥を与えた。
「ぐっすりとお寝みですわ」
 悲しそうに応じた女官に、尚隆は大仰に溜息をついた。
「まったく。これだけ褒美を与えてもまだ足りぬのか。実は既に目覚めていて、
もっと良い遊び道具をせしめようと目論んでいるのではあるまいな」そう言っ
て他の贈りものを手にとってはしげしげと眺める。「今ごろ、夢の中で楽しい
思いをしているのやも知れぬが、六太の鼻先にうまそうな菓子でもぶらさげて
食欲をあおってやれ。夢の中より現実のほうが魅力的とわかれば、さっさと目
覚めるだろう」
「まあ」
 女官は困ったように微笑した。やがて尚隆は果汁の杯を用意させると、いつ
ものように口移しで慎重に六太に飲ませた。それから別室にいた黄医を呼んで
容態を確認したのち、人払いをして六太とふたりきりになった。
 近習が丁寧に世話をしているので、六太の外見に乱れたところはまったくな
かった。黄金の髪は艶やかだし、日に一度、広々とした露台で椅子に座らせて
日向ぼっこをさせているせいか肌も健康そうだ。
「すまぬな。もう少しかかりそうだ」
 臥牀の片隅に腰をおろして半身を見おろした尚隆はそっとつぶやいた。
 やがて立ち上がった彼は衣擦れの音をさせながら牀榻を出、臥室の扉に向か
おうとして振り返った。室内は人けもなく静まり返っており、牀榻の奥に六太
が横たわっているとはとても思えなかった。何しろ今まで六太の周囲に必ず
あった使令の気配すら感じられないのだ。

420永遠の行方「王と麒麟(75)」:2011/07/18(月) 09:21:56
 奇妙なものだな、と彼はひとりごちた。王にとって麒麟がそばにいるのは至
極当たり前のことだ。息抜きに市井に紛れるときを別にすれば、諌言にしろ単
なる雑談にしろ、今までうるさいくらいに尚隆にまとわりついていた六太が、
もう二ヶ月以上も無言で横たわったままというのはひどく奇異な感じだった。
――そう、いつか朱衡が言ったように、ふとした拍子に姿を探してしまうのは
仕方がない。
 だがそんなことを考えるとは、自分は淋しいのだろうか。それもおかしなこ
とだ。権力の頂点に立つ以上、王とはもともと孤独なもの。登極の当初からそ
れを割り切ってきたはずではなかったか。孤独であってしかるべき王が、その
ことを苦痛に思うようでは……。
 いや、と口の端に苦々しい笑みを浮かべてわずかに頭を振る。ここには誰も
いない。宮城でいつも無意識に装うように言動を取り繕う必要はない。
 相手が麒麟であろうとなかろうと、五百年もともにいた者の姿が見えなくな
れば淋しく思って当然だ。実際、これまでの治世で長年の臣下が仙籍を辞すた
びに、快く許可を与えながらも寂寥感を覚えてきたものだ。しかも今回の件は
六太自身の意志ではなく強いられたもの。国と民を思う彼の心根を哀れと思う
のはもちろん、王位の象徴であり臣下の筆頭でもある麒麟が側にいないとなれ
ば、どこか落ち着かない気分になるのは仕方がない。麒麟は王の半身。他の臣
と異なり、どれほど長い治世であっても必ず王の傍らに侍っていると保証され
ているはずの存在なのだから。
 要は俺は自分の弱さと向き合いたくないのだろうな、と彼は考えた。だから
淋しさも認めたくないのだ。
 とはいえすべて解決したのちに足跡を振り返って自分を見つめ直すならとも
かく、まだ渦中にあるうちにおのれの弱さを認めては命取りになりかねないの
は確か。第一、時に非情な決断を下さねばならない王はいわば現実主義の権化
であって、綺麗ごとに終始する麒麟は、半身とはいえ真にわかりあえることな
ど永遠にないだろう相手だ。尚隆自身、六太とは常に一定の距離を置いてきた。

421永遠の行方「王と麒麟(76)」:2011/07/18(月) 09:33:31
それは六太のほうも同じだ。王を求める麒麟の本能として以上に尚隆を想うこ
とはないだろうし、今回の事件で主君に言伝の一言も残さなかったという事実
がそれを裏付けている。六太の最大の関心事はあくまで雁が――できれば他の
国々も――平和に治まっているか否かなのだ。
 ――そのはずなのに。
 尚隆はその場にたたずんだまま考えこんだ。
 いったい六太の一番の願いとは何だろう? 呪者にあさましいと嘲られても
否定せず、恥じ入って口にしなかった。しかも絶対に実現しないであろう事柄
だと言う。帷湍が言ったように個人的な願いごととしか思えないが、尚隆には
さっぱり見当がつかなかった。これだけ長いこと一緒にいれば、他の者はさて
おき、彼なら多少なりとも推測できても不思議はないのに。
 ならば――そう、ひとまず自分自身に置き換えて考えてみよう。俺自身の一
番の願いとはなんだろう? 延王尚隆としてではなく小松尚隆としての願いと
は?
 だが、結局彼は自嘲気味に低く笑うしかなかった。彼は雁の王だ。雁の繁栄
と民の安寧以外に望むことなどない。六太は変に気を回していたようだが、王
にとって国は体であり、民は体をめぐる血流だ。五百年以上もこの国に君臨し
ている尚隆にとって、もはや意識の上でも公私を分かつことなどできはしない。
六太は王を憐れみ、鳴賢も感傷的になっていたが、人柱などという発想は王と
国が別物と考えるから出てくるのであって、尚隆にとっては既に雁こそが自分
の血肉なのだ。
(だが……おまえもそうではないのか?)
 牀榻に向かって心の中で問いかける。そうしてしばらく考えをめぐらせたの
ち、踵を返して臥室を出て行った。宮城での聴取は夏官や冬官に任せるとして、
やはり市井でも引き続き話を集めたほうが良さそうだ。中でも事情を話したり
作り話をする必要がない鳴賢には、間をおかずにさらにいろいろ尋ねるべきだ
ろう。あの様子ではうまく記憶を呼び覚まさせればまだまだ興味深い話題が出
てきそうだし、本人も協力的だ。それを取っ掛かりに、たとえば他の大学生に
聞き取り範囲を広げることも容易だろう。

4221:2011/07/18(月) 09:36:14
また来月あたりに続きを投下します。
次は(少しだけ時間を遡った)陽子サイドの話になります。

423名無しさん:2011/07/18(月) 20:47:39
初めまして、最近こちらに流れ着きました。
燃えに萌える大作に巡りあえて幸せです。王様な尚隆かっこよす。
陽子も好きなので続きを楽しみにしていますね。

4241:2011/07/19(火) 18:42:12
>>423
ありがとうございます。来月半ばくらいには投下したいなと。

425永遠の行方「王と麒麟(77)」:2011/08/14(日) 08:46:44

 政務の合間に内殿の一室で体を休めていた陽子は、ふと窓框に鳥が止まった
音に気づいて視線を向けた。雁の色を尾羽に帯びた鸞にほほえむ。
「久しぶりだな」
 そんなことをひとりごちる。大がかりな謀反のくわだてがあったとの噂は聞
いていたが、後始末を終えてようやく慶に意識を向けるだけの余裕ができたと
いうことだろうか。
 だが鸞が尚隆の声でまず人払いを求める言葉を口にしたので、彼女は眉根を
寄せた。こんなことは初めてだった。
 不審に思いながらも側にいた官を下がらせる。鸞はしばらく沈黙し、十分な
時間が経ったと声の主が判断したのだろうあとで、ふたたび男の声で喋りはじ
めた。淡々とした声音で語られる内容に、陽子は次第に緊張が高まるのを感じ
た。

「どう思う?」
 急ぎ景麒と冢宰の浩瀚を呼び寄せた陽子は、鸞による親書を聞かせた上で尋
ねた。内容を明かす場合、尚隆はこのふたりのみに留めてくれるとありがたい
と伝えてきていた。半身である景麒は別格として、浩瀚を加えたのは、政務を
こなす上で彼の手助けなしに陽子が動くことはまだ無理だと知っているからだ
ろう。
「謀反人を一網打尽にしたものの、延台輔が首魁の姦計に陥り呪をかけられて
昏睡状態に陥ってしまった。しかしながら碧霞玄君も保証しているように麒麟
である延台輔の健康に障りはなく、目下のところ術を解くべく鋭意調査中であ
る――と」
「そうだ」浩瀚に応えた陽子は、少し考えてから「だが細かい事情がよくわか
らないな」とつぶやいた。「延王が延麒は無事だとおっしゃるならそうなんだ
ろうけれど。それに別に慶に助けを求めているわけでもなさそうだ」
「麒麟は天地の気脈からも力を得られる生きものです」景麒が答えた。「只人
であれば昏睡が長引けば危険ですが、数ヶ月程度意識が戻らないくらいでは影
響はほとんどないでしょう」

426永遠の行方「王と麒麟(78)」:2011/08/14(日) 08:51:41
「数ヶ月ですめば良いのですが」
 慎重に答えた浩瀚に、陽子は「というと?」と尋ねた。
「延王は謀反についての詳細は省略しておられましたが、雁で陰謀が発覚した
のは昨年十二月ですね。明けて一月には地方州に行幸なさっておいでで、それ
も謀反人をあぶりだす策の一環だったとか。実際、その直後に一党が討ち取ら
れています」
「そうらしいな」
「宮城に還御されたのが今月半ば。その頃に延台輔が呪にかけられたのなら、
さほど日数は経っておりません。しかしながら謀反人を討ったのが一月末から
二月初めらしいことを考えると、遅くとも主上が青鳥を送られた頃には既に昏
睡に陥っていた可能性があります。したがって一ヶ月乃至二ヶ月は経過してい
ることになり、解呪にかなり手間取っていると見ていいでしょう。そして今回
の親書の主旨は、主上が送られた私信の返事が滞っていることの謝罪で、延王
が延台輔の代わりに開封したことも詫びておいでだ。つまり解決のめどは立た
ないが、そろそろ主上に秘しておくのは限界として、仕方なく事情を報せてき
たことになります」
 陽子は考えこんだ。「実際には親書の内容より深刻な事態というわけか」
「でなければ、そもそも碧霞玄君にお伺いなど立てないでしょう」
 麒麟の生命は王とつながっている。延王が失政せずとも、延麒に何事かあれ
ば雁の大王朝はあっけなく瓦解する。
 泰麒捜索の折、恩は延王が斃れたときに返すと陽子は言ったが、正直なとこ
ろあれはあくまでその予兆がないからこそ言えた軽口だった。内心では、少な
く見積もってもあと二、三十年は安泰だろうと考えていた。
 だが尚隆が失道せずとも、麒麟を失えばその命は尽きてしまう。
 陽子は拳を握り締めた。半身に目を向ける。
「謀反の経過を含め、延王は端的にわかりやすく説明してくださったので、全
体像は掴めたと思う。だが正直なところ今ひとつ現状がわからない。景麒、す
まないが玄英宮に行って事情を詳しく伺ってきてくれないか」
「延王は金波宮の他の者には伏せておいてくれとおっしゃっていましたが」

427永遠の行方「王と麒麟(79)」:2011/08/14(日) 09:01:56
「うん、だから密かに行ってくれ。わたしや浩瀚では無理だが、おまえなら転
変すれば玄英宮まではすぐだ。一日くらい、何か理由をつけて政務を休んでも
不審には思われないだろう。とんぼ返りになるから大変だが、今雁にもしもの
ことがあったら、慶にとっても打撃が大きすぎる。それに延麒は麒麟の長老格
のひとりだし、慶も日頃から世話になってきた。もしできることがあるなら役
に立ちたいし、何より同じ麒麟としておまえも心配だろう」
 景麒は少し考えてから「わかりました」と答えた。
「わたしからの見舞いと併せ、向こうで何か気づいたことがあれば延王に申し
あげてくれ。この件はおまえが戻ってからあらためて話しあうことにする。碧
霞玄君のお墨付きがある以上、少なくとも今日明日のうちに深刻な事態に陥る
ような緊急性はないはずだから」
「それにおそらく延王も、主上が詳細な状況をお尋ねになることは予想してい
るでしょう」
 浩瀚の言葉に、陽子は「そうだな」とうなずいた。
 ふたりを下がらせたのち、政務に戻る前に陽子はしばし考えこんだ。後援し
てくれる隣国の危難を景王として不安に思う気持ちはもちろんだが、日頃から
私的なやりとりをしていた延麒が災難を被ったことを考えると心が痛んだ。彼
女自身も謀反人に襲われた経験があるだけに、とても他人事とは思えなかった。
それに浩瀚の言うことが当たっていれば、既に二ヶ月に渡って昏睡状態に陥っ
ているかもしれないのだ。
(ここが蓬莱で延麒が普通の人間なら、病院でチューブにつながれて臥せって
いるところなんだろうな……)
 麒麟が天地の気脈とやらからも力を得られる存在で幸いだ。自身が巧を放浪
していたときの過酷な旅を振り返ってみると、神仙であっても元が人間であれ
ば、水や食物を摂らねば長い間には衰弱するのは明らかだったからだ。
 もっとも麒麟は生臭を厭うだけで、飲食自体は普通にする。ということは他
の神仙よりは緩やかにせよ、絶食すれば徐々に衰弱していくのは避けられない
ように思われた。
 陽子はおとなしく留まっている雁の鸞に目を遣った。

428永遠の行方「王と麒麟(80)」:2011/08/14(日) 09:07:16
 尚隆は延麒への親書の開封を詫びていたが、実際のところ謝られる必要はな
かった。延麒と文をやりとりするようになったとき、「尚隆に教えろと命令さ
れれば話さずにいることはできないぞ」と彼に念を押されていたし、内容はと
言えば、今回は路木に祈る作物に関する雑談のたぐいだったからだ。それも万
が一、無関係な人物に読まれても支障のないよう蓬莱文で書いていたし、署名
も「陽子」のみとしていた。しかし尚隆なら見られても不都合なことは何もな
い。もっともあらためて考えると謝罪は口実で、陽子に今回の事件のことを報
せるほうが主旨だったように思われた。
(それにしても延王はよく現代文を読み下せたな。わたしなんかは教科書に写
真で載っていた古文もほとんど読めなかったのに。でもあれは字を崩してあっ
たからかな。逆に昔の人が現代の楷書体を読むなら読みやすいのかもしれない。
外来のカタカナ語の意味は掴めなかったと思うけど)
 陽子が延麒とやりとりするようになったのは蓬莱がらみの理由だった。慶を
少しでも良くするために、蓬莱の知識なり技術なりで役立つことがあればと思
い、延麒が遊びに来た折に雑談がてら相談したのがきっかけだ。その昔、国を
整えるのに尚隆も蓬莱の知識を生かしたことがあると聞いていたせいもあった。
「それを景麒にも話してみたか?」
 延麒にそう聞かれ、陽子は首を振ったものだ。
「話していない。というか景麒には話せない。あいつは蓬莱のことを匂わせた
だけでも途端に嫌な顔をするから」
「そうか。まあ、そうかもなぁ」顔をしかめた彼女に、延麒は同情するように
笑った。
「景麒だけじゃない。たぶん他の人間も、官も民もひっくるめてだけど、わた
しがいつまでも蓬莱のことを考えているとすると、基本的に良い気はしないだ
ろうと思う。この世界で生きていくに当たって、いつまでも元の世界のあれこ
れに目を向けられたままでは困るから。

429永遠の行方「王と麒麟(81)」:2011/08/14(日) 09:14:21
 もちろんそれはわかるんだ。ただ慶には余裕がない。現実に困窮している民
が大勢いる以上、少しでも早く何とかしたいし、もし蓬莱の知識で役に立つも
のがあればぜひとも取り入れたい。実際、蓬莱に便利な技術のたぐいがあるの
は事実なんだから。とはいえ今言った理由があるからとりあえず相談できるの
は、慶の民でもなくちょくちょく蓬莱に行っている延麒だけだ。迷惑かもしれ
ないが」
「迷惑ってことはないけどさ。でもそれって鈴や祥瓊にも相談できないのか?
少なくとも鈴は海客だから、陽子と話は合いやすいだろ」
 陽子は少し考えてから首を振った。
「彼女たちは友達でもあるけれど、やはり適当ではないと思う。鈴も現在の蓬
莱は知らないわけだし、なのに愚策かも知れない、上策かも知れない、それを
判断する基準を持っていない人たちに相談するのは、ある意味では無責任では
ないだろうか」
「知識そのものがなくても、その人が持つ感覚自体は参考になるぜ。それにい
ろいろ取り入れるに当たっては、蓬莱のことを知っているかどうかより、むし
ろこっちの世界の事情を心得ているかどうかが重要じゃないかな。どちらにし
ても意見を求めるとかそういうんじゃなく、話すだけでも違うと思うし、陽子
に頼りにされた相手も嬉しいだろう。それにひとりで考えこんでいると気分が
滅入るものだし、いつの間にか思考が堂々巡りになっていたりもするもんだ。
それを吐き出すだけでも何かと落ちつくんじゃないか」
「……そうだろうか」
「たとえば昔、朱衡がおもしろいことをやっててさ。まだ朝が整わず、何かと
忙しくててんてこ舞いだったとき、陶器の置物を執務室の入口に置いて、自分
に何かを進言する場合は内容をまず置物に喋れって部下に言い置いてた。おか
げで珍妙な光景が繰り広げられたけど、それだけのことなのに進言が厳選され、
内容もずいぶん実のあるものに変わったんだとさ。喋ることで考えがおのずと
整理される上、一語一語に対する相手の反応も考慮するようになるから、文書
で練るよりいいものができやすかったらしい。置物相手でもそうなんだから、
生きた人間に話せばもっと有用な結果が出るんじゃないか」

430永遠の行方「王と麒麟(82)」:2011/08/14(日) 09:26:24
「それはそうだけど……」陽子は口ごもったが、すぐに首を振った。「でもだ
めだ。正直なところ、自分の考えをまとめる段階にも達していないんだ。だか
ら多少なりとも背景をわかっている相手に、雑談がてら、とりとめのない話題
を気軽に話すことができれば――」そこまで言って、何かに気づいたように苦
笑する。「そう、これもある種の甘えなんだろうな。要は現代の蓬莱に関する
面倒な説明を全部省略して話を理解してくれる相手に、気楽に吐き出したいん
だ。そうすると手頃なのが、金波宮にもよく来る延麒で」
「ああ――なるほど」延麒も苦笑した。
「景麒や鈴や、他の人たちがどうこうってわけじゃないんだな、本当は。蓬莱
のことを考えるのに、わたしは自分に言い訳をしたかっただけか……」
 陽子はほのかに笑みをとどめたまま、力なく視線を床に落とした。
 本心では、蓬莱に帰るという望みを完全に捨て去ったわけではない。生涯を
この世界で過ごすという決心を固められたわけでもない。
 それでも王として手を尽くしながら懸命に数年を過ごすうちに、少しは覚悟
ができたと思っていた。家族を始めとする身近な人々のことをあえて考えない
ようにすれば、利用できるものは利用するという、王としてのたくましい思考
のもとに、一般論として蓬莱の技術なり知識なりを役立たせられないかと思っ
ていた。
 しかしそれは、どんな細い糸であっても故郷とつながりを持っていたいとい
う、無意識の欲求の発露に過ぎなかったのかもしれない……。
「実際、役立つ知識はあると思うぜ」黙りこんでしまった陽子に、延麒はいた
わるように言った。「ただ、こっちの人間にとって蓬莱というのはあくまでお
とぎの国だ。自分たちの生活とは何の関わりもない。俺は蓬莱にもむろん良い
ところはあると思っているし、取り入れたら民のためになるんじゃないかと考
えることも多々あるけど、せいぜい近臣に蓬莱の服を見せて、似たようなのを
作ってくれと頼むぐらいが関の山だ。さっき陽子が言ったとおり、確かに為政
者がそんなうわついた考えを持っていると官や民に知れれば反感が出かねない
し、事と次第によっては『だから胎果は』などと見当違いの不満をいだかれる
危険もある。その意味では気楽に蓬莱のことを話せるのは、尚隆を除けば俺も
陽子くらいかもな。もっとも尚隆も現代の蓬莱について具体的に知っているわ
けじゃないが」

431永遠の行方「王と麒麟(83)」:2011/08/14(日) 09:36:02
「雁は昔から蓬莱の技術や仕組みを取り入れてきたって聞いたけど、それでも
雁の官もいまだに抵抗あるんだろうか」
 延麒は肩をすくめた。「尚隆の場合は結果を出してきたし、急激な変化を起
こさないよう時間をかけたから、官もいたずらに拒否反応を起こすわけじゃな
いが、それでも均衡を取るのは難しい。尚隆はあくまでこちらの世界の枠組み
の中に蓬莱のやりかたを取り入れただけで、物事の仕組みの根本を変えたわけ
でもないんだがな」
「そうか」
「でもまあ、そういうことを考えることで陽子の気が紛れるなら結構なことだ。
もっとも俺もそううまい時期に慶に来られるとは限らないから、何なら鸞でも
青鳥でも、私信を送ってくれれば適当に返事はするぞ。本当にいい考えが浮か
ばないでもないし、それが民のためになれば万々歳だ」
「……鸞しかないな」少し考えてから溜息まじりに答える。「わたしはまだ自
力ではじゅうぶん読み書きできないから」
 すると延麒が「何なら蓬莱文でもいいぜ」と返したので彼女はびっくりした。
「それなら読める人間も限られるから安全でもあるだろ」
「延麒は現代文も読めるってこと?」
「まあ、何とか」彼はにっと笑った。「むしろ俺、向こうで生まれ育った時代
では読み書きを習ってなくてさ。だから蓬莱文は比較的最近になって覚えたっ
ていうか」
「それって、いつ頃の話?」
 最近だと言われれば、普通の感覚ならせいぜい数年前、古くても十年前あた
りが限度だろう。しかし延王や延麒の場合、数十年、下手をすれば百年単位で
ものを言うので、一般的な感覚は当てにならなかった。
「ええと、どうだったかな」彼は指折り数えて考えた。「七十年前かそこらか
なあ。少なくとも習ってから百年も経ってないと思うけど」
「やっぱり」
「え?」
「いや、何でもない。でも七十年前ってけっこう昔だけど大丈夫? 今とは仮
名遣いや漢字も違うんじゃ」

432永遠の行方「王と麒麟(84)」:2011/08/14(日) 09:47:04
「ああ、だから書くのはちょっと苦手だ。でも読みだけなら何とかなる。でな
いと向こうの看板なんかも読めないから、遊びに行ったときにつまんないだろ」
「……なるほど」納得した陽子はくすりと笑った。
「ただ、もし尚隆に教えろと命令されれば、文の内容を話さずにいることはで
きないぞ?」
「もちろんかまわない。むしろ延王にもいろいろ助言をいただきたいくらいだ」
 こういうわけで、それから折に触れ、陽子は延麒に青鳥で文を送るように
なった。相手も忙しいだろうから必ずしも返事を求めていたわけではなかった
にせよ、書きなれた蓬莱文で気の赴くままに手紙を書けるのは嬉しかったし、
祥瓊らと話をしたり桓?と剣の稽古をするのとは違う種類の息抜きにもなった。
 たまに来る延麒からの返信はごく短いものだったが、陽子が送った手紙の内
容を理解しているのは確かで、何となく張り合いがあった――。
 陽子は回想を振り払うように軽く頭を振ると、座っていた椅子から立ち上
がった。
 もし浩瀚が推測したとおり解呪に手間取っているのなら、景麒が戻ったら力
になれることはないか検討してみよう。呪について陽子は何も知らないと言っ
て良かったが、それでも手伝えることがないとは限らない。第一、事件の渦中
にいる者は、明白な事実に気づかぬことが往々にしてあるものだ。あまりに近
すぎると、自明のことが却って意識から抜け落ちてしまうためだろう。となれ
ば遠く離れた金波宮にいる陽子にも、だからこそ役に立てることがあるかもし
れない。

 翌日の早朝に金波宮を発った景麒は、その日の夜には戻ってきた。陽子は長
楽殿の一室に浩瀚も呼び、ふたたび三人で会合を持った。
「延台輔にかけられた術を解くめどは立っていないそうです」
 景麒は固い表情で報告した。延王はみずから仁重殿に景麒を案内し、人払い
をした上で現状を端的に語ったという。この麒麟の性格をよく知っていると
あって、いたずらに言葉を弄する必要はないと判断したのだろう。

433永遠の行方「王と麒麟(85)」:2011/08/14(日) 09:58:53
「延麒はどんなふうだった?」
「臥牀で寝ておられました」
「それはそうだろう」
「お元気そうでした。普通に眠っておられるように見えました」
 陽子はちょっと考えてから尋ねた。「延麒を昏睡に陥れた術がどんなものか
わかっているのか?」
「睡獄の呪です」
「解くのが難しい術なのか?」
「そうとは限りませんが、どうやら解除条件が設定されているようです。その
条件が成立しないと延台輔は目覚めません。延王は術をかけた謀反人が、延台
輔が一番望んでおられることを条件にしたらしいとおっしゃっていました」
 陽子は浩瀚と顔を見合わせてから言った。
「意味がよくわからないんだが」
「延台輔のお望みを誰も知らないのですが、謀反人は絶対にかなうはずがない
と考えていたようです」
「つまりこういうことですか」浩瀚が口を挟んだ。「延台輔はひそかにある願
いを持っておられたが、残念ながら絶対に成立し得ないと思われる内容だった。
偶然にしろ策を弄したにしろその内容を知った謀反人は、皮肉をこめてあえて
その願いの成就を解呪の条件にした――と」
「そうです」
 景麒はうなずいた。陽子は顔をこわばらせた。
「しかしそうだとすると、絶対に延麒を目覚めさせられないってことじゃない
か。延麒の望みを誰も知らない上に、知っていたとしても成就できないんじゃ」
「本当に不可能なことを解呪条件として指定することはできません。あくまで
延台輔がそう思いこんでおられたというだけなので、延王は延台輔のお望みを
知ることができれば術を解けるとおっしゃいました」
「ああ――そういうことか」
 陽子はほっとしたが、厄介な状況であることは変わらなかった。
「それで延王はわたしに、延台輔の一番のお望みについて心当たりはないかと
お尋ねになりました」

434永遠の行方「王と麒麟(86)」:2011/08/14(日) 10:06:01
「で、あったのか?」
「ありません」
「……おまえ、延麒を心配しているよな?」
 景麒は心外だとでも言うように眉をひそめ、「もちろんです」と答えた。
「ひとつも思い当たることはないのか? 麒麟の一番の願いなんて、国が平和
になるようにとか人々が困窮しないようにとか、けっこう限られてくると思う
が」
「そういう内容ではなく、ごく個人的な願いのようです。延台輔は恥じて、誰
にもおっしゃっていないらしいとの話でした」
「恥じて――?」
 陽子は困惑のままに繰り返し、ふたたび浩瀚と顔を見合わせた。これまでの
延麒とのつきあいを思い起こしても、どうもぴんと来なかった。
「延王は主上にも、もし心当たりがあるようなら報せてほしいとおっしゃって
いました」
「残念ながら、今のところ思い当たることはないな……」
 いずれにしても景麒は半日程度玄英宮に滞在したに過ぎないため、持ち帰っ
た話は最低限の内容だった。現状はわかったものの、ではどうすれば延麒を救
えるかを考えるには材料が少なすぎた。
 雁で謀反のくわだてがあったことは金波宮でも知られていたので、陽子はそ
の見舞いを口実にあらためて景麒を派遣することにした。そうすれば公に数日
は滞在できるから、もっと詳しい事情を見聞きすることができるだろう。それ
に景麒は心当たりはないと言ったが、延麒と同じ麒麟としての視点が役に立つ
かもしれない。むしろ延王はそれを期待する部分もあって、いろいろ報せてき
たのではないだろうか。
 もちろん陽子自身が赴ければ一番良いのだが、相変わらず政務は山積みだし、
そう簡単に宮城を空けるわけにはいかなかった。
 彼女はひとまず鸞を返して、謀反に対する非公式の見舞いとして景麒を派遣
する旨を伝えた。そして自分にできることがあればぜひとも協力したいので、
延麒が術にかけられた経緯の詳細を含め、さらに詳しい事情を景麒に伝えてほ
しいと頼んだのだった。

4351:2011/08/14(日) 10:09:35
次は玄英宮での描写に戻る予定ですが、投下までまたしばらく間が空きます。
というか暑さでパソコン様もへばっているので、
涼しくなってから続きを書ければと思います。

436名無しさん:2011/08/23(火) 03:28:31
陽子キター!
どう絡んでくるか楽しみです
姐さんのパソコン様、涼しくなったら頼むよ〜

437265:2011/08/27(土) 17:42:06
また一年弱ぶりに立ち寄ってみたら、さすがです姐さん…!
(襟を正しての年中行事みたいに拝見しております。)
こちらの身にも突き刺さってくるものがビシバシあって
いつも痛いけれど目から鱗が落ちるような心地がしています。
続きも楽しみにお待ちします。

438名無しさん:2011/09/10(土) 09:57:11
たまには覗いて見るもんです。
続編キター!!
久々にろくたんも出てきて嬉しいです。続き待ってます!

439永遠の行方「王と麒麟(87)」:2011/09/22(木) 19:09:17

 慶において事情を知る者を安易に増やさないため、今回も景麒は従者さえ連
れず単身雁に赴いた。非公式であったこともあり大仰な歓迎の儀は省かれ、重
臣の居並ぶ内議の場で、景王からの見舞いの書状が延王に渡されるに留まった。
 書状および景麒の口から、六太を救うための協力が約される。それを受けた
延王からさっそく、同じ麒麟としての立場からわかることがあれば教えてほし
いとの要請がなされた。
 とんぼ返りだった先日の極秘訪問の際は簡単な言及のみだったため、景麒は
まず、謀反の顛末に関する詳細な説明を受けた。ついで六太の現状と、呪を解
くためにこれまで試みられた手段についても説明が行なわれた。何しろ何が手
がかりになるかわからない状況だ。特に今回は、六太と同じ麒麟の視点からな
ら有益な手がかりが得られるかもしれないと玄英宮側は期待していたし、親交
の深い景王の善意を疑う理由もないので、把握されているすべての情報が伝え
られた。
 一通り質疑応答を繰り返した景麒は、翌朝、仁重殿に赴いた。先日は六太の
顔を一瞥する程度で帰っていったし、大司空らから受けた説明を咀嚼した上で、
あらためて六太の状態を確認するためだ。
 外国からの賓客のもてなしを担当する秋官府の長として、朱衡は大司空とと
もに景麒を仁重殿に案内した。数人の女官が期待に満ちたまなざしで出迎え、
うやうやしく主のもとへ導く。
 臥室に入った景麒は、前回と同じく花の咲き乱れる室内をめずらしそうに見
回した。朱衡はほほえんで言った。
「ここは相変わらず常春の領域なのですよ。先日は詳しく申しあげる暇があり
ませんでしたが、少しでも延台輔に心地よく過ごしていただこうと、皆で腐心
しております」
「良いのではないでしょうか」景麒は何やら考えこんでから答えた。朱衡が問
いかけるように見つめると、彼は「良い香りは魔を払うと言われますから」と
続けた。

440永遠の行方「王と麒麟(88)」:2011/09/22(木) 19:11:58
 華やぎが目を楽しませているのはもちろん、花の香りが穏やかに満ちている。
大司空が「なるほど」と大きくうなずき、傍らで控えていた女官もぱっと顔を
輝かせた。
「まあ……では、たとえば香を焚くのはいかがでしょう」
「悪くありません。呪を解く手助けになることはないでしょうが、悪いものを
寄せつけにくいはずですから。延台輔が使令も封じられている以上、これ以上
の災厄を招かないためにも、考えられるかぎりの守りを固めておくべきです」
「さすがに麒麟たる景台輔はお詳しくていらっしゃる」
 誠実な答えに軽い驚きを覚えながら、朱衡は応じた。前景王の時代と併せ、
彼は一度ならずこの麒麟に会ったことがあったが、以前はあまり気も利かず、
言葉もそっけない印象だった。無口とは違うが、話をしていても途中でこちら
の言葉が宙ぶらりんになる感じなのだ。
 それが今やかなり言葉も増えたし、前日の種々の説明の際もこちらの官とき
ちんとやりとりしていた。先日のあわただしい訪問の際は気づかなかったが、
ずいぶんと進歩したものだと朱衡は思った。他国の宰輔に対して言うことでは
ないため、口にすることは控えたが。
 人払いをしていったん女官を遠ざけた彼らは、六太の眠る牀榻内に足を踏み
いれた。
「それで、いかがでしょうな、景台輔」大司空が尋ねた。「あらためて延台輔
をごらんになって、何かお感じになることは」
「麒麟の強い気を感じます。特に問題があるようには見えません」
「お目覚めにならないことを除けば、ですね」
「そうです」
「ふうむ。やはり台輔のお望みを地道に探るしかないか……」
 先日の訪問の際も景麒は尚隆に心当たりを尋ねられたが、景麒はまったくな
いと答えた。しかし今、彼は考えに沈んだかと思うとこう言い切った。
「延台輔も麒麟です。麒麟の願うことはやはり、国のことか王のことしかあり
ません」
「しかし」朱衡が言葉を挟んだ。「昨日もお話ししたように、ごく私的なお望
みとしか思えないのですが」

441永遠の行方「王と麒麟(89)」:2011/09/22(木) 19:15:30
「私的だとしても、国か王か、いずれかに関わることです」
「そうでしょうか」
 つい疑わしそうな目を向けると、景麒は憐れむようにふっと口元をなごませ
た。
「あなたがたは麒麟の性(さが)をご存じない。われわれの思考は決して、国
や主君から完全に切り離されることはありません。延王は、延台輔がごく個人
的な願いをいだき、それを恥じて口にしなかったようだとおっしゃっていまし
たが」
「そうです」
「延台輔ご自身がいかに個人的な望みと思っておられようと、それを恥じてお
られようと、やはり国か王に関わることとしか考えられません」
 朱衡は大司空と視線を交わした。果たしてこれは手がかりなのか。しかし鵜
呑みにすることはためらわれた。生きてきた歳月の違いのせいかもしれないが、
景麒より六太のほうが心情的にはるかに複雑な面を持っているのは確かだった
からだ。
「なるほど。まだ宮城内における聞き取りも終わっておりませんから、景台輔
のご助言も踏まえて調査を続けることに致しましょう」
 大司空が無難に返した。朱衡は話題を変え、解呪条件を設定したほうが術が
堅牢になると聞いたが、どうしても解けないものなのかと尋ねた。景麒はまた
考えこみ、「あまり適切なたとえを思いつきませんが」と前置きして言った。
「呪によって眠りに縛られるのが不自然な状態であるのは確かなので、長い間
にはどうしてもどこかにゆがみが生じます。そこであえて最初から出口として
の扉を設けてやる。これが解呪条件です。生じたゆがみは氾濫した河の堤のよ
うに、出口がなければどこが決壊するかわかりませんが、流れる先を一ヶ所に
誘導してやれば制御しやすいからです。なおかつ出口に至る経路で、ゆがみを
逃がす形で巧みに流れの力をそいでやる。そうすれば扉に到達しても力づくで
突破されることはありません。いずれにしろ全方位を完全に抑えることは難し
いですが、最終的に一ヶ所のみ強力に封じれば良いとなれば、話はずっと簡単
になるのです」

442永遠の行方「王と麒麟(90)」:2011/09/22(木) 19:18:05
「そうですか……」
「おまけに所定の手続きによって呪を受け入れたということは、延台輔ご自身
が『目覚めたくない』と思わされているのと同義です。それによって術が強化
されているため厄介です」
「やはり延台輔の願いごとを探るのが確実な方法のようですね」
 朱衡はそう答えてから、過日、主君に命じられた内容を説明した。
「延台輔のお望みそのものが確実な鍵であることを、広く知られるわけにはい
きません。『自分ならそれを知っている』と言えば、でっちあげでも何でも国
との取引材料になりえますから。そこで仁重殿の女官を誘導して、延台輔の願
いがかなえば術が解けるかもしれないという、おとぎ話のような可能性を彼女
らが思いついたことにしたいのです。そうすれば彼女らの忠心に押される形で
心当たりを調査する理由になります。それでいてさほど重要視されていない印
象も与えるため、不穏な輩がたくらみに利用する危険も抑えられるでしょう。
 景台輔のお越しは良い機会ゆえ、そちらに話を向けたいので、ご助力をお願
いできますか」
「……わたしは芝居が不得手です」
 景麒は渋い顔で答えた。朱衡は笑った。
「いえ、むしろ普通になさっていて良いのです。単にわれわれの話を否定しな
いでさえいただければ」
「そういうことでしたら」
 相手はしぶしぶといった体で応じた。朱衡は女官を呼びいれると茶を命じ、
客庁に移って休憩した。しばらく大司空と景麒を相手に雑談をしたのち、朱衡
は控えている女官のひとりに尋ねた。
「本日はまだ主上はこちらにお見えになっていないのだな?」
「はい。いつもふらりとお立ち寄りになりますので、わたくしどももいつお越
しになるか存じません」
「主上は最近はここで何を?」
「以前と同じですわ。台輔のお世話を手伝ってくださいます。それだけでなく、
わたくしどもを力づけてくださいます」

443永遠の行方「王と麒麟(91)」:2011/09/22(木) 19:23:49
「なるほど」
「先日お見えになったときなど、台輔の鼻先に菓子でもぶらさげてやれと冗談
をおっしゃいました。夢の中より現実の世界のほうが良いとわかれば自分で目
覚めるだろうからと」
「ああ、それはいい考えかもしれない」
 尚隆の撒いた「種」はこれかと合点した朱衡はにこやかに応じた。景麒に視
線を戻して「何しろうちの台輔はかなり食い意地が張っていましてね」と軽口
を叩いてみせる。
「しかし残念ながら、ここにある菓子だけでは足りんでしょうなあ」
 戸惑うような景麒を尻目に、大司空も調子を合わせた。ふたりして冗談のよ
うに笑いあいながら、さてここからどうやって話を続けようかと朱衡が考えて
いると、一番隅に控えていた女官が「あの」と口を挟んだ。
「そのう、思ったのですが……」
 とたんに傍らの同輩に袖を引かれ、差し出がましさをたしなめられた彼女は
言葉を切った。朱衡は安心させるようにうなずいた。
「景台輔は延台輔のために遠路はるばるお越しくださったのだ。何か思いつい
たのなら、この際だから申しあげてみなさい。どれほどささいな内容でもかま
わない」
「は、はい」彼女もぎこちないながら微笑を返した。「あの、主上は冗談で
おっしゃいましたけれど、本当にその可能性はないのでしょうか」
「その可能性とは?」
「現実のほうが良いと思っていただくことで、術が解ける可能性です。もちろ
ん実際にはお菓子でどうにかできる問題ではないでしょうが、何か他の、台輔
がとても望んでおられることがあって、それがかなったとしたら。ずっとお眠
りになっているとはいえ、台輔は意識のどこかでわたくしどもの話を聞いてお
られるかもしれません。だとしたらお望みがかなったことを知れば、ご自身で
何とか目覚めようとなさるのではありませんか?」
「ほう」興味深そうにうなずいた朱衡は、景麒に尋ねた。「いかがでしょう、
景台輔。話としてはできすぎという気がしないでもありませんが、少しは可能
性があると思われますか?」

444永遠の行方「王と麒麟(92)」:2011/09/22(木) 19:26:12
 景麒は黙って彼を凝視していたが、やがてためらいがちに答えた。
「わかりませんが……。そう――いう可能性もあるかもしれません……」
「少なくともその試みが害になることはなさそうですね」
 そう言うと景麒はあやふやな口調で「はあ」と同意し、ややあってから思い
切ったように言った。
「そもそも天命を享けた王、それを主君に戴く麒麟は、失道しないかぎり天帝
の加護を受けています。いわば天運を味方につけているのであり、本来、そう
いう相手に対する呪詛を成功させるのは困難です。したがって普通は相手の運
気が下降気味になったとき、それを加速させるような呪詛を仕掛けます。まと
もに張りあっても勝ち目はありませんから。
 もちろん今回の呪者もそれなりに運を味方につけていた。巧妙に罠を張って
延王を油断させただけでなく、即座に死に至らしめるような危険な呪を避ける
ことで、被術者側の無意識の抵抗を最小限に抑えるだけの狡猾さもあった。呪
者が延王に手渡した料紙に焚きしめてあった香も、おそらく術を成功に導くの
に役立つ調合だったのでしょう。
 とはいえ呪者の運もそこまで。呪詛によって滅ぼされるとしたら、しょせん
それだけの運しか持っていなかったのです。しかし延王も延台輔も天運を味方
につけているはずですから、この不遇は一時的なものでしょう。今しがたこの
者が言ったように、お望みがかなえば、延台輔ご自身が目覚めようと努力なさ
る可能性も十分ありえます」
 上出来だ、と朱衡は思った。ここまで話を合わせてもらえれば文句はない。
彼は女官に向き直った。
「かと言って、台輔にそのような大きなお望みがあるかどうかはわからないが、
もし心当たりがあるなら、どんな細かいことでも大宗伯に相談しなさい。台輔
のことを一番よくわかっているのは、日頃からおそばにいるおまえたちなのだ
から」
「は、はい」
「そう――もしかしたら他の者はそのような思いつきを馬鹿にするかもしれな
い。だが主に対するおまえたちの誠心から出た話を卑下することはない。六官
に相談した上でなら、何でも思うとおりにしなさい」
 その後、朱衡らは別室に控えていた黄医の元にも景麒を案内した。主君に報
告すべき内容を把握した景麒は、この件については適宜鸞なり青鳥なりで連絡
を取りあうことを確認し、翌日慶に戻っていった。

4451:2011/09/22(木) 19:33:38
続きはまた明日。
(一ヶ月見ない間に、したらばのスレ表示スタイルがかなり変わりましたね)

>>436
今回、陽子は顔見せ程度、もっと後になってからまた登場するので
しばらくお待ちください♥

>>437-438
マジで一年ぐらいの長いスパンで覗いてもらえると手ごろですw
もともと進行が遅い上に、停滞というか膠着状態の章ですからねー。

突き刺さる……というのが何かちょっと心配ですが、オリキャラのときのように
もしかなり読む人を選ぶ部分があれば指摘してもらえるとありがたいです。
正直かなり鈍感なほうなので、自分では気づかないんですよ……。

446永遠の行方「王と麒麟(93)」:2011/09/23(金) 12:29:25

 麒麟が気にかけるのは王か国のこと。景麒が断言した話を聞いた他の六官は
戸惑った。今回の条件に合致する逸話に心当たりはないし、それは尚隆も同じ
だ。
 これが普通の人間なら、忠心をもって仕えつつも内心で主君を妬み、成り代
わりたいと望むこともあるだろう。そしてそのような二面性を持つ自分の浅ま
しさを恥じることがあるかもしれない。
 しかし六太は麒麟だ。妬みだの恨みだのといった負の感情に由来する望みを
抱くとは考えられないし、かと言って国の繁栄や主君の長寿を願っているので
あれば恥じることではない。仮に六太の基準で恥と思うことがあったとしても、
ここまで固く口をつぐんでいた理由にはならない。そもそも六太が雁を愛して
いるのは明らかだし、たまに言い争うことがあるとはいえ、主君とも五百年の
長きに渡ってうまくやってきた。むしろ尚隆とつるんで突っ走り、何かと官を
困らせてきたほどで……。
「だが留意はしておこう」尚隆は内議の席で重臣たちにそう言った。「少なく
とも同じ麒麟の言葉だからな。あるいは俺たちが何か見落としているのかもし
れん。あまりにも明白すぎて却って気づかないようなことを」
 その内議では光州からの報告も伝えられたものの得るところはなかった。し
かし、もとより六官のほとんどは、光州から解決策がもたらされることなど期
待していなかった。
 ついで宮城内で行なっている聴取の経過が報告された。「望みがかなえば六
太の目が覚める可能性はある」との噂を流した上で、各人に心当たりを尋ねた
ところ、根拠の有無に関わらず話がいろいろ出てきていた。何しろ六太は普段
から宮城のあちこちを気軽に歩いていたため、身分の高低に関わらず、言葉を
交わしたことのある者は多い。彼らから出てきた意見を集め、解呪に力を尽く
している冬官たちに伝えるとともに、情報の集積から見えてくるものがないか
どうか吟味する。
「しかし宮城でのことはどうしても政務がらみの話が主体になります。もっと
個人的な話題が出てくれば、いろいろ判断の助けになるのですが」

447永遠の行方「王と麒麟(94)」:2011/09/23(金) 12:32:39
 一同を見回した白沢に、朱衡が「そうですね」と応じ、少し考えてから続け
た。
「拙官も折に触れて身近な者に尋ねているところですが、実のところ興味深い
話はありました。もう少し詳しく聞いてからと思ったのですが、簡単に申しま
すと、国府にある海客の団欒所についてです。台輔がご身分を隠した上でちょ
くちょく足を運んでおられたことは冢宰もご存じですね」
「もちろん聞いています。そもそも団欒所は靖州侯たる台輔の命があって設け
られた場所ですから」
「秋官府の下吏のひとりが興味本位でたまに訪ねるようになったそうで、その
者から聞いたのですが、団欒所では海客と関弓の民が和やかに交流し、菓子を
持ち寄って飲食したり、蓬莱の楽器を弾いて一緒に歌ったりしているそうです。
蓬莱やこちらの歌をね。聞けば台輔も海客を真似て楽器を演奏することがある
とか」
「ほう」
 尚隆が意外そうな声を上げ、他の者も一様に驚いた。楽器の演奏などという
高雅な趣味は、やんちゃな雁の宰輔には似合わないものだったし、事実そんな
場面を見たことがある者はいなかった。
「それは知らなかった。時々団欒所に通っていることは聞いていたが……。俺
が手慰みに笛を吹くとき、いつもつまらなそうにしておったから、その手の物
に興味はないと思っていたぞ」
「もちろん台輔は楽人ではありませんから、あくまでお遊びの域を出ないで
しょう。一度、件の下吏に案内させて扉の外から窺ったことがある程度なので
詳しくは存じませんが、太鼓をぽこぽこ叩くとか、その程度のようですよ」
「だがそれはそれで楽しそうだ」尚隆はおもしろがり、しきりに「あの六太が
な」とひとりごとのように繰り返した。

448永遠の行方「王と麒麟(95)」:2011/09/23(金) 12:41:30
「要は民に混じってわいわい騒ぐのが楽しかったのでしょう。それに簡単な俗
謡を通じて、海客にわれわれの言葉を学ばせる試みも行なっておられたようで
す。
 ただし件の下吏は、当時は拙官の私邸の奄でしたが、その時点では台輔に気
づいておりませんでした。いつも下界に行くときのように御髪を隠した粗末な
なりでしたし、下吏のほうも年長の海客とばかり話していたからでしょう。そ
れで拙官が教えた上で固く口止めをしておきました。またその日は大勢でにぎ
わっていたため、官服でなかったこともあって、台輔も拙官に気づかなかった
ようです」
 尚隆はにやりとした。「六太が宮城で問題を起こしたときに備え、取引のネ
タのひとつとしてしまいこんだわけか」
「政務さえまじめにやっていただければ、その手の息抜きぐらい認めないわけ
ではありませんから」
 さらりと答えた朱衡に、尚隆は「怖いな。俺もどんな弱みを握られているや
ら」と楽しそうに返した。
「いずれにしろ海客の歌は、宮城での堅苦しい雅楽などとはまったく趣が違い
ました。そもそも非常に騒がしいのですよ」朱衡は当時を思い出して苦笑した。
「民が好む俗楽をさらに騒々しくした感じで、雅のかけらもありませんでした。
興味本位で見に行きながら早々に退散したのはそのためです。台輔に見つかる
ことを避けたというより、正直なところ頭が痛くなりましてね。下吏はもっと
静かな歌もあると、あとで言い訳していましたが」
「だが興味深い。これまで報告された情報と毛色も異なる。六太がいつも具体
的に何をしていたか、その下吏からさらに聞き出したらどうだ」
 朱衡はうなずき、「そのつもりです」と答えた。

-----
次の投下まで、またしばらく間が開きます。

449永遠の行方「王と麒麟(96)」:2011/11/12(土) 13:44:54

 小さなたたずまいの甘味屋で女主人が店番をしていると、そんな店には不似
合いな若い男が訪れた。地味ながら仕立ての良い長袍は、どう見ても農民では
ないが、商売人でもなさそうだ。
 ちょうど客足が途切れて暇を持て余していたところだったので、彼女はつい
しげしげと客を見つめた。
 威圧感はないが、長身なので大きく見える。二間ほどの間口、奥行きもさほ
どではないささやかな店では、それだけで満員になったように思えてしまう。
何となく覚えがある顔のような気もするが、さだかではない。
「いらっしゃい」
 声をかけると、男は狭い店内をぐるりと見回してから「ちと尋ねるが」と
言った。
 なんだ、道でも聞きたいのかとがっかりしながらも、「はいはい、何でしょ
う」と愛想よく応えると。
「女将(おかみ)は六太という少年を知っているか? たまにここで買ってい
たらしいのだが」
 彼女は怪訝な顔をしたもののうなずいた。
「知ってますよ、あのいたずら坊主でしょ。最近は見ないけど」
「俺は風漢という。実は六太の知り合いでな、少し前に六太の養い親が地方に
いくことになって、それに六太もついていったのだ」
 唐突な話題に女主人は面食らった。
「しかし急なことだったので、世話になった人たちに挨拶もできなかったらし
い。それで代わりにこの界隈で挨拶をしてきてほしいと頼まれて、こうして
回っている」
「それは……どうも。ご丁寧に」
 そう答えたものの、そこは商売人の勘、男の言うことに不審を覚えて警戒し
た。それを察したのだろう、相手は苦笑した。
「六太は言わなかったかも知れんが、打ち明けて話すと養い親はそこそこ高い
官位なのだ。俺は以前から世話になっていたもので、子息の頼まれごとをこな
して点数稼ぎをする意味もある」

450永遠の行方「王と麒麟(97)」:2011/11/12(土) 19:58:23
 女主人は曖昧にうなずいた。だがふと考え込んだ彼女は急に目を見開いた。
「旦那、もしかして一度、六太とここに来たことがありませんか?」
「さあ、どうだろう」男は眉根を寄せた。「覚えていないが、あったかも知れ
ん。何度かこの辺で甘味屋めぐりにつきあってやったことはあるからな」
「あたしは旦那に見覚えがありますよ」彼女はようやく警戒を解いて笑いかけ
た。「六太の親御さんには見えなかったし、ちょいと歳の離れた兄弟にしても
雰囲気が違いすぎるし、不思議に思ったのを今思い出しました。なんだ、親御
さんの知り合いだったんですねえ」
「六太と並んでいると似合わぬか」
 苦笑する男に、女主人も人懐こく笑った。
「こう言っちゃ何ですけど、旦那はあまり堅気には見えませんからね。ああ、
ごめんなさいね、だからって無法者に見えるってわけじゃないですから。子供
を連れ歩くような家庭的なお人には見えないだけで」
「ふむ。鋭いな」
「商売人ですから、これで人を見る目は確かですよ」
 胸を張って答える。いずれにしろ男は話が通じて安心したようだった。
「そうですか、六太がねえ。うちはここへ店を構えて三年ですけど、一年ほど
前からよく買いに来てくれました。引っ越すと知っていたら、お餞別をあげた
のに」
「急な話だったらしいからな。俺も後になって聞いた。そのうち、また戻って
くるだろう」
「ま、お役人はお役目でそういうこともままあるそうですね。よろしくお伝え
ください」
 すると男はまた店内を見回し、所狭しと置いてある菓子を眺めた。
「六太がここの品を懐かしがっているので、来たついでにいくつか買って送っ
てやりたいのだが。あれが好きそうな菓子はどれだろう」
「あの子は、牛や山羊のお乳なんかは体に合わないと言っていたけど、そうい
うのが入っていないお菓子は何でもおいしいって言ってくれましたよ。一種類
をたくさん食べるより、ちょっとずついろいろなお菓子を食べるのが好きだっ
たみたい」
「そうか。それなら日持ちのするものを適当に見繕ってくれんか」

451永遠の行方「王と麒麟(98)」:2011/11/15(火) 22:48:15
「はいはい。ちょっと待っててくださいね」
 彼女が手早く菓子を選んで小さな包みを作ると、男は小卓の片隅に載ってい
た素朴なからくり人形に目を留めた。取っ手を回すと人形が走るように脚を動
かす仕掛けになっている。彼がめずらしそうに手に取ったのに気づき、女主人
は「うちの息子が作ったものです」と教えた。
「ほう。あんたの息子は職人か」
「本職は大工だから、お遊びみたいなものですけどね。お菓子を買いにきた子
供たちが喜ぶものだから置いてあるんですよ」
「ふむ。確かに六太もこんな細工が好きだった」
「そういえばあの子も、新しい細工に取り替えるたびに動かして遊んでいっ
たっけ。やっぱり男の子ですねえ。仕組みが気になるらしくて、ひっくり返し
たり、取っ手を回しながら歯車の動きを見たりしてました。あたしも息子が
作ったものが喜ばれると嬉しいものだから、古くなったのをあげたこともあり
ますよ」
 嬉しそうに笑って言うと、男も笑い返した。
「そうか。そんなふうに覚えてもらえていたと知ったら六太は喜ぶだろう。何
しろ急に関弓を離れたから、便りを読むとかなり淋しがっているようだ。菓子
と一緒に、こうして知り合いを訪ねた話をいろいろ書き送ってやりたいと思っ
ている」
「ぜひよろしく言ってくださいな」
「ついでと言っては何だが、他に六太が好きそうなものを知らんか? どうせ
この菓子を送るのだから、まとめていろいろ送ってやりたい」
「お菓子で?」
「何でも良いのだ。実を言うと俺も六太がいなくなって淋しくてな。あれはな
かなか賑やかな子供だったから、養い親に世話になったことはさておいても、
できるだけのことはしてやりたい」
 そう言った男は確かに少しさびしそうだった。子供がひとり引っ越しただけ
で、大の大人が、と女主人は少しあきれた。
「いたずら好きでしたけどねえ」そう言って肩をすくめる。「でもまあ、心配
はいりませんよ。何だかんだ言って子供はすぐ周囲になじむものです」

452永遠の行方「王と麒麟(99)」:2011/11/15(火) 22:52:24
「そうかもしれん。何にしても六太が好きなものをたくさん送ってやって、少
しでも向こうに馴染む手助けができればと思っている。菓子やからくり人形の
他に六太の好きな物を聞いたことがあったら、ぜひ教えてくれ」
「さて、いきなり言われてもねえ」
 女主人が困惑して考えこむと、男は「何でもいい」と言った。
「六太が好きだった物、楽しみにしていたこと、喜んでいたことに心当たりは
ないか? 物でなくてもかまわん。たとえば俺はこの界隈で挨拶をしてきてく
れと頼まれただけだが、もし別の場所にも親しくしていた人物がいるなら、
そっちも回っても良いのだ。そうすれば六太への手紙に書けるからな。そう
いった相手を知っていたら、教えてもらえるとありがたい」
 ずいぶん必死だとさすがに奇妙に思いながらも、他に客はいないとあって、
女主人はゆっくり考えた。
「あの子は海客とも親しくしていたみたいだから、蓬莱ふうの、めずらしいも
のがいいんじゃないかしら」
「海客?」
「聞いた話じゃ、国府に海客の団欒所があるそうで、そこで楽しく遊ぶことも
あったようですよ」
「ああ、それは知っている」
「何だったかしら、他にもいろいろ聞いたと思ったんだけど。そうそう、一度、
絵描きを知らないかと聞かれたことがありました。紙芝居ってのをやりたかっ
たんですって」
「紙芝居?」
「講談のようなものだそうですよ。ただ、紙に描いた情景を客に見せながら説
明するんです。そうして情景を差し替えながら物語を進めていく。芝居なら役
者や小道具が必要だけど、紙芝居なら絵を描いた紙と講釈師がいればできるで
しょう。でもあいにく、あたしの知り合いに絵描きはいなくて」
「ほう……」
 こうまで六太のために気を配る男に不審を覚えながらも、これまで話したこ
とは別段、誰かの不利益になったり危険を招くような内容ではないはずだ。そ
う考えて女主人は尋ねられるままに、思い出せる内容をひととおり話した。さ
らには自分の息子が六太に頼まれて木を削り、蓬莱ふうの楽器作りを手伝った
話もしてやった。

453永遠の行方「王と麒麟(100)」:2011/11/15(火) 22:56:24
 そういったあれこれを話すと、男は時折「ほう。それは知らなかったな」と
相槌を打ちながら、微笑とともに聞いていた。
 やがて菓子の包みをかかえた男が帰っていくと、女主人は彼が何度か口にし
たその言葉に首をひねった。親兄弟ではないなら、知らないことがあってもむ
しろ当然ではないか……。

 鏡磨きの道具を抱えて歩いていた男は、ふと雑踏の中で覚えのある顔を見つ
けた。場末のいかがわしい賭場で、二、三度言葉を交わしたことのある相手だ。
「よう。風漢じゃねえか」
 にやにやしながら近づくと、相手は見慣れた鷹揚な笑みを見せた。
 風漢はほどほどに賭博を楽しむことを知っていながら、金のあるときは惜し
げもなく使い切って素寒貧になる、しかもそれで一向に困った様子がないとい
う不思議な男だった。おおかた、どこかの大店(おおだな)の身内なのだろう
が、なかなか憎めない男でもあった。おまけに長身ではあるがごつい印象はな
く、すっきりと見栄えの良い姿とあって、身なりさえ整えればなかなかの色男
と言えるだろう。
「どうだい、これから」
 指で賽(さい)を投げる真似をする。だが相手は苦笑して首を振った。
「すまんが、手持ちがなくてな」
「そりゃ残念だ。俺のほうはつけの代金を徴収してきたところだから、けっこ
う懐はあったかいぞ」
「まあ、次の機会にな」去りかけた風漢は、ふと思いついたように振り返った。
「おまえ、六太を知っているか? ときどき俺と一緒に歩いていた十三歳の少
年なのだが」
「ふん? あんたが餓鬼を連れてたって?」
 莫迦にしたように鼻で笑う。そもそもこの男とは賭場でしか会ったことはな
い。子供連れのはずはなかった。
「そうか、知らんか……」
「その餓鬼がなんだって?」

454永遠の行方「王と麒麟(101)」:2011/11/15(火) 23:00:00
 話の見えないのが嫌だったので尋ねると、風漢は彼が世話になった役人の子
息だと説明した。その一家が仕事の関係で急に地方に引っ越したため、よくこ
の街で遊んでいた子息に頼まれて代わりに挨拶回りをしているのだという。
「よくもまあ、そんなつまらんことを」
 つい呆れた声を漏らすと、風漢は「そう言ってくれるな」と笑った。
「それなりの官位の役人だから、子息でも恩を売っておけばいずれ役立つこと
もあろう。それに地方へ行ったのは一時的なことだから、しばらくしたらまた
戻ってくるはずだ」
「へえ。あんたでもそんな世知辛いことを考えるんだな」
 彼は何となく幻滅して答えた。どこか飄々としているこの男も、やはり浮世
の枷からは逃れられないのだ……。
 だがそれは彼自身も同じだ。懐が温かいとは言っても、しがない鏡磨きの仕
事で稼げる金はたかが知れている。十年も前に女房と別れて以来、楽しみと
言っては女と博打しかない。もっともそれで身上を潰すほどの甲斐性もないが、
それが幸いなのかどうか。
「……まあ、確かに役人に恩を売れるものなら売っておいたほうがいいわな」
 おざなりにつぶやく。軽くうなずき合って互いに立ち去ろうとしたところで、
ふと足を止めた風漢がまた男を見やった。その目に一瞬の逡巡を認めて、男は
意外に思った。
「……俺に女房子供はおらぬが、六太のことは幼い頃からよく知っているゆえ、
俺にとっても息子のようなものなのだ。それが急な転居で淋しがっているよう
なので、親が役人というのはさておいても、少しでも慰めになるようなことを
してやりたい」
「ふん?」
 取ってつけたような打ち明け話に、男はつまらなそうに鼻を鳴らし、顔をし
かめた。
 彼にも息子がいる。別れた女房が引き取って以来、どこで何をしているのか
もわからないが。妻子に大したことをしてやれなかったという負い目が、逆に
冷たい態度を装わせた。

455永遠の行方「王と麒麟(102)」:2011/11/15(火) 23:03:36
「どうかしたか?」
 風漢に尋ねられ、男は興味がなさそうに首を振った。それから少しそっけな
かったかもしれないと思い直して、言い訳のように答えた。
「子供のことだ、機嫌を取りたいなら、適当に玩具でも買ってやればいいだろ
が」
「たとえば?」
「これが小娘なら飾りもので間違いなく機嫌を取れる。十三歳でいいとこの坊
ちゃんなら、扱いやすい短刀ってとこだな。柄や鞘に見栄えのする細工がして
あって、帯にでも挟めるようなやつだ。背伸びをしたい年頃だ、喜ぶだろうさ」
「それが、六太は剣だの弓矢だのといった猛々しいものは嫌いなのだ。菓子や
らからくり人形やらを好んでいるのは知っているが、他にも何かないかと探し
ている」
「へえ。ずいぶんやわな小僧だな」
「何にしろ、そういうわけで六太の好みを知っている者がいれば助かるのだが」
「悪いが、心当たりはないな」
 肩をすくめてみせる。それから二言三言交わしたあと、彼らは別々の方向に
歩き去った。
 しばらく歩いたあとで鏡磨きの男はふと背後を振り返った。雑踏の向こうに、
既に風漢の姿はない。
 家庭とは縁がなさそうなあの男でも、子供を気にかけるものなのか。だが、
あの物言いからしてただの言い訳のように思えた。どうせ高官である親のほう
に取り入りたいだけだ。派手に遊びすぎてとうとう金が尽きたか、何かやばい
ことをして後ろ盾がほしくなったか……。
「息子、ねえ……」
 口の中でつぶやく。そしてつい、幼い頃に手放したきりの自分の息子を思い
出してまた顔をしかめたのだった。

456永遠の行方「王と麒麟(103)」:2011/11/15(火) 23:07:43

「変わりはないようだな」
 その日、いつものように仁重殿を訪れた尚隆は、相変わらず意識のない六太
を見おろして言った。付き添っていた黄医は、いつも尚隆が六太に飲ませる果
汁を女官に用意させながら「残念ながら」と答えた。
 やがて枕元に座って六太を片腕でかかえ、時間をかけて果汁を飲ませた尚隆
は、ふと何かに気づいたように半身の腕をなぞった。
「ずいぶんやせたようだが」
「はい」
 もともと六太は細身だし、子供らしいふっくらとした頬は失われていないの
で気づきにくかったが、以前と比べて明らかに腕が細くなっていた。眉をひそ
めた尚隆は、ついで衾をはぎ、薄い被衫の上から太もものあたりに掌をすべら
せた。脚の変化は腕よりも顕著だった。
「脚もかなりやせたな」
「はい。既に何ヶ月も寝たきりでいらっしゃいますから仕方がありません」
「と言うと?」
「ご自分で腕や脚を動かしになれませんので、筋肉が落ちてきています」
 黄医は説明した。神仙であっても暴飲暴食をすれば太るし、逆に鍛錬すれば
体が引き締まるものだ。それは只人となんら変わらない。当然、手足を使わな
ければ萎え、筋肉が落ちて細くなっていく。それが続けば、やがて歩くことす
らままならなくなる。
「朝昼晩と、手足をさすったり関節を動かしたりしてはおりますが、こればか
りは台輔ご自身が身動きなさらないとどうにもなりません」
「かくしゃくとしていた老人が、風邪で寝込んだとたん脚が萎えて起きるのが
難しくなったという話を聞いたことがあるが……」
 黄医はうなずいた。「老人ですと、たった一週間寝込んだだけでも相当に足
腰が弱るものです。ただ台輔はお若い体ですし、そもそも神獣麒麟でいらっ
しゃるのですから、お目覚めにさえなれば回復なさるでしょう。それでもこの
ご様子では、元のお体に戻るまでしばらく訓練が必要かと」
「意識が戻っても、当分は歩けないということか」
「起き上がるのも難しいと思われます」
 重々しい答えに尚隆は無言のまま視線を落とし、腕の中の六太の寝顔をじっ
と見つめた。

4571:2011/11/15(火) 23:09:51
今回はここまでです。
今のところ、年内にあと一回投下できるかどうか?という感じ。

458名無しさん:2011/11/21(月) 00:38:15
ふぉぉ油断してしばらく来ていなかったら投下キテタワ――(゚∀゚)――!!
必死な尚隆良いですなー(*´Д`)ハァハァ

459名無しさん:2011/12/14(水) 20:06:48
年末というせいもあってか閑散として淋しいので
続きをちまちま落としていきますね。

460永遠の行方「王と麒麟(104)」:2011/12/14(水) 20:09:41

 今回、鳴賢が海客の団欒所を覗いてみようと思い立ったのは、単なる好奇心
からというわけでもなかった。普段の生活から抜け出してみたかったのだ。
もっと正確に言えば逃げ出したかった。
 大学で友人たちと歓談すると一時的に気は晴れるが、それでも胸のどこかに
重苦しい塊はあった。親しい相手が目の前にいながら、彼らに打ち明けられな
い事情を抱えていると、友人と会うこと自体が逆に重荷になる。かと言って、
完全に見知らぬ人々の中に身を置くのはいっそう孤独が深まる気がする。
 そこで彼は、知り合いというほど親しくないものの、見た顔のある団欒所を
思い出したのだった。
 新年もちょっと覗いてみて、目ざとく彼を見つけた守真に酒をふるまわれた
から、訪れるのはこれで三回目だ。新年の祝いのときは関弓の民もいて、およ
そ三十人ほどで楽しく語らっていたようだが、今日の開放日にいたのは十数人
だった。
 交わされている言葉から推して関弓の民がほとんど。海客は守真と恂生だけ
のようだった。最初に訪れたとき見たみすぼらしい部分はとうになく、小綺麗
に整頓された堂室の奥には、こちらの世界や蓬莱のものらしい楽器が置かれて
いて、恂生が婚約者の――それとももう結婚したのだったか――娘と一緒に、
親に連れられてきたのだろう子供らと遊んでやっていた。他の関弓の民は思い
思いの場所で椅子に座るなどして歓談しており、うちひとりの女性が守真のい
る卓で一緒にお茶を飲んでいた。
 居心地が悪かったら、すぐ帰ろう。そう考えて堂内を見回した鳴賢を、今回
も守真が真っ先に見つけた。常に来訪者に気を配っているのかもしれない。そ
う思って振り返ってみれば、彼女はいつも堂室の扉に向かって座っていたし、
二度目に訪れたときもちゃんと名前を呼んで声をかけてくれていた。
「こんにちは、鳴賢」
 にこやかな挨拶に、鳴賢も「こんにちは」と返した。置かれている榻のひと
つに手招かれたので、傍らの女性に会釈しながら隣に座ると、すぐに茶と菓子
の小皿が出てきた。載っている菓子のひとつは今まで見たことがないほど精緻
なものだったから、彼は驚いて見つめた。

461永遠の行方「王と麒麟(105)」:2011/12/15(木) 22:08:41
「これは蓬莱の菓子?」
「いいえ」守真はおかしそうに笑った。「ただの焼き菓子だもの。抜き型は工
夫したけど、あとは色とりどりの飴を垂らしたり、砂糖づけの乾果を細かく
切って載せて蓬莱ふうに飾りつけただけ。お菓子に限らないけど、蓬莱では見
た目を美しく細やかに盛りつけることも大切なの」
「へえー」
 鳴賢は素直に感心し、件の菓子を手にとってためつすがめつした。これなら
高級な菜館の甘味としても出せるのではないだろうか。
 傍らの関弓の女性も、守真の手料理はとても綺麗で美味しいと褒めた。守真
は、本当は手抜きが得意なんだけどと笑ったあとで、簡単にできるものばかり
だと腕がなまるので、ときどき難しそうな飾りつけに挑戦するのだと言った。
「何しろこういう飾りつけに必要な材料もすぐ安価に手に入るんだもの、雁は
すばらしいわ。国によっては、たとえば砂糖は高級品でなかなか庶民は買えな
いって聞くでしょ」
「そうなんですか?」
「ええ、蜂蜜のほうが安いし一般的らしいわよ。甘いものって気持ちが和らぐ
から、わたしたちみたいな者でも気軽に砂糖を買えるのは本当にありがたい
わ」
「荒れた国じゃ、そもそも甘味自体が少ないらしいからね。でも雁には主上が
いらっしゃるから」
 関弓の女性が誇らしげな表情で相槌を打った。自国のことを褒められて悪い
気はしないから、鳴賢も嬉しく思いながら、飴で飾った菓子を口に入れた。抑
えた甘さとほろ苦さが同居した不思議な味だった。
「お味はどう?」
「うまいです。甘さもくどくなくて上品な感じです」
「それは良かったわ。ここじゃ、男の人でもとことん甘いのが好きな人が多い
みたいだけど、そういうのばかりだと飽きやすいと思って砂糖を控えめにして
みたの」
「これならいくらでも食べられそうです」
「じゃあ、帰るときにまたお土産にしてあげるわね。大学でお友達とどうぞ」
「あれ、あんた、大学生なの?」

462永遠の行方「王と麒麟(106)」:2011/12/17(土) 12:47:53
 目を丸くした女性に、鳴賢は「落ちこぼれかけてますけどね」と笑った。楽
器の一画では、子供たちを前に恂生が鼓を叩いてやっていて、子供たち自身は
手のひらほどの小さくて単純な楽器で、鼓と拍子を合わせながら笑い声を上げ
ている。詩吟と同じく音楽も教養のひとつだから、鳴賢も笛のひとつも嗜まな
いではないが、蓬莱の楽器はさすがにめずらしく、こうして見ただけでは弾き
かたがわからないものもあって興味深かった。
「開放日でも、あまり海客は来ないんですね」
 何気なく言うと、守真は「そうね」とうなずいた。
「雁に住んでいる海客だけでも数十人はいると聞くし、関弓に近いところにい
る人だけでも十人はいるだろうけど、だんだん来なくなる傾向があるわ」
「どうして?」
「海客同士はいわば同郷だから懐かしくはあるけれど、それって嫌でも蓬莱を
思いだすってことでしょ。でもわたしたちはもう故郷に戻れない。だから気持
ちにけりをつけるためにあえて離れるんだと思う」
「ふうん……」
「ただ、それでうまくやっていければいいけど、精神的に追い詰められて堕ち
るところまで堕ちる人もいるの。困ったときは頼ってほしいんだけど、なかな
かそういうわけにもいかなくて」
 以前鳴賢は楽俊から、団欒所の開く日が定められたのは、仲間内で閉じこ
もって問題を起こす輩がいたからだと聞かされた。だが問題はもっと複雑なの
かもしれない。
「いろいろ難しいのよね。誰でも傷つくのは怖いから」守真は考え深げに言っ
た。「特にこっちに流されてきたばかりの海客は打ちひしがれていて、十の慰
めがあっても、ささいな行き違いひとつで傷ついたりする。それが続くとどん
どん過敏になって、百の慰めがあっても一の困難で傷つくようになる。だから
と言って内にこもっていても何にもならないんだけど、そこまで悟るには長い
時間がかかるわ。こればかりは他人に言われてどうなるものでもないから」
「でもいつかは、なんていうか――諦めないといけませんよね?」
「そうね。でも難しいわ。たまに平然として見える人もいるんだけど、内心で
は他の人以上に傷ついていたりするの。本人が自覚していなくても。だからと
言って、やっぱり心のうちを吐き出してもらわないとわたしたちもどうしよう
もないんだけど」

463永遠の行方「王と麒麟(107)」:2011/12/18(日) 09:50:07
 悲嘆と衝撃を表に出さない人は鬱憤をどんどん溜めていって、思いもかけな
いときに爆発するのだという。それが他人を傷つける形だったりすると、海客
全員がそう見られるようになってしまうと守真は悲しそうに語った。
 彼女は、手を伸ばせばはたかれることもあるだろうが、その手をつかんで助
けてくれる人もいる、閉じこもっていてはそういう出会いの可能性も自分で拒
否することになるとも言った。だがそれは、悲嘆を経て現実を見つめる心境に
たどり着いたからこそ言える言葉なのだろう。
 ふと鳴賢は悟った。自分がここに来ようと思ったのは、彼自身に劣らず悩み
傷ついている人が確実にいるとわかっていたからだと。一見穏やかに暮らして
いるように見える守真と恂生だって、大いに荒れたことがあるはずなのだ。そ
ういえば初めて会ったとき、恂生がそんなことを言っていた……。
「そういうわけで、ここにくる顔ぶれはだいたい決まっているの。もっと人が
少なければ悠子ちゃんも来るけど、今日は顔を見せたと思ったらすぐ里家に
帰ってしまったわ。それでも随分進歩したのよ」
「ユウコちゃん?」
「胎果の女の子よ。緑の髪の」
「――ああ」
 楽俊を嫌悪していると鳴賢が直感した娘だ。彼自身もあまり顔を合わせたい
相手ではなかったから、いないほうが気が楽だった。
「あとは国府に勤めている華期(かき)って男性も常連だけど、最近は仕事が
忙しいみたいで全然顔を見ないわね。彼がいると恂生とふたりで演奏してくれ
るから、子供たちが喜ぶんだけど」
「へえ」
「六太もいれば、三人で小さな子供たちを楽しませてくれるわ。男性も意外と
子供好きだったり世話好きだったりするのよね」
 不意打ちのように口にされた名前に、鳴賢は鋭い痛みを覚えた。誤魔化すよ
うに顔を伏せて茶を口にする。
「……守真さんは、楽器は?」
 何とか取り繕って尋ねる。相手は困ったように笑った。
「ピアノを少しだけ。昔はもう少しマシだったんだけど、指がなまっちゃって、
今じゃ簡単な童謡くらいしか弾けないわねえ」

464永遠の行方「王と麒麟(108)」:2011/12/19(月) 18:48:59
「ぴあの?」
「ほら、あそこの一画で手前にある黒い大きな楽器のこと」
 指し示されたほうを鳴賢は頭をめぐらせて見た。それは奇妙な形をした卓の
ような黒い楽器で、いったいどのように弾くものなのか見当がつかなかった。
「でもここにあんな大きな楽器があるのって不思議よね。随分古いものだと思
うんだけど――さすがに百年ってことはないでしょうけど、少なくとも何十年
かは経ている感じなのよ。あのまま蓬莱から流されてきたとも思えないし、仮
に流されてきたのだとしたら状態が良すぎるし、いったい誰が持ちこんだのか
しら。カスタネットは華期の手作りで、ドラムセットもこちらの楽器を改造し
たりして恂生が何とか形にしたんだけど、あのグランドピアノはわたしがここ
に来たときはもうあったの。ただ調律は、昔いた海客から引き継いだ恂生も四
苦八苦していて、もういい音は出ないわね。それでもお遊びには十分だわ」
「そうですか」
 適当に相槌を打ちながら、鳴賢は六太のことを考えた。六太の身分について
は知らないらしいのでさておき、昏睡状態であることを知ったら彼女も心を痛
めるだろう。
 倩霞の家に行く途中で話した内容を思い出す。海客と関弓の民の交流につい
て、六太は随分楽しそうに語っていた。何か――そう、紙芝居とか言っていた。
おそらくここにある楽器についても、それを使った楽しい催しを考えていただ
ろうに。
 ――自分にも何かできないだろうか。
 ふと彼は思った。絵を描けないから紙芝居も作れないし蓬莱の楽器も弾けな
いが、そんな自分でも少しは役に立つことがあるのではないだろうか。

 同じ日、鳴賢が寮の自室に戻ってしばらくすると、ふらりと風漢がやってき
た。
 風漢は「元気でやっているようだな」と声をかけた。物思いが晴れたわけで
はないが、蓬莱のことをいろいろ守真や恂生に尋ねているうちに気がまぎれた
ため、それなりに明るい顔をしていたのだろう。
「今日は、何か?」

465永遠の行方「王と麒麟(109)」:2011/12/20(火) 21:49:34
「またおまえと話をしようと思ってな。六太について、俺の知らないことがま
だまだ出てきそうだ」
「じゃあ、まだ……」
「こればかりは大当たりを引き当てるまで、正解に近づいているかどうかすら
判断できんから仕方がない」
 鳴賢はがっかりした。だが相手の言うとおりではあったから、気を取り直し
て「そうだな」と応じた。
 風漢はまた軽食の包みを持参していて、鳴賢に勧めてくれた。鳴賢のほうは
守真からもらった菓子があったのでそれを出すと、風漢もめずらしがった。
「今日、海客の団欒所に行ってきてさ。国府にあるんだけど知ってるか?」
「ああ。六太がかなり気にかけていたようだからな」
「そこにいた海客がくれたんだ。細やかに飾ったり盛りつけるのが蓬莱ふうら
しいぜ」
「なるほど」
 菓子を手に取ってしげしげと眺めた風漢は、楽俊にも会い、六太の望みにつ
いて心当たりを尋ねたと言った。
「楽俊――文張にも事情を話したってことか?」鳴賢は驚いた。
「いや。理由は明かせぬが、故あって知りたいとだけ言っておいた」
「……それで納得したのか?」
「余計なことは何も聞いてこなかったな」
「へえ……。さすがと言うべきなんだろうな」
 感嘆をこめて応える。風漢の尋ねかた次第にしても、普通は事情を尋ねるだ
ろうに。
「口止めはしたのか?」
「ああ。だがやはり六太に何かがあったことは察したようで心配そうだった。
近いうちにちゃんと時間を取って経緯を説明してやるつもりではいるが、それ
で逆に勉強に影響が出るようではまずい。難しいところだ。むろん本来ならお
まえも巻きこむべきではないが、すまないと思っている」
「あ、いや」鳴賢はあわてた。「あんたのせいじゃない。むしろ俺は、こう
やって話を聞いてもらってありがたいくらいだ。他には誰とも話せないし」

466永遠の行方「王と麒麟(110)」:2011/12/21(水) 20:27:22
「ふむ。ならば楽俊にも早いうちに事情を明かすとするか。そうすればおまえ
も話し相手ができる。なに、話が広がることは心配するな。もともと楽俊は六
太の身分を知っているし、何年も親しくつきあっている。個人的にいろいろ頼
まれごとをこなしたりもしていたようだ」
 巧国出身の楽俊がどこで知り合ったかはわからないが、大学に入学したとき
には既に六太の正体を知っていたのだろう。思わず「やっぱり」とつぶやくと、
風漢は「ん?」と言うかのように眉を上げたが、それ以上何も言わなかった。
 いずれにしろいくら伏せたいと思っても、六太を助けようとするかぎり、少
しずつ事情を知る人間が増えていくのは避けられなかった。あらためて考える
までもなく当たり前のことだったが、いくら心配するなと言われても、秘密が
どんどん漏れていくようで鳴賢は落ち着かなかった。彼としてはそれが悪い方
向に転ばないことを祈るしかない。
「そうすると、俺なんかより文張のほうがよっぽど詳しそうだな。それで、心
当たりはあったって?」
「残念ながら目新しい話はなかった。意外とおまえが聞いたような深刻な話は
しておらぬようだ。関弓で六太がよく行っていた店も教えてもらったので、そ
のうちの何軒かに顔を出してきたが、こちらも収穫というほどのものはない。
いきなり突っ込んだ話などできぬゆえ、六太の好物を尋ねる程度しかできな
かったせいもあろうが」
 どうやらここしばらく、まめに街を歩いて聞き込みをしていたらしい。風漢
は、六太が養い親の官吏と一緒に地方に引っ越したという設定を披露した。急
なことだったので、彼が六太の代理として挨拶に回っているのだと。あまりう
まい言い訳とは思わなかったが、大人数ではなく風漢ひとりがひっそりと回っ
ているかぎりは目立たないし、問題ないだろう。
 聞き込みの相手は大人が大半だが、往来で茶卵売りの少年につかまって茶卵
を売りつけられた折に、近辺の子供たちが六太のことを知っているか尋ねたり
もしたらしい。残念ながらすべて空振りに終わったようだが、特に落胆した様
子はなかった。

467永遠の行方「王と麒麟(111)」:2011/12/22(木) 19:52:48
「正直、期待していなかったとは言わぬ。だが難しいだろうと思ってはいたか
らな、そういう感触をはっきりつかんだだけでも収穫と言える。そもそも仮に
六太が自分の望みについて話した相手がいたとしても、さほど親しくないなら
当人はとうに忘れ去っているだろう。やはり今まで知られていなかった知り合
いとやらを探すよりは、おまえや楽俊のような、既に俺も知っている相手と何
度も話して情報を掘り起こすほうが見込みがある。他の者に手を広げるとして
もそのあとでいい」
「俺にわかることならいくらでも聞いてくれ。自分では何も思いつかないが、
いろいろ尋ねてくれれば思い出すことがあるかもしれない」
 鳴賢は言った。もっとも何が手がかりになるかもわからないし、風漢のほう
からいちいち尋ねるのも効率が悪かったので、結局、何年も前の楽俊の房間で
の六太との出会いからこれまでのことを、思い出せるかぎり話すことになった。
以前、菜館で話した内容とも多く重複したが、風漢は辛抱強く耳を傾け、むし
ろ途中で質問を挟んであやふやな点を細かく尋ねたりした。
 六太つながりで海客の団欒所についても話が及び、ふと鳴賢は「あそこで俺
でも役立てることってあると思うか?」と聞いてみた。六太は海客のことを気
にかけていた。六太自身も蓬莱の生まれであることが関係しているのかもしれ
ないが、自分が尽力することで多少なりとも六太のためになるだろうか。
「おまえが本当にそうしたいなら、まずは彼らのことをもっと知ることだろう
な。知ればおのずとやりたいこと、やれることが見えてくるものだ」
「そうか。そうかもな」
 こんなことに巻き込まれる前だったら、鳴賢も積極的に海客と関わりたいと
は考えなかっただろう。だが風漢が、いろいろな人々と知り合って縁ができる
のはいいものだぞ、と笑顔で続けたので、力づけられた気分だった。先日の飲
み食いの際の語らいと言い、どうやら相手は鳴賢がこれまで考えていたより懐
の深い人物だったらしい。
 何だかんだ言いながら、やっぱり国官ともなると違うんだな、と心の中でひ
とりごちる。あの大司寇も立派な人物だった。だが。
 それほどの人々に囲まれていながら六太は、王が孤独だと言ったのだ。断言
したわけではないが、そうほのめかした。

468永遠の行方「王と麒麟(112)」:2011/12/23(金) 11:22:23
 いや、あれは宮城での話ではなく、市井の民人がいだいている偶像の話だっ
たか――と、既に細部が曖昧になっている記憶をたぐる。そして孤独にさいな
まれるのは王だけではないだろうと考えた。
 なぜなら麒麟も同じなのだから。人々は勝手に幻想を抱いてその幻想に心酔
する。麒麟本人が何を思おうとどうでもいい。普段は明るい六太が、内心では
いろいろ思い悩んでいるようだった。しかし誰も個人としての六太の心境なん
か考えもしないのだろう。だから――そう、きっとあれは六太自身のことでも
あったのだ。
 それを訴えると、風漢は考え深げに鳴賢を見つめた。彼の口から漏れる言葉
は含蓄に富んでおり、今や鳴賢は無意識に相手の助言を期待していた。
「おまえの慰めになるかどうかはわからぬか」
「うん」
「民人が王や麒麟の人となりを知らないとおまえは言うが、それも利点がある」
「利点?」
「仮に王が私生活にだらしなく、六太が言うように賭博好き女好きだったとし
ても、民が知るのはその施政が良いか悪いかだけだ。つまりは余計な知識に惑
わされずに王を評価できるということだ」
「それはそうだけど……」
「だからこそ王が失道したら厳しく糾弾できるのだし、未練もなく次の王を求
められるだろう。もし個人としての王を知っていれば、それまでの功績から見
捨てることを躊躇するかもしれないし、苦しむかもしれない。だが既に国は傾
いているのだ、生活も困窮しているだろう。そんな時代に、王に同情してさら
に民が苦しむことはない」
 あっさり言ってのけた彼を、鳴賢は触れれば切れる刃のようだと思った。あ
まりの鋭さゆえに斬られたときは気づかないが、なまくらかと思って油断して
いると痛い目に遭う。
 これほど冷静に割り切っている臣下をかかえている延王は、果たして幸せな
のだろうか。いや、六太はそのことを知っていたからこそ、主君の心情を慮っ
ていたのではないか……。
「六太にしても麒麟ゆえに目先の慈悲に惑わされ、大局を見定めることができ
ない。六太個人を知り、あれが施す慈悲の詳細を知ったら、反感を持つ民は大
勢出てくる」

469永遠の行方「王と麒麟(113)」:2011/12/24(土) 11:58:20
「そうなのか?」
 驚いて問い返すと、風漢は苦笑した。
「おまえも、官吏が浮民の親子を追い立てたことを六太が責める言葉を口にし
たとき、内心で不満を覚えたと言っていたろうが。浮民だけではない、たとえ
大勢の人間を殺した極悪人でも、目の前で嘆願されれば六太は赦さずにはいら
れない。被害者の親族がどれほど憤り嘆き悲しもうとな。それが麒麟という生
きものの性情なのだ。だから麒麟を神秘の神人として幻想のままに置いておく
のは悪いことでははない。民に伝わるのはあくまで宰輔が慈悲深いという漠然
とした事実だけだから、よほどのことがなければ悪意の持ちようがない」
 鳴賢は何も言えずに聞いていた。今回の謀反の首謀者である暁紅のことも六
太は赦していた。少なくとも責める様子はなく、憐れんでさえいた。それを光
州で病に斃れた人々の縁者が知ったら、憤りを覚える者も出るだろう。
 風漢は続けた、どんなものにも表と裏の両面があり、良いことだけ、悪いこ
とだけ、という事柄は滅多にないと。
「一筋縄ではいかないな」鳴賢は溜息まじりにつぶやいた。「言われてみれば、
確かに個人としての王や麒麟を知らないってことは利点もある。雲の上の存在
だと思っていればこそ、よほど切迫しなければ、謀反だの何だのといった良か
らぬ考えをめぐらすこともないだろうから」
 今回の事件にしても、暁紅はもともと州城にいた仙なのだから普通の民が起
こしたわけではない。それも王が失政したわけでもなく個人的かつ利己的な恨
みが動機のようだから、対応に当たった延王の気持ちはかなり違うだろう。
もっとも五百年ものあいだ君臨し続け、奸臣による多くの謀反を鎮めてきた王
なのだから、この程度ではびくともしないだろうが。
「……五百年も生きるって、どんな気持ちなんだろうな」
 ふと言葉を漏らす。風漢が黙っていたので、鳴賢はひとりごとのように続け
た。
「しかもおもしろおかしく遊び暮らすんならともかく、毎日が重責の連続なん
てさ。王は失敗したら死ぬしかない。それでも昇山したやつなら王になる気
満々だったはずだからまだしも、今の主上は違うだろ。そうして麒麟のほうは、
王が人の道を失ったら代わりに病んで死ぬ。そりゃ自分が選んだ王なんだから、
仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど、結局は他人の言動のせいで自
分が苦しんで死ぬってことだ。俺なら王にも麒麟にもなりたくはないな」

470永遠の行方「王と麒麟(114)」:2011/12/25(日) 11:33:26
「そうだな。しかし現実には、私欲から王位を簒奪しようとする者は絶えない。
今回の謀反人が仕えていた元・州候もそうだ。よほど王位に魅力を感じるのだ
ろう。だがそういう輩がうまく国を治められるとは思えぬし、治められねば
早々に国が荒れて殺されるしかないのだがな。おそらく普通に仙として王に仕
えていたほうが、よほど安らかに長生きできように」
 実際に宮城で働いているせいか実感のこもった言葉に、鳴賢も同意した。
「今回のことで、才の前王の遺言を思い出してさ」
「責難は成事にあらず、というあれか?」
 鳴賢は笑って、「打てば響くように返ってきたな。やっぱりあんたは高級官
吏だ」と言った。
「さっきの話にも通じるけど、王や麒麟に対して、本当にみんな自分とは切り
離して考えてるんだな、って思って」だが少し前までは鳴賢自身もそうだった
のだ。「国を富ませるのも荒らすのも王で、自分たちは関係ないって感じで。
国が富めば恩恵を受ける。荒れれば暮らしが苦しくなる。そういう単純な図式
しか俺たちの意識にないのはどうなんだろう。それに六太が言ってたけど、慶
じゃ登極したばかりで右も左もわからなかった予王に、官が冷たくて全然協力
しなかったって。でも国ってのは、頂点に王がいるにしても、みんなで治める
ものじゃないのか。でないとうまくいくものもうまくいかないのじゃないか。
なのに何で王にばかり責任をなすりつけるのかな、って。その前に自分たちが
すべきことをやっていたのかって。
 だから俺は今は勉強する。なぜなら学生だから。王を含めた誰かを責めるの
ではなく、そうやってまず自分の本分を尽くして――無事に卒業できたら玄英
宮に行ってさ、少しでも六太の役に立てたらいいなって。
 そりゃ、官吏になっちまったら宰輔と気安く話せるわけもない。けじめとい
うものは大事だし、万が一、六太が俺を重用してくれたら――そんなことはな
いだろうけど万が一――贔屓だの何だのと陰口をたたかれるのは目に見えてい
る。それじゃあ逆に六太の足を引っ張るだけだ。だから俺は、上に何のつなぎ
もないただの新米官吏として働くことになる。それでも王宮に出仕できさえす
れば、下っ端なりに国政に役立てると思うんだ」
「うむ。何よりその心根が六太は嬉しいと思うぞ」
 そう言った風漢のまなざしは穏やかで優しく、いたわりに満ちていた。

471名無しさん:2011/12/25(日) 11:39:21
今年の投下はここまでです。

さて今年は何かと大変な方々が多かったと思いますが、
皆さまにとって来年が少しでも良い年になればいいなと思います。

というわけで少し早いですが「良いお年を」。

472名無しさん:2012/01/20(金) 07:38:37
ぎゃーつ続きが( 〃Д〃)モェモェ
姐さん、遅れましたがあけおめことよろです!
ネズミも好きなんで、楽春の名前に舞い上がってます。続き待ってます!いつまでもー!

473永遠の行方「王と麒麟(115)」:2012/03/08(木) 20:23:13

 今回の件で陽子が雁に連絡を寄越すときは、小さな紙片に記した蓬莱文を青
鳥で運ぶ、これまでの六太とのやりとりを装う取り決めになっていた。慶の諸
官に知られないようにするにはそれが一番自然で容易だったからだ。むろん今
度は陽子は、尚隆のみならず彼の近臣に文面を見られることを承知しているだ
ろう。
 その日、六太宛に届いた青鳥の内容は簡潔で、現状および景麒が訪問して以
降の進展を尋ねるものであり、今回も大司馬が推薦した海客出身の軍吏に翻訳
させた。ほんの数行の原文に対し、書き上げられた文章はずっと多かった。訳
文のみ記した書面が一枚、さらに元の蓬莱文と訳文を併記し、相互に単語の意
味を照合できる形で仕上げた書類を添付していたからだ。これなら文意をねじ
まげるなどの捏造を施しにくいだけでなく、そういった作為による誤訳を発見
しやすくもなる。さらには蓬莱文の素養のない人間でも、原文をそのまま理解
する助けになる。おそらく尚隆なら、あと二、三度繰り返せば現代の蓬莱文を
読み下す要領をつかめるだろう。
 軍吏は最初に訳させたときも同じ形式を用いていたが、別に大司馬の指図が
あってのことではなかった。海客を信用しない者がいたとしても、誠意を疑わ
れぬよう、ひいては取り立ててくれた大司馬に害が及ばぬよう工夫したものら
しい。
「なるほど」
 訳文が記された書面を大司馬から受け取った尚隆はうなずいた。感心した様
子の主君に、請け負った大司馬も満足だった。
 文面には六太の現状を尋ねる言葉、当事者でもないのに催促するようで申し
訳ないという詫びの文言に続いて、少しでも進展があったら教えてほしい旨が
連ねてあった。さらに、何が手がかりになるかわからないとのことなので、自
分がこれまで六太と話した内容を少しずつ書き送る用意があるとも。
「六太は陽子と親しくやりとりしていたのだし、わざわざ手紙で言及すること
はなくとも、慶を訪問した折にでも普段と違うことを口にしたかも知れぬ」
「確かに」
「では陽子の政務に支障がない範囲で書き送ってもらうとするか」
「実は主上。この文を訳させた軍吏も、例の団欒所に顔を出していたそうで
す」

474永遠の行方「王と麒麟(116)」:2012/03/09(金) 21:52:57
「ほう?」
 尚隆が眉を上げると、大司馬は続けた。
「作業を任せる前に口止めをしたのみならず質問も禁じていましたので、その
者自身は余計な口を利かずに作業しておりました。しかしあれも海客です。何
か言いたそうにしておりましたので、ふと思いついて尋ねたところ――」
「六太を知っていたというわけか」
「はい。ただし年に二、三度顔を合わせれば良いほうだったとあって、たまに
団欒所に顔を出す少年が台輔だということは気づいていなかったそうです。今
回の件で景王からの親書に台輔のお名前があったため、そこで初めて『もし
や』と思ったとか」
 あごをなでた尚隆は考え深げに言った。「その程度であれば大した話はして
おらぬだろうが、念のため聴取はしておくことだ」
「ではさっそく」
 しばらくして大司馬は陽子宛の返信を預かり、大司馬府に戻っていった。

 朱衡のほうも、重用している下吏から団欒所での六太の様子について聞き出
していた。
 ただ以前、団欒所を訪れた際に彼が懲りた様子を見せていたためだろう、話
を振っても下吏は躊躇して、あまり詳細な話はしなかった。そこで数日挟んだ
のち、執務の休憩の折に再度言及したところで、ようやく本格的に話を始めた。
「しばらく台輔の意識が戻らないなら、代わりに海客のことを気にかけてさし
あげたほうが良いからね。それに台輔の意外な姿について聞くのはなかなか楽
しいことだとわかった」
 朱衡がそう言うと、下吏も納得した顔になった。そして自分が団欒所に行く
ことになった当初から順を追って話しはじめた。
「でも前にも言いましたけど、俺、全然台輔に気づかなかったんです。団欒所
には守真って中年の世話好きな女性がいましてね、もっぱらその人と話してい
たし、確か最初に見たとき、台輔は恂生っていうもっと若い海客と一緒に子供
を遊ばせてやっていたから。俺は守真から蓬莱のめずらしい話をいろいろ聞け
るのがおもしろくて何度か顔を出すようになって、そこで仕入れた四方山話を
大司寇にするようになったわけです」

475永遠の行方「王と麒麟(117)」:2012/03/09(金) 23:34:34
 団欒所には海客の楽器もいくつか置かれていた。三度目か四度目に訪れたと
き、関弓の幼い子供たちにせがまれた守真が、ピアノという楽器で童謡を弾き
だした。彼女に合わせて恂生も琵琶に似た楽器を弾き始め、そこへ顔を出した
六太が打楽器を合わせ始めた。ここに至って下吏は初めて六太を注視したの
だった。
「蓬莱の童謡ってのは本当に子供向けの他愛のない歌なんです。でも俺は詞も
知らなかったし、端っこで他の連中と話をしながら何となく聴いていただけで
す。そりゃ途中で、どっかで見たような顔が鼓を叩きはじめたなぁ、とは思い
ましたけど、離れていたしあまり気にしませんでした。大司寇をご案内したの
はその頃で、台輔だって言われて、もうびっくりですよ。でも確か、次に行っ
たときは台輔はおられませんでした。むろん大司寇に口止めされてたから、
こっちに気づかれたらまずいとは思ったんで、むしろ好都合でしたけど」
 そもそも団欒所の開放日は決まっているし、それなりに忙しい六太がいつも
顔を出せるはずもない。
 それから数ヶ月の間、下吏がそこで六太を見かけることはなかった。その間
彼は恂生と話すようになり、恂生が蓬莱で「バンド」という小さな楽隊に参加
していたことを聞いたのだった。
「なんか凄いんですよ。恂生は大学生だったって言ってたから、官吏になるつ
もりだったんでしょうが、蓬莱でも楽は高官の嗜みなんですかね。自分で詞を
書いたり曲を作ったりもするんだそうです。守真が弾く曲は童謡だったり、
『クラシック』っていう綺麗で落ち着いた曲だったりするんですが、恂生のは
全然違ってて。われわれの音楽に似たものがないんで説明が難しいんですが―
―あ、そうか、大司寇は一度お聴きになったんですよね。あれ、本当はうるさ
いだけじゃないんです、意外と奥が深くて、たとえば蓬莱でも若者なんかは既
成の概念や体制に対する怒りに似た反抗心を持っていて、その心情のひとつの
表現として――」
 どうやらこの下吏は海客の音楽がひどく気に入っているらしい。最初こそ話
すのも遠慮がちだったというのに、朱衡がほほえんで聞いているとだんだん口
調が熱を帯びてきた。そしてひとしきり拳を振り回すようにして蓬莱の音楽に
ついて熱く語ったあと、ようやく「あっ、すいません、つい」とあわてた顔で
言葉を切った。
「気にしなくていい、なかなか興をそそる話だ」

476永遠の行方「王と麒麟(118)」:2012/03/09(金) 23:55:08
 朱衡は笑いながら言った。実際、これまで六太の口から聞いた覚えのない内
容だけに興味深かった。
 彼は恐縮した相手を促して話を続けさせ、団欒所で下吏が守真や恂生から聞
いた六太の言動に耳を傾けた。そしてこれほど長くつきあいながら、今まで六
太のそんな面を知らなかったことを不思議に思い、おそらく尚隆も興味深く聞
くだろうと考えた。

「台輔は最初から蓬莱の音楽を好んでおられたわけではないでしょう」下吏か
ら聞き出した内容を報告した朱衡は最後に言った。「ただ、海客にこちらの言
葉を覚えさせるに良い手段だとひらめいたのだと思います。実際、旋律という
ものは耳に残ります。詞がついていれば一緒に覚えるでしょう。どうやら日常
生活で使われる頻度の高い語を選び出して詞に入れ、それに合わせた曲を海客
の青年に作らせて頻繁に歌わせることで、われわれの言葉を学ばせていたよう
です」
 内議の席にいた他の重臣のうち、大司馬もうなずいた。
「うちの海客の軍吏にも尋ねてみたが、実際に効果は上がっていたらしい。わ
れわれの言葉のみで詞を作ったり、はたまた蓬莱の言葉と交互に繰り返したり、
いろいろ種類があるようだ。単純に一から十まで数を追うだけの歌もあり、団
欒所に来た関弓の民もそれで片言の蓬莱語を覚えたという。かなり意思の疎通
に役立ったのではないかな」
「台輔は目のつけどころが違いますね」他の者も感心した様子だった。
「ただ密かにおやりになっていたことだけは不思議ですが」
 朱衡が首を傾げると、尚隆は「別に隠していたわけではあるまい」と笑った。
「おそらく遊びの延長で始めたのだろうし、あくまで趣味の範疇と思っていた
のだろう。しかし試みを始めたのが数年前でありながら、この短期間でかなり
の効果が上がっていたとすれば、いずれ何らかの形で大きく取り上げるつもり
だったのかも知れん」
「ああ、それもそうですね」
 件の下吏が語ったところによれば、六太は恂生にいくつかの蓬莱の楽器の手
ほどきを受けたらしい。ということは以前朱衡が言った「太鼓をぽこぽこ叩く
程度」ではなく、一応はそれなりに弾けたのだろう。少なくとも恂生や、たま
に加わる軍吏の華期と楽しく合奏したこともあるとの話だった。

477永遠の行方「王と麒麟(119)」:2012/03/14(水) 23:33:43
「俺が笛を吹くときはつまらなそうな顔をしておったのになあ。俺の腕前では
興味がわかなかったということか」
 尚隆が情けなさそうな顔で溜息をついたので、近臣らは笑いを漏らした。
 朱衡に続いて報告した大司馬は、六太は海客と作った歌を、子供らを含めた
関弓の民の前で歌うこともあったと告げた。新しく歌を作ったとき、守真や恂
生と交代で、あるいは一緒に披露したのだという。
「ほほう、それはそれは」
「あの台輔がねえ」
 少年の姿を留め、声変わりもしていない六太が、子供らの前で元気よく声を
張り上げて歌うさまを想像するのはほほえましいことだった。一から十まで数
える歌も、曲を作った海客らと一緒ににぎやかに披露し、関弓の民もそれを聞
きながら覚えて一緒に歌ったのかもしれない。尚隆も楽しそうに笑みを浮かべ
ながら報告を聞いていた。
「あら」
 ふと大司徒が眉根を寄せたので、他の者が「何か?」と尋ねた。大司徒は周
囲を見回しながら、おずおずと言った。
「あのう、思ったのですが、台輔は歌うたいになりたいとか――まさか、そう
いう夢をお持ちだったわけではない、ですよね……?」
 他の者は一瞬呆気に取られ、ついで吹き出した。
「まさか」
「あくまでお遊びでしょう。たまたま結果的に海客の役に立っただけで」
「はあ」
「だが――まあ……」
 ひとしきり笑ったあとで、彼らは真顔になって顔を見合わせた。
「可能性としては、なくもない、か……?」
「さ、さあ?」
 うーん、と真剣に考え込む。だがそれを見守る尚隆はと言えば気楽な顔で、
「なるほど、ありうるな」とおかしそうに笑っているだけだ。
「あ、そういえば」声を上げた朱衡に視線が集中する。
「大司寇、何か?」
「今、思い出したのですが、こんなことがありました。何十年も前のことです
が」

478永遠の行方「王と麒麟(120)」:2012/03/14(水) 23:40:02
 当時、朱衡の下吏がまだ私邸で奄をしていた頃、蓬莱から流れてきたらしい
雑貨を興味半分で買い求めたことがあった。その中に蓬莱の楽器を演奏する女
性をかたどった美しい陶器の置物があり、小さなものだったせいか状態が良く、
譲られた朱衡は私邸の片隅に飾っていたのだという。
「あるときたまたま台輔がそれをご覧になり、これはピアノという楽器だと説
明してくださいました。たいそう気に入ったご様子でしたので差し上げたとこ
ろ、しばらくして仁重殿に伺ったとき、件の置物が大切に飾られているのを拝
見いたしました」
「ほう」椅子の肘掛に頬杖をついて聞いていた尚隆も考え深げな声を漏らした。
「すっかり忘れておりましたが、普段あまり物に執着なさらない台輔にしては、
ずいぶんお気に召したようでした」
「なるほどな。いずれにせよ、あれが思ったより音楽に興味を引かれているこ
とはわかったわけだ。まったくそれならそれで、俺の笛にも多少なりとも関心
を持ってくれればいいものを」
 尚隆がふたたび情けない顔で「俺の立場がない」とぶつぶつ愚痴ったので、
近臣らからまた穏やかな笑いがこぼれた。いったん微妙に緊張した空気がほぐ
れ、なごんだ雰囲気の中で彼らはあれこれ語り合った。
「台輔が歌うたいになりたいという夢をお持ちだったか否かはさておき、お目
覚めにならなければかなうはずがない以上、少なくとも呪者が設定した解呪条
件ではありませんね」
「ま、いちおう詰めている冬官には伝えておきましょう。手がかりになるかも
しれませんから」
「しかし台輔も意外な面をお持ちだったわけですな」
「拙官も海客が作ったという歌に興味が湧いてきました」
「ええと、一から順に数える歌でしたか、いずれそれを歌っている台輔のご様
子を拝見したいものですね」
「そういえば台輔はあれで、たまに意外なものに関心を見せることはありまし
たな。厨房で粉がこねられて菓子が焼きあがるまでをじっと眺めていたり、工
人が殿閣を修理している様子を飽きもせずにごらんになっていたり」
「そうそう。時折、宮城のあちこちをうろちょろなさって」

479永遠の行方「王と麒麟(121)」:2012/03/14(水) 23:53:00
「外朝にある宿舎に御髪を隠して入りこみ、官吏の幼い子弟と遊んだりもして
いたそうですよ。台輔に拝謁のかなわない身分の者が多いため、いまだに台輔
の正体に気づいてはいないようですが」
 尚隆はこれらの話に興味深そうに耳を傾け、時折「ほう」と意外そうな声を
上げた。そして「それは知らなかった」とおかしそうに笑った。
「主上はさっさと関弓山を抜け出して下界に行っておしまいのことが多いです
から、確かにこういったことはあまりご存じなかったでしょうね」
 近臣らも笑いながら答え、ひとしきり、こんなことがあった、あんなことも
あった、という思い出話の花が咲いた。尚隆は穏やかに微笑したまま、時折
「そうか」と静かな相槌を打っていた。

 仁重殿を訪ねた尚隆は、笑顔で軽く手を振って女官らをさがらせた。牀榻に
足を踏み入れ、いつも黄医がかけている椅子に腰をおろす。
 表情に穏やかな微笑を留めたまま、彼はやがて静かに吐息を漏らした。眠る
半身にからかうような視線を投げ、口角を上げてにやりとする。
「――まったく」口の中でつぶやく。「何と言っても五百年だぞ。なのにそれ
だけ長い付き合いがある俺さえ、おまえの望みを知らぬ。おまけに関弓山内部
でのことに至っては、俺より他の者のほうがよく知っている。困ったことだ」
 そのまましばらく六太の寝顔を眺めていた彼は、ふたたび吐息をつくと言っ
た。
「別行動も多かったからな、逆におまえも俺について知らぬことは多かろう。
――そう、ひとり旅の途中、たまに奏国の太子と出会うことがあるのだが、他
の者に言ったことは一度もないゆえ、おそらくおまえも知らぬだろうな。街道
の奥まったところにある田舎に素朴な飯を食わせてくれる老人がいて、ここ二
十年ほどたまに訪ねて行くことも。その昔、碁石を集めていたことも、その理
由も――だがな」いったん言葉を切ってからまた続ける。「それでも俺は淋し
いぞ。これだけの歳月を過ごしながら、ただいたずらに時を重ねたに過ぎな
かったのか。互いに知らぬことばかりだが、そもそも相手のことを知りたいと
思うほど興味がなかったのか。生命を分けあっているはずの俺たちなのに、絆
と言えるものは何もなかったのか」
 それだけ言って尚隆は黙り込んだ。そうして長いこと経ってから微笑ととも
に繰り返した。「淋しいな」と。




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板