●ウクライナ戦争の責任はアメリカにある!――アメリカとフランスの研究者が
遠藤誉中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
4/13(水) 17:11
>>アメリカの国際政治学者で元軍人のジョン・ミアシャイマー氏とフランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏が「ウクライナ戦争の責任はアメリカにある」と発表。筆者の「バイデンが起こさせた戦争だ」という見解と一致する。認識を共有する研究者が現れたのは、実にありがたい。
ttps://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220413-00291294
●「アメリカはウクライナ戦争を終わらせたくない」と米保守系ウェブサイトが
遠藤誉中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
4/16(土) 11:37
>>4月14日、米保守系ウェブサイトが「アメリカはウクライナ戦争が停戦になるのを邪魔している」という趣旨の論考を発表した。15日には中国のCCTVが同じ解説をしている。双方の見解を比較してみよう。
◆米保守系サイト「ワシントンはウクライナ人が最後の一人になるまでロシアと戦う」 反ネオコン(ネオコン=新保守主義)を掲げるアメリカの純粋な保守系ウェブサイトであるThe American Conservative(アメリカの保守)は、4月14日に<Washington Will Fight Russia To The Last Ukrainian(ワシントンはウクライナ人が最後の一人になるまでロシアと戦う)>という見出しでバイデン政権の好戦性を批判する論考を発表した。
ttps://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220416-00291675
今年の2月24日、ロシアによるウクライナ侵略を予測できなかった遠藤誉氏をそれでもプロの学者なのか?と手酷く批判したが、今は私も遠藤誉氏と同じ仮説に行きついた。彼の仮説に賛同して支持している。バイデン大統領とゼレンスキー大統領の方がロシアを攻撃して挑発しているのではないか?ウクライナ側にも戦争の責任があるのでは?と感じ始めたのは、3月以来苦戦しているロシア軍と善戦しているウクライナとで、何度か停戦の機会があった、なのに停戦が持ち上がるとウクライナ側が故意にそれを潰してきたから。3月下旬以降はウクライナ側・ゼレンスキー大統領もロシアプーチン大統領と同罪だと思い始めた。ロシア側にもウクライナ側にも死者が出ている、一刻も早く戦争を終わらせて…と気にして毎日ニュースを見ていたから、ウクライナ国民の死を嘆きながらも、なぜか停戦の機会をことごとく潰すゼレンスキー大統領とバイデン大統領にだんだん「???」と違和感を感じ始めた。今ではバイデン大統領とゼレンスキー大統領こそプーチン大統領と並ぶ戦争犯罪者だと見ている。
兵器よりも医薬品や食料など人道支援だけにした方がいいと思う。兵器を渡したら、停戦後、それをウクライナが他国に売り払うかもしれない。中国の兵器開発を支えているのはウクライナの兵器技術者。ロシアとウクライナが北朝鮮に核やミサイルの技術を販売したように、中国にも空母や戦闘機の技術を販売していると気づいてからは、プーチン大統領とゼレンスキー大統領、バイデン大統領が消えればこの騒動は終わる、三人とも早く消えてくれと願っている。
●第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』(ウクライナ第1)(独:14. Waffen-Grenadier-Division der SS (galizische Nr. 1))は、武装親衛隊の師団である。1943年、ウクライナ西部のガリツィア(ドイツ語名:ガリーツィエン、ウクライナ語名:ハルィチナー)からの義勇兵で編成され、ブロディをめぐる戦闘で大損害を受けた後、再編成されてウクライナ国民軍(英語版、ロシア語版、ウクライナ語版)第1師団と改名、連合軍に降伏するまで、スロバキア、ユーゴスラビア、オーストリアで作戦任務に就いていた。
>>そして、ウクライナ東方カトリック教会、ウクライナ正教会も師団の支持をしており、キエフ正教会府主教ムスティスラウの息子もそのメンバーであった[5]。
>>その後[編集]
ウクライナ将兵はイタリア、リミニの収容所へ収容された。ウクライナ国民軍第1師団に改称していたこと、師団将兵が1939年まではポーランド国籍であったという事実、そしてバチカンの介入により、ソビエト連邦への送還は避けられた。ウクライナ東方カトリック教会の司教ブチュコは、ローマ教皇ピウス12世に対して、師団将兵は「良きカトリック教徒であり、熱心な反共主義者である」と取りなした。バチカンの介入を受けてイギリス当局は、師団将兵の登録を戦争捕虜から自発的な降伏者へと変更した[21]。いくつかの情報源によれば、師団将兵のうち176名がヴワディスワフ・アンデルス率いるポーランド軍に参加したと伝えられている[22][23]。1947年、師団の元将兵は、カナダ、イギリスへの移住を認められた[24][25]。