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愛国青年連盟  全日本愛国者団体会議

1名無しさん:2013/12/13(金) 20:46:24
荻島峰五郎 (愛国青年連盟 会長  国粋会 理事長 国粋会前川一家六代目 全日本愛國者團体會議 議長)
博徒の親分であり、全愛会議の中心人物でもあった。
ここで、右翼としての荻島先生の経歴を簡単にみてみることにしよう。
荻島峰五郎先生は大正四年十月十日、埼玉県生まれ。
昭和八年には愛国社に出入りしていたというから、十代後半で既に右翼運動に関わっていたことになる。
戦時中は軍属として中国で働き、戦後は、三十五年九月に岩田愛之助氏の愛国青年連盟を復活させ、
その代表となり、四十年十一月に全愛会議議長団に選ばれる。
四十一年四月青年思想研究会顧問(四十四年脱会)、四十三年全愛会議相談役、四十五年には全愛会議の副議長や関東協議会会長を務めた。
更に、四十六年四月日本同盟常任相談役、翌四十七年から全愛会議議長団、という具合であり、一貫して右翼運動の指導に当っていたことがわかる。
この間、三十三年七月に日本国粋会常任幹事、三十四年九月国粋青年隊常任相談役、そして、三十六年の十一月に前川一家六代目を継承した。
その後は、四十六年六月から日本国粋会理事長を務めるなどし、平成三年六月五日に没した。

政治結社 愛国青年連盟 上野総本部
昭和3年(1928年)岩田愛之助により創設される。機関紙は「愛国新聞」。中国及び満州に関する問題に積極的関与、各大学で反共産主義右翼学生の組織化を企図した。
田中義一内閣打倒や農村での青年に対する実践教育などを行っていたが、一躍、愛国社の名を広めたのは、昭和5年(1930年)ロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題で、
愛国社社員の佐郷屋留雄氏が東京駅において浜口雄幸首相を狙撃し重傷を負わせた(このときの傷がもとで、浜口は死去)ことによる。後に大日本生産党に参加した。
青年組織として愛国社青年連盟(俗に「愛連」とも「浅草愛連」とも呼んだ)があり戦前はファッショの片棒を担ぎ、戦後も斯界の大物である大沢武三郎団長が反共暴力団として名前を売った。
初代 大澤武三郎・二代目 荻島峰五郎・三代目 堀田昇・四代目  斉藤 征彦




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